『愛と誠』

この映画はどこに、誰に向けたんだろう? いや、そんな誰かをとか何かをとかどうゆう世代とか、そういう特定のターゲットを考えて、いわゆるマーケティングをして撮ったというんじゃなくて、企画が上がってきた段階で三池が自分の好き勝手にやったという映画だろうな。

1970年代の学生運動やら歌やら、あれこれ映画のなかで描かれている雰囲気は原作を読んだり70年代の映画を観ていた人には懐かしさもあるのだろうが、それが感傷を引き出すものではない。ぜんぶオチャラケで使っているのだから。

あの素晴らしい愛をもう一度」を唄う武井咲がじつにいい。古臭くホントに70年代の雰囲気というべき。

漫画の原作者である梶原一騎は・・・確かにこれじゃ泣いてるかもな。いや、ここまでやってるなら許してるか? いやーここまでの原作無視の改変は許さなかっただろうな。梶原一騎にして観たら自分が血肉を削って創作した作品がまったく別物のギャグに変えらてしまっているんだから。どっちにしても原作が描こうとしていたことはこの映画には全くないし、原作が描こうとしていたこともまったくない。原作の登場人物と設定のほんの一部だけを拝借して作った全く別物のお話であり映画。ある意味製作サイド、プロデューサーなんかは「もう原作者死んでるんだから文句もいわれないよ、いいよいいよやっちまえ、死人に口ナシさぁ」ってとこだったのかと邪推する。

言ってみればこれも原作冒涜、原作レイプなんて言われる類い映画と同列であり、これほど酷い原作レイプもいまだかってないだろうが、それがどうしょうもない低レベルの作品ではなく別物映画として見事に変わっているのだから、原作のレイプではなく原作の思いっきり改変、デフォルメ、ちゃかし、おふざけ、コメディー化というべき。だが、原作漫画を愛読したり、1970年代の映画に熱中した世代からすれば、やはり原作レイプだろうな。それともこういう感じならそういう人達もこの作品を許せるのかな?

観ている途中までは「ある意味ここまで原作をデフォルメして、こんなトンデモ・ギャグ映画にしてしまっうんだから、別の意味で傑作かもしれないな」なんて思っていたのだが、段々とその気持に陰りがでてくる。なんかヘンだぞ、なんかこれオカシイぞと。そして気が付いたのだが、ようするにこれはなんなのかというと、TVでその昔のたけし軍団とか漫才コンビとか、とんねるずとか、今ならナイナイとかが悪辣なギャグ番組のなかでなんでもかんでもコケにしてチャカしてお笑いをとっていたあの番組のノリなのだ。話題になっているものを真面目だろうが真実だろうが、悲劇だろうがなんだろうが全部チャカしてコケにして笑いをとっていたあのテレビ番組のノリで2時間14分もの長いこと映像を繋げ続けたそういう映画なのだなと、


最初はこのデフォルメの強烈さに驚き、すごいなと興味津々に観ていたが、だんだんとくだらないギャグレベルだなと目を細めていく。1時間半辺りまで見てもうなんだかうんざりして流し見。ラストは原作っぽく”愛”にしてはいるが・・・これで134分とは・・・愚作。

原作もなんにも知らない人にとっては、はち切れた風変わりなへんてこギャグ映画。原作を知っている人、原作を愛してる、原作に思い入れのある人にとっては最低最悪の原作冒涜映画となるだろう。