『ギリギリの女たち』(2012年)

http://girigiri-women.com/

監督:小林 政広
・撮影は去年(2011年)の8月だというから311の震災からまだ半年足らずの時期。実際に流されて崩れた家などの側を歩く映像など、まだ津波地震の被害と爪跡がまざまざと残っている被災地の姿が映像に映しだされている・・・だが。

・全然ギリギリに感じない、全然ギリギリに思えない。演技からも長々としたしゃべりからも、映像からも、ギリギリの状況なんてものが全く伝わってこない。振動もしていない。ピリピリと肌に刺さってくるわけでもない。被災地で云々だあれこれ語られているが、実際の津波に流された家や港の映像には紛いなきあの311の状況が出ている。それが真実であり現実だからだ。だがそれ以外の役者、演技、話、演出、台詞・・・顔、表情、仕草、服、食べ物、空気、風、光・・・そういったもの全部に、ギリギリの状況なんて出ていない。この映画のどこがギリギリの女たちなんだ? 

・生活ギリギリ、被災してギリギリの女達が庭にテーブルだしてカレー食うというのは変。というか震災6ヶ月の被災地で野菜サラダやカレーをバクバク食ってるってギリギリの状況じゃないだろう。学校や公民館なんかの避難所ではまだまだ大した食い物もなく、配給みたいなことしていた時期なんだから。コンビニやスーパーは再開して食料品もごく普通に売ってる状況は戻ってきていたとしても、震災後の夏、地震で流された人の生活はとてもそんなものを余裕もって外で食うような状況じゃなかったはずだ。それでもってその後に「人間って大して食べなくても生きていけるんだよね」か・・・。

・震災関係の映像で一番憤りを感じだ河瀬直美らの『311 映画監督62人が見つめた大震災』からプンプンと感じていた偽善の臭い。311を扱った映画にはどれもこれもすくなかぬ偽善の嫌らしい臭いが漂う。あのとてつもない、恐ろしい自然の猛威、その大災害のど真ん中に居た人でなければ、それを離れた場所から見ていた者には、あの史上最大ともいえる悲劇の状況、その後の被災地の状況は描けないのではないか、どこかにかならず安全でなんでもない場所の感覚から見た、その感覚から決めつけた偽善の目と臭いが映像に浮かんでしまうのだ。