『二郎は鮨の夢を見る』(2011)

・外国人が撮ると、どうしてもこういう映像になってしまう。情緒とか奥ゆかしさとか日本人としていつも自分が見ている日本とは違った絵が広がる。松田優作の『ブラック・レイン』のときも同じことを感じた。巨匠とまで言われるリドリー・スコットが監督なのだからどんな日本が描かれるのだろうと期待していたら、出てくる映像はまるで中国、香港映画のそれ。日本らしさ、日本的なものなんて全然ない。「これって香港で撮ってるの?」と言いたくなる絵だった。

・この映画も見ていると自分が感じている日本とは違った絵に見える。外人は日本というのはこういう風な色、こういうふうな場所、こういうふうな人として見ているということなのだろう。

・このドキュメンタリー映画を見ていて強く感じたことは、監督やスタッフは日本の鮨の素晴らしさ、その極上の美味さ、そういうものを映像で伝えようとしたのではないんだろうということだ。観ていて「これは美味そうだ」とか「こんな鮨を食べてみたい」という気持ちが全くもって、全然湧き上がってこない。ミシュラン三ツ星の日本でも最高と言われる鮨屋ドキュメンタリー映画なのに、観ていてヨダレが出てくるような美味しそうな場面は一つもなく、食欲が喚起されることもなく、まったくもって鮨の旨さだとか素晴らしさというものが伝わってこない。

・この監督は当代一の寿司職人を題材にして何を撮ろうとしたのだ。食の素晴らしさ、鮨と言うものの素晴らしさ、その限りなき奥深さ、その極めつけの美味。そういうものを撮ろうとしてないのだ。だから映画を観ていて美味そうだとも思わないし、食べたいなとも思わないし、腹も鳴らないし、ヨダレが出てくるわけでもない。一体何なんだこの映画はと見ている途中で怒りさえ覚える。

・百万歩譲って、鮨職人二郎とその息子たち、弟子という人間を描こうとしたのか? と考えてみるとしよう。人間に焦点を当てたのだと考えてみるとしよう。だとしても、二郎と二人の息子との関係や二郎本人がどういう苦労をしてきたかなどは映像の中で語られているが、それだからどうしたというのだ。こんな風に苦労をしてきて今ミシュランの三ツ星をもらう店になったんですよということを説明して、それでなんだというのだ。そんな説明を映画の中でされたって、誰も感動も感激もしないだろう。ただの情報として映像が流されているだけだ。必要なのはそれだけの苦労の末に、今コレだけ素晴らしいものが生み出されているんだというその点なのだ。今、二郎やその息子たちの手でどれだけ素晴らしい鮨が生み出されているか、それを伝えずして、それを感じさせずして何を況んやなのだ。

・鮨の素晴らしさ、旨さを映像で表現出来ずして、現在過去の苦労話を映像にしたとしてなんになる。そんなことなら《すきやばし次郎の鮨》でなくてもなんだっていいだろう。苦労の末にうみだされた傑作を伝えず苦労だけを伝える、本末転倒、愚かさの極み。この映画の監督は映画をつくる視点も感覚も洞察も表現もなにもかもが極めて薄っぺらで浅はか。ただ単に話題性になる題材、少しでも注目を集めそうな題材を選んで映画にしただけで、そこに深い思慮もなにもない、極めて低レベルのただ単に動く映像を編集しただけで感情がなにもこもっていない映画だ、正に愚策の極みである。

・これならNHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」ですきやばし次郎を取り上げた回のほうが何十倍もいい。二郎本人にも、鮨の旨さ、それをいかにしてうみだしているかという部分にしっかりと踏み込みそれを伝えようとしている。

・ようするに、この監督やらカメラマンやらスタッフらは鮨の素晴らしさやその奥深さ、その旨さというものを全くもって理解していないのだろう。分かりもしないし分かろうともしていないのだろう。日本というくにの世界でも稀な鮨という食の特異さに目を付けただけであり、その文化、歴史などはこれっぽっちも描こうとしていない。だからこんなセメントを舐めているような無味な映画になっているのだ。

・しかもだ、魚や烏賊の腹わたを取っている場面だとか、血合いを洗っている場面だとか、築地市場にならんでいる魚を品定めしてマグロの尾肉に手を入れ肉をもんでいる場面だとか、通常の食を題材にした映像なら映すことのないような場面が多々みうけられる。食材を厳選し、美味いものに仕込むために避けられぬ作業とはいえ、通常食を扱う番組、映像では映さない場面を相当に入れている。鴨肉の料理を伝える映像に、鴨の首を切り血抜きをしている映像を入れたらどうなる? ジビエの素晴らしさを伝える番組で毛をむしり、内蔵や血を取り出す場面を映したらどうなる、いかに美味い、上等な料理であろうともその前段階である言ってみれば汚れの部分を見せたら、人はその料理を食べたいと思うか? おいしいと感じるか。それはもう常識以前の問題だ。ナンセンス極まる。

・つまりこの映画の監督やスタッフは《すきやばし次郎の鮨の旨さ、素晴らしさ》を映像で伝えようなどとしていないのだ。外人に目から見た生魚を属する日本の鮨文化の奇異さ、奇特さに目をつけ、それを面白がり、好奇の目で取り上げているだけなのだ。

・外人が日本を撮ると、満員電車にギュウギュウ詰めの通勤ラッシュのシーンだとか、工場でやってる朝の体操だとか、ゲイシャ、キモノ、ニンジャ、最近ではアキバにコスプレ、そんなものがやたら出てくるが、つまりそういう好奇な外人視点とまったく同じ見方で当代きっての鮨職人を撮影しているキワモノ感覚で鮨をみている、それがこの映画なのだ。

・自転車で荷物用のエレベーターから下りてくるシーンにしても、ギャーギャーウルサイ六本木ヒルズエスカレータで上がっていくシーンにしても、好奇の目で日本を見ている外人が、そういう外人に受けるようなシーンを集めて撮った映画、それがこの映画だとも言えるだろう。

・ここまでこき下ろしたのでついでにもう一ついうと、カメラが全部見下ろし。店の中でも、鮨を握る姿も、同窓会も、とにかく全部上から見下ろし・・・背丈のデカイ外人がカメラ抱えて、しゃがみもせず、視点を対象によって変えフレームに区切られた絵が最高の姿になる場所を選ぶ・・・なんてこと、微塵も考えてないんだろうな。みんなおんなじ背の高さからただ撮ってるだけ、素人撮影、運動会や家族ムービ撮ってるのと同じ。日本の文化《鮨》を撮るならもうちょい小津でも勉強してから撮りやがれ! とでもいって終わりにしよう。

『シン・ゴジラ』

☆作品の内容に関する記述アリ。

・なんだか最後まで誰が監督なんだ? 結局樋口は監督じゃなくて特技監督か? と訳がわからない状態で公開まで来た「シン・ゴジラ」。

・予告編で観る新しいゴジラは古めかしくもあるが、いかにも凶暴で知よりも本能で動くケダモノ的であり、子供人気を取るために日和った今までのゴジラと比べたらかなりいい感じだと思った。待望していたゴジラ新作ということでそれなり、いやそれなり以上に期待はあった。

・そして、観終えた後の最初の印象は・・・「面白かった、なかなかに面白かった、映画を観た満足感もそれなりにあった・・・だが・・・」というものだった。

・一つの映画としての面白さはあった。だが、なんだ、なんだこの納得のいかなさは、釈然としない感覚は。自分は本当にゴジラの映画を観たのか? これはゴジラ映画だったのか? なにかゴジラ映画を観た気がしない、待ちわびていたゴジラ映画を遂に観たのだという気持ちが全然しないのだ。

・この映画をポリティカル・サスペンス(まあ、日本語なら政治緊張劇とでもいうか?)と呼ぶ向きもあるようだが、まさに、そういう政治的な部分にかなり焦点を当てた話になっていることは確かだ。それが面白かった、それが良かったと、政治家や官僚どもの描写を評価する向きもあるようだが・・・そんなものを観たかったわけじゃない。たとえその部分の脚本や演出、描写が今までに無く優れていたものだとしても、ゴジラ映画で観たかったものはそんなものじゃないんだ。

・3.11の東日本大震災メルトダウンを起こした福島の原発ゴジラに置き換え、あの当時の本当にどうしょうもなかった民主党の最低で最悪な対応を元にして、今ゴジラがが東京に現れたらどうなる? と想定した話を作り上げた発想は非常に面白い。クズ政治家やクズ官僚どもの描き方も至って緻密であり、よく観察し、よく調べ、よく練り上げて脚本にしていると感心する。しかしだ、この映画はその政治的な部分の作り込み、それを主として描くことに執心してしまい、一番肝心なものを、一番大事なものを、本来は主としてあるべきものを、あろうことか脇役に降ろしてしまったのだ。いわずともがな、それがゴジラ

《この映画は主役をゴジラから政治家や官僚どもに置き換えてしまっている》

・この映画の最大の批判すべきところは、ゴジラ映画からゴジラを主役から外し、危機対応する(のちに書くが全然危機感がない)政治家や官僚どもを主役として本を、映画を作っている点なのだ。

・公開から日が経つにつれて「シン・ゴジラ」の評価は上り調子で、傑作だ、素晴らしい出来だ、その多くがこの映画の中の政治的なやりとり、駆け引きの部分、ポリティカル・サスペンスと言われる部分に面白さや、評価を与えているようだが・・・おい、ちょっと待てよ、話の面白さに巧くのせられて、ゴジラ映画であることを忘れていないか? この映画にはなにか大事なものが抜けて落ちていないか? 1954年に本多猪四郎が撮った「ゴジラ」にあったもの、それは《恐怖》だ! 得体のしれない巨大な未知の生物に襲ってくる恐怖、それがほぼ、全くと言っていいほどこの映画からは感じられないのだ。

その原因は、映画の描き方にもよる。

・巨大生物がやってきて逃げ惑う人々の恐怖・・・それがまるでスクリーンに描かれていないのだ。ゴジラがやってきて怯え、悲鳴を上げ、我先にと逃げようとする恐怖にかられた人間、その表情、そういったものがほぼまったく映し出されていない。

・蒲田での人々が逃げ惑うシーンの撮影時に演出部からエキストラに配られたたという「蒲田文書」なる“演技心構え”の文書がネットに流れ、これを読むことが出来るが、そこには「巨大不明生物に襲われて逃げ惑う市井の人々」役の心得が書かれ、

《まず、巨大生物の恐怖を観客に感じさせる最も効率的な方法は、「逃げ惑う市井の人々がまるで本当に襲われているように見えること」。だが、単に芝居で恐怖の表情をしたり、大きな叫び声をあげたりすれば良いわけではない》

《もし本当に巨大不明生物に襲われた場合、人はその人の個性によって違った反応をすると思います。猛ダッシュで逃げる人、ノロノロと逃げる人、体が固まり動けない人、興味が勝り写真を撮る人、顔を巨大生物から背けず体だけが逃げる人、子供を必死に守ろうとする人、連れとはぐれ人波の中で探し続ける人……それら個性の集合体が、画面に力強さと、リアリティと、本物の恐怖を与えてくれると、我々は考えています》

《それぞれのエキストラが「自分が巨大不明生物に遭遇したらどうするか」の想像力を稼働させることを求め、「皆さまお一方お一方にしかできないお芝居をしてください」》

等々、エキストラの人に対する演出部のお願いが書かれている。確かにこの文章を読むと製作スタッフの意気込みや熱い気持ちも伝わってくる・・・しかし! あの蒲田のシーンに恐怖はあったか! あの蒲田のシーンに巨大生物に襲われ我先にと必死に逃げる、生きたい、死にたくないと必死で逃げる人間の恐怖が映っていたか、映し出されていたか、映像にその恐怖が滲み出していたか! 断言する。あのシーンに恐怖はなかった。そしてあのシーンからブルブルと震えるような恐怖は微塵も感じられなかった、ゴジラが迫り来る恐ろしさなどあそこに映っている人、逃げ惑う群衆から、これっぽっちも、まったくスクリーンから伝わっては来なかったのだ。

それは、この映画が恐怖に逃げ惑う一般の市井の人々の表情をほとんど映していないことに大きく起因する。

1954年の「ゴジラ」にあった人々の恐怖、それはこの河内桃子のワンカットだけの表情でもありありと、ひしひしと伝わってくるものだった。

・そういった人々の恐れおののく表情がシン・ゴジラにはまったく描かれていない。人々が逃げ惑うシーンに恐怖を感じさせようとしたではあろうが、出来上がった映画から感じられるのはただ単に逃げろと言われて逃げているふりをしている群衆の後ろ姿、動きまわる絵でしかない。表情はまったく映していない。そこに悲壮感、必死さがない、恐怖もない、だからゴジラにも恐怖が感じられなくなってしまっている。

・そして、この映画で主役の座を占めている、首相、官房長官、大臣、官邸の人間、官僚にも、全くと言っていいほど、これっぽっちの欠片さえも、あんな巨大な生物が東京に襲いかかってきているという前代未聞の恐怖が感じられないのだ。まったくもって、ゴジラを恐れている、もう自分だけでも我先に逃げ出してしまいたいという震えや恐れが感じられないのだ。

・どいつもこいつも、あんなゴジラへの対応をしているというのに、全然シャキとしていてて、顔から恐怖や恐れが微塵も感じられない。未曾有の危機が間近に迫っているというのに、さも平然とした顔で会議をし、対策を練り合わせ、ミサイル攻撃が効かないとわかっても「はあそうですか」といった顔つきをしているの。まるで役者が映画の中で役作りの脚本読み合わせをしているかのように、全く以て1人として恐怖が演じられていない。唯一常にしかめっ面をして周りから浮いて見える余貴美子だけが、ゴジラに対する恐怖を演じているといえよう。しかし、その周り全部がさらっとした顔で平然としているものだから、余貴美子の演技と恐怖が逆に浮いてしまっているというなんとも惨憺たる状態だ。

長谷川博己竹野内豊にしろ余りにスッキリ、シャッキリしていて、ゴジラに対峙しているなんていう恐怖がどこにも出ていない。この連中が退治しているのは、政治闘争や権力闘争をしている同じ政治家や官僚どもであって、日本をまさに破壊し潰してしまおうとしている人知の及ばぬ怪獣ではないのだ。ゴジラと対峙している人間を描いているのではなく、決して心底の恐怖など感じない政敵や出世のライバルである人間とやりあっているのだ。だから、なんども繰り返すがスクリーンから登場人物から、恐怖が、恐ろしさが、まったく、これっぽっちも感じられないのだ。それは市井の人々を誰一人としてしっかり描いていないからだ。ただ逃げる遠景を取っているだけだからなのだ。

・その他にも石原さとみにしろ市川実日子にしろ、完全におちゃらけのギャグキャラ設定になっていて、もう全くなにも怖がっている様子がない。

・さも現実味をだそうと「シャツが臭いですよ」なんてシーンを入れているのも、まさに取って付け。そんなこと言っている場合かと言いたくなった。

ゴジラ対策で会議室に泊まりこんで椅子で寝ている官房長官なんかよりも、まだボサボサ頭の市川実日子のほうが疲れているように見えるが、それにしても恐怖はどこにも存在していないのだ、まるで全部がギャグだ。

・で、結局この映画は何をいいたかったのか、何を表現したかったのか? それはゴジラの恐怖じゃないだろう。官邸の巨大生物登場対策シュミレーションの予行演習を描きたかったのか? それを見せられただけか?

・3.11をベースにした話の作り方は面白いが、それがゴジラ映画か?

・この映画を評価している側にしてもそうだ、おまえらは災害政治シュミレーションを見て面白がっている、内容が濃かった、出来が良かったと言っているだろう。それは、ゴジラを、ゴジラ映画を語っていないだろう。脚本の上手さ、展開の早さに見事に騙され乗せられて拍手をしている。ならばこれがゴジラ映画である必要など全くないだろう。どこを見ているんだ!

・まあ、巷では非常に評価が高まっている作品をここまで批判するのも、ゴジラ映画がゴジラ映画であってほしいからだ。

・最初に書いたように「面白かった、なかなかに面白かった、映画を観た満足感もそれなりにあった・・・だが・・・」なのだが、見終わって時間が経てば経つほど釈然としない気持ちが強くなってくる。

・すくなくともシン・ゴジラは、大量生産された第二作以後の子供向けゴジラシリーズよりはよっぽどイイ、平成ゴジラ・シリーズよりもよっぽどイイ、ミレニアム・シリーズなんかよりもずっとイイ。エメリッヒのGODZILLAよりもずっとずっとイイ、ギャレスのGODZILLAなんかよりも何万倍もイイ・・・しかしだ、だからこそ厳しく言いたい「これがゴジラ映画なのか」と! ゴジラを主役から外して政治家や官僚の災害シュミレーション・ゲームに終始したこの映画はゴジラ映画とは言えない。本多猪四郎が描いた《恐怖》や《人類への警笛》がまるで感じられない映画など、ゴジラがでていようがゴジラ映画とは認めない。そういうことだ。

余談:

・それにしても最初に出てきた第二形態のゴジラには面食らった。まさかあんなものを出してくるとは。第三形態もボタボタと体液やら血肉の塊のようなものを落とす様子が描かれていて、両方共それなりに気持ち悪く、不気味であったが、あのピンポン球の目はなんなんだ? あのピンポン球の目のお陰でせっかく不気味な気持ち悪さが出ていた第二、第三形態のゴジラがまるでアニメのヘンテコキャラのようになってしまった。そう、なんというかあの第二、第三形態はまるでエヴァンゲリオン使徒じゃないか。予告編で見ていた白い目のゴジラは原始生物のような不気味な怖さがあって期待を持てたのだが、第二、第三形態のあのピンポン球はもうダメダメ。思わず笑ってしまうよあれは。

・都会に燃え上がる火の中をのっしのっしと歩くゴジラ・・・これ、巨神兵そっくり。

・背中から紫の放射能光線を四方八方に発射するのはまるでイデオンか? ゴジラじゃないだろうこれも。しかもその放射能光線があちこちビュンビュンとのべつまくなく飛び交っているのに、ビルの屋上で放射能防護服に見を包んでぶつくさ言いながらゴジラを見ている官房長官らには笑った。おまえらそんな所にいたらあの放射能光線一発ビュンと来たら全員一瞬でお陀仏でしょう。いやはやまったく悠長なことだよ。

・最後の半減期の話はなんたるとってつけ、酷すぎ。

・白組のCG技術はここまで来たのかと思うほど凄い。ゴジラがビルに崩れ落ちるシーンなどもう見事としかいいようのない素晴らしい出来。「同じ予算を与えられて、ヨーイドンで同じCGIのシーンを作ったら日本の方がハリウッドなんかよりも上だ」と言っていた人がいたのだが、今回のシン・ゴジラを観たらその言葉に納得した。白組のCGI技術はレベルはもう世界水準といっても過言ではないだろう。

☆2017年7月8日再見

やっぱ、浅いな、コレは明らかに、おちゃらけ映画だなぁ。なにがポリティカルサスペンスだっちゅーの。という感想が。再び。やたら米国が、米国、米軍が、米軍ががとか、もううんざりうざったし。石原さとみの困ったちゃんアメリカ中枢に関わる女子ぶりは、改めてみていても、もうヘッ?という感じ。さらに評価は下がってしまった。なんだか再見したら、ギャレスのゴジラのほうがまだましだったかも? と思えてきた。いやはや、なんだこのゴジラ映画は。もうダメダメ。

『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』

・『シン・ゴジラ』の公開前に、昨年公開されて映画史上イチニを争う超駄作、どうしょうもない映画と評される『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』の前後編を観てみたが・・・。

・なるほど、最近の映画製作にありがちな、人気女優、俳優、アイドルをズラリと並べて出演させれば、それだけ客の入りが見込めるという作品の本質にはほとんど関係のない客寄せキャスティングの典型のような映画。個々にどれだけ人気があろうが、雁首ずらりとならべたところでその人気が累乗して重なっていくわけではない。こういう見苦しく浅ましくおぞましいまでの“雁首並べキャスティング”が行われるようになったのは『20世紀少年』あたりからだろうか。豪華キャスト勢揃い!なんて宣伝コピーじゃ動員は稼げないってことが未だにわからないのか。作品の中身、クオリティーよりも兎に角コケないように、大失敗して自分が責任とらされないようにってことで、人気者、知名度の有る者を集めよう!なんてやって、却って大ゴケを導いているってことに・・・気がついてもそれを是正できない、それが日本映画界というやつかもしれないが。

・それにしても本の酷さは有り余るほどだな。映画になにより大事なのは脚本だというのに、その脚本、物語がここまででたらめでメチャクチャじゃ誰も支持するまい。一本でまとまるような内容の作品を二本に分けて興行収入少しでも稼ごうってのも最近の邦画界のしょうもないところだが、今回の「進撃の巨人」に至っては前編が1時間38分、後編が1時間27分と・・・もうね、そこまでして観客から金を巻き上げたいのかと。前後編二本にするならどっちも2時間ものにして、内容もじっくり練り上げて、どっちを見ても充分満足というのにしろよと! 映画一本分の製作費で撮ったものを冗長に編集して2本仕立てにして鑑賞料倍にして取り上げようという魂胆があまりに酷い。

・監督の樋口真嗣にしろ、脚本に顔をだした映画評論家の町山智浩にしろ、また、今回の映画化に首を出した原作者の諫山創に、この映画のラッシュでも見た時に「なんだこれ、話の整合性がなってない、筋が通ってない、わけわかんないじゃない」って思わなかったというのか。いやぁ、普通に考えたらこれだけメチャクチャな展開で「なんでこうなるの?」ってストーリーに疑問をもたないわけがない。というかもっと最初の脚本の段階で話のつながりがおかしいだろう!って気がつく。そして撮影をしている最中でも、編集をしてるさいちゅうでも、どうかんがえてもフツーにこうくるのは見ていて疑問詞が着くだろうと思うはず。少なくとも映画という世界で仕事をしている人間なら、ギョーカイの外にいる一般の観客よりもその点にかんするアンテナは敏感なはずだ。いやそうでなくてはならない。それが・・・・

・その辺の裏事情に関しては嘘か誠かは不明として、ここに詳しく書いてあった。これを読むと町山は悪くない、悪いのは樋口と渡辺と諫山だ!ってことになってしまうが。http://d.hatena.ne.jp/type-r/20150822

・結局のところ、いろんな人間がいろんなところから首を突っ込んで、自分勝手なことを主張して、エゴモロ出しにして、ひとつの作品としての全体像を誰も見ることをせず、あっちこっちをネズミがガシガシ齧ってボロボロにするように脚本と映画をボロボロにしてしまったということだろう。

・正直、樋口真嗣にはアクションシーンや特撮シーンなどの「シーンをつくる」ことにかけては秀逸だと認めてはいるが、こと物語を紡ぐということ、一本の映画として物語をまとめあげるという能力にかんしてはもうダメダメどころかゼロといってしまってもいいくらいだ。特撮に力を集中させて監督なんて大業には今後手を出さない方がいい、出すのだとしたら脚本家が綿密に組み上げた映画の設計図である脚本を一字一句修正せず、脚本のままに映画として撮り上げることだろう。残念ながらこの『進撃の巨人』においては脚本そのものが最初からダメだった上にさらに改悪が随所に繰り返され、最後には見るも無残なボロボロつぎはぎだらけで、ストーリーにリズムも一貫性もなにもない最低映画に成り下がってしまったというほかあるまい。

・最初にキャスティングのことを書いたが、一人ひとり単独で見てみると、石原さとみにあのクレイジーなトンデモキャラをやらせたのは良かった。(話としてではなく、単純に一人のキャラとしてだ)映画のなかでは浮きまくりトンデモまくりだったが、石原さとみにあの手のキャラクターがこれほどピッタリとは驚きでもあった。

水原希子もミカサ役として映画のなかで他の登場人物と絡むと、なんだかなぁ〜という感じだが、じっと黙って何かを訴えるようなシーンで一人だけスクリーンに映っていると、なかなか味のある顔だし、顔だけで演技が出来る風でもある。顔に力があるのだな、モデルということもあるし。しかしそれが喋ったり演技をし始めると・・・ダメになる。

・サシャ役の桜庭ななみもナイス。大食のお馬鹿ちゃん的イメージが実にピッタリだが、弓を射るときはなかなかの眼力でカッコイイ。まああんまりセリフもなかったし、この娘も他と絡むシーンになると大根っぷりが出てきてしまっていたが、それでも存在感はあった。

・それに引き換え、男性のキャストは、なんだか薄っぺらで印象に残らない連中ばかり。シキシマ役の長谷川博己はいい感じかと思ったが、リンゴを食わせたり、シャンパングラス傾けたり・・・オイオイ、勘弁してくれよという演出の軽薄さが俳優の良さを台無しにしていた。

・2004年は「デビルマン」「キャシャーン」と最悪の実写映画が続いたが、10年経って悪夢は蘇り、この「進撃の巨人」の後に「テラフォーマーズ」という更に最悪の漫画実写化作品が公開されたわけで、考えてみると2015年は史上最低映画といわれる「進撃の巨人」で、その次の2016年に更に最悪といわれる「テラフォーマーズ」が続いたわけだから、去年から今年は邦画史上でも最悪の年だったのかも。まあ、その間にも「ガッチャマン」とかもあったけどね。

・そして今年2016年夏は「シン・ゴジラ」が公開される。監督の樋口真嗣は最近じゃプロモーションに一切出てこない。噂では、当初は樋口真嗣に「進撃の巨人」の監督をさせて、そのヒットの勢いで樋口の名前を広め、次に“あの「進撃の巨人」の監督である樋口真嗣最新作「シン・ゴジラ」と宣伝するつもりだったのが、あまりに「進撃の巨人」の評判がわるく酷すぎたので「シン・ゴジラ」の宣伝班は「だめだ、樋口の名前は使うな。せっかくの東宝の看板映画であるゴジラで失敗するわけにはいかん! 樋口の名前をだしたら「あの進撃の巨人を撮った監督だろう、じゃあだめじゃん」となってしまう。今後プロモーションで樋口の名前は極力伏せろ、そうだそのために総監督としてもっとオタク層に人気のある奴をもってきて樋口の名前を隠してしまえ」なーんてことになってるんじゃないだろうか。「シン・ゴジラ」の完成報告会見にも監督の樋口真嗣は顔も出さず、どこのも映らず、メディアの取材や記事も総監督庵野秀明で統一されちゃってるからね。もう明らかに樋口の名前を伏せようという意図が見えていてなんというか可哀想というか・・・監督やってるのにねぇ。

・そんなことを思いながら、進撃の巨人に出てくるあの巨大な巨人を見ていたら・・・ん、なんかに似てないか? 体の表面の奥に筋肉というか赤い肉のようなものが見えているこの造形、イメージ・・・・おいおい、シン・ゴジラも似たデザインじゃない・・・大丈夫なんだろうか? シン・ゴジラ・・・・・


『インデペンデンス・デイ: リサージェンス』

・「インデペンデンス・デイ」第一作からもう20年かぁ、時が経つのは本当に早いなぁという感じ。

・第一作はあの巨大なUFOが衝撃的で大ヒットしたけど、段々と中身のデタラメさに“お馬鹿映画”の称号が付き、それが高じてさらには「こういうお馬鹿映画も面白いじゃない!」と逆な意味でいう評価が上がった珍しい映画。自分も映画館で最初に見た時はそれまでになかった圧倒的な映像でスゲェ〜と思ったけれど、DVDとかで見返すと、なんともお馬鹿なシーン、ストーリーが満載で、次第に「これはSF映画じゃなくて、ギャグ映画だな」と思うようになった。

・その「インデペンデンス・デイ」が20年という時を経て続編の製作と聞いて、うわー、どうなるんだろうと面白半分で期待していた。なにせ監督のローランド・エメリッヒは「インデペンデンス・デイ」(1996年)以降はと、トンデモ映画、オイオイ映画ばかり作ってきている監督で、作品の質を期待することは殆どない。「エメリッヒでしょ? どうせ!」と言われるような監督だったからだ。(興行収入はそれなりにいってるところは凄いが)

GODZILLA ゴジラ」(1998年)
デイ・アフター・トゥモロー」(2004年)
紀元前1万年 10000 BC 」(2008年)
「2012」(2009年)

・さて、そして20年ぶりに帰ってきた「インデペンデンス・ディ:リサージェンス」、CMや予告編を見るとCGIのレベルが相当に上がっているし(20年前の第一作の時は爆発シーンなどで火薬を使っていたり、日本の特撮のような撮影方法であった)、真面目でしっかりした超SF大作のような雰囲気だ! 第一作を知らない人、見たことのない人がこのCM、予告編を見たら「なんか、凄そうな映画が来たな。映像も凄いし面白そう」と思うだろう。しかし第一作を知っていると、この映像を見ながらプッと思わず笑ってしまうのである。「雰囲気は真面目で凄そうなSF映画だけどこれって・・・」と笑えてしまうのである。

ジェフ・ゴールドブラムがまたマジ顔でセリフをしゃべっていると、それだけで思い出し笑いしてしまうし、ビル・プルマンが出てくると、おお!あの大統領がまだ生きてたのか!とか思ってしまうし。「今度のは前のよりでかいぞ」なんてセリフを聞くと「ギャッハー、20年経っても前と同じことをしようとしてるぅ、デカさで売ろうとするエメリッヒは健在だぁ!」と大笑いしてしまうのである。

・ということで、今回は作品の質に期待するというのではなく、20年経っても(映像はすごくなってるだろうが)また同じお馬鹿な映画作ってるのかなぁと、そういった期待が大きく、ある意味どれだけそのお馬鹿さの期待に応えてくれるかを大いに楽しみにしてこの映画を見た!

・そして、その期待は100%裏切られることはなかった! エメリッヒは全ての期待に応えてくれた。やっぱりエメリッヒは“お馬鹿監督だw!”

インデペンデンス・デイ:リサージェンス」は史上最高のおバカ映画と言っていい。ただし、頭に“愛すべき”という言葉を付け加えておく。

この映画は古今東西稀に見る、映画史上最高の“愛すべきおバカ映画”である。(監督のエメリッヒもお馬鹿映画の代表としよう)

・いやー、予告編を見て、なんかモノスゴイ、かっこいいSF映画を期待した人は逆に頭にくるんじゃないかな? なんだこの映画は!くだらん!と怒りだすかも。20年前の第一作を観て知っていて、そのバカバカしさに愛着を感じている人にとっては「20年経ってもおんなじバカなことやってるバカ映画だねぇ」と微笑んで楽しみながら観れるけれど、初見の人にとっては「どうしょうもない映画だ」となるかも。この映画を観る人には世代のギャップが大きく広がっているかもしれない。

・今回の宇宙船は前作よりはるかにデカイというのは聞いていたが、映画の中のセリフでは全長3000キロとか言ってたなぁ。www アホちゃう? 第一作の宇宙船が全長24キロでこれはデカイなぁと驚いたのだが、今回のは言ってみれば日本列島の端からは端までと同じくらいの大きさなわけで、ここまで大きくしちゃったら、人間から見たら空全部が宇宙船なわけで、逆に巨大さとか物凄さが感じられなくなってしまっている。頭の上、見渡す限り全部が宇宙船なんだから、大きいとか小さいとかじゃなく、空に蓋がかかってるようなもの。これはやり過ぎの大失敗、流石エメリッヒ!と言いたくなったね。

・まあ、その他にもツッコミ所は満載なのだが、この映画はツッコミ所をギャグとして観なければならない。いや、エメリッヒはスタッフは至極真面目に作っているのかもしれないが、それがことごとくお馬鹿なギャグ化しているのだから、そこを指摘してもしょうがない。楽しんで笑うのがこの映画の観方とも言えるだろう。

・それにしてもなぁ、まさかインデペンデンス・デイが怪獣映画になって帰ってくるとは思わなかった。日本の怪獣映画ファン、オタクであるギレルモ・デル・トロが作った「パシフィック・リム」やギャレス・エドワーズの『GODZILLA ゴジラ』は日本のロボットや怪獣映画を尊敬し、その流儀やスタイルを踏襲してハリウッド方式で日本映画を作ったものであり、作品の出来はイマイチだったが日本の怪獣映画をここまで愛してくれているんだなという気持ちは嬉しかった。しかし、しかしだ! なんとローランド・エメリッヒはその怪獣映画ヲタの二人よりも更に更に凄い日本映画式怪獣映画を作ってくれたのだな。

・いやー、もう驚き。エメリッヒの『GODZILLA ゴジラ』は日本のゴジラの良さを全然わかってないダメダメ作品だったが、今回の「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」は設定からバカバカしさはまるで日本のTV特撮怪獣シリーズ(ウルトラマンタロウとかに近い)であり、怪獣の描写は日本の怪獣映画のニュアンスが強く感じられる。

・ほんと、科学特別捜査隊とか地球防衛軍とか宇宙科学警備隊とかが怪獣から地球を守るって設定とその中で出てきたお馬鹿な怪獣攻撃とかの映像が今回の「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」で巨大宇宙船や宇宙人に向かって戦いを挑むアメリカ軍の姿と似てるんだよね。おかしなくらい。この脚本家、日本のウルトラシリーズを土台にして脚本かいたんじゃない? ッて思う位。そしてなんとも、エイリアンとの戦いが・・・・おいおい、これってまんま日本の怪獣映画になっちゃったじゃないか〜と、スクリーンを観ながらびっくり仰天、そして大笑い。いやはやエメリッヒさん、ここまでやってくれるとは御見逸れしました。

・前作で出てきたキャラクターが沢山でてきて、前作をネタにしたようなギャグ(本当は真面目にやってるのかも)を披露するし、ビル・ブルマンが前大統領のくせにエイリアンを格納している場所に入っていって「俺が犠牲になる!」といって首を触手でグゲゲと締められて、エイリアン語を翻訳するシーンとか、もうホントによくもここまでお馬鹿シーンを真面目に復活させるもんだなぁと恐れ入る。

・途中からは段々先が読めてきて、あのスフィア(球体)が出てきて「敵の敵は見方」なーんて言い出すところなんかもう予定調和。アフリカの黒人の部族長かなんかがスウォード(剣)でエイリアンをズッタバッタやっつけるところとか、あんまり名前が知れていないギャラの安い、だけでかなり美形で可愛い女優をぞろぞろ出演させてるところとか、中国の巨大市場を意識して軍のトップが中国人だとか、その娘が美形のパイロット(アンジェラベイビー(楊穎)という中国人アクトレス)だとか、この女優もぱっと見、日本の昔の女優の若いころみたいな感じで可愛いとおもったが、役はスカスカのただの飾りでしかなかったし、エイリアン研究者は同性愛カップルだったんだとか、もう、いやはやサイコーですねと言えるお馬鹿の連発にただただ顔がほころぶばかり。

・意外と言えば超意外で、冒頭からシャルロット・ゲインズブールが出てきたこと。映画の情報サイトやキャストの紹介でもシャルロット・ゲインズブールに言及したり取り上げている所はほとんどないね。あの「なまいきシャルロット」の時の妖精のように可愛らしかった女の子がこんなにシワクチャなオバサンになって出てくるのはちょっと目を背けたい気分も。同じフランス人女優でも「ラ・ブーム」でブレイクしたソフィー・マルソーは歳をとっても妖艶な美しい女に成長したのだけれど、S・ゲインズブールはそれとは逆になってしまっているみたいでちょっと悲しくもあり。

・まあそんなかんなで、この史上最高のお馬鹿SF映画は、お馬鹿をどんどんと積み上げていき、最後にはお馬鹿なりにスッキリ気持よく楽しめるラストでしめくくってある。ジトジト梅雨の湿っけと、ジリジリ暑い夏の中、ひんやりと冷えた映画館でこういうお馬鹿映画を観て、あんまり難しいことを考えず、頭を空っぽにして楽しむってのがこの映画の観方なんじゃないかね? そう考えていれば充分に楽しめる。

ただし、前にも書いたがそれは前作がおバカ映画に変化していき評価を逆の意味で上げたという前作を知って楽しんでいる世代に限ったものであり、まったくなにもその辺のことを知らない人が、期待してこの映画を見たら「なんだこれは、どうしょうもない、馬鹿げた映画だ」となる可能性は非常にたかいだろうな。現にこの映画のことをネットで書いているページはそういう内容のものが多いようだ。

・この映画を観て、くだらない、馬鹿げてると思った人は、前作を観て、そのお馬鹿加減をハッハッハと笑いながら楽しめるようになってから、もう一度この新作を見返せば、楽しめると思うな。

・愛すべき、史上最高のお馬鹿映画に乾杯!

『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』

(注)内容について詳しい記述あり。

・観賞の後の興奮や感動がまだ冷めやらない! 思い出す度に気持ちが高ぶり興奮が蘇る。

・大スクリーンに映しだされる撃ち落とされ破壊され砂漠に埋もれている戦艦。画面が流れていくと・・・スターデストロイヤーではないか! その瞬間、今自分が長い時間をかけてついにSTAR WARSサーガの続きに辿り着いたのだと強烈に、はっきりとそして感動を持って認識する。これは紛れも無くエピソード6の続きなんだ! このたったワンシークエンスだけで頭の中がスターウオーズの世界に引きずり込まれた。そして、戦艦の瓦礫から部品を集めている少女(レイ)が一人寂しそうに食事をしているシーン。レイの背後にあるものが最初はなにか壊れたシェルターかなにかだろうと思っていたが、カメラがゆっくりと引いていくと、それがあのAT-ATスノーウォーカーが横倒しになっているものだったのだと分かる。もうこの2つのシーンだけで「やった!」「すごい!」と叫びだしたくなる、ワクワクして心臓がドクンドクンと鼓動する。エピソード4から6までに登場した宇宙船やマシンがスクリーンに現れるたびに「おーっ!」「あーっ!」といった驚きや感激の声が劇場に沸き起こる。自分も拳を握りしめて心のなかで「やった!」「おお、すごい」と同じ言葉を繰り返し叫んでいる。堪らない興奮と魂を揺さぶるような感動が体中から湧き上がり満ちてくる。感激のあまり思わず目頭に涙さえ滲みだす。こんな興奮と感動は久しぶりだ。

・素晴らしい! この映画は、この映画のスタッフはSTAR WARSファンの心を、気持ちを、期待を、望みを、その全てをしっかりと心得ている。STAR WARSのファンが何を望み、期待し、待っていたのか、そのツボを全てしっかりと押さえている。最初の十数分を観ただけなのに、既に思い始めている自分がいる。「最高だ!」「これは傑作だ!」と!

・思い出の登場人物や宇宙船の出し方も心憎いまでに巧みな演出が施されている。「こう出すのかぁ!」とその上手さに思わず嫉妬してしまうほどだ。
「こんなに上手いことやりやがって、最高じゃないか!最高すぎるじゃないか!」嬉しさの余りそんな風にさえ思ってしまうほどだ。

・なかでも断トツにカッコ良かったシーンと言えば!

☆ファースト・オーダーのタイ・ファイターに攻撃され、レイがフィンと共に砂漠を走って逃げるとき、前方にあった宇宙船に乗り込んで逃げようと二人が必死に走って行くのだが、その宇宙船にたどり着く前にタイ・ファイターの攻撃で宇宙船が爆破されてしまう。唖然とする二人だが、とっさにレイが叫ぶ「あっちのポンコツに逃げ込むのよ!」指差し駆けていく先には砂に突き刺さり埋もれた放置されたようなガラクタが宇宙船が・・・・だがその宇宙船の姿がすべてスクリーンに映しだされた時、胸の鼓動がドクン!と張り裂けそうなほどに高まる! そのポンコツ宇宙船は、なんと、あのミレニアム・ファルコンなんだから! もうこの演出に涙が溢れだして堪らない。最高だ! またしても「やったー!」と叫んでしまう。劇場の興奮もかなり高まってきた!

このミレニアム・ファルコンの飛び方がまたいい! 今まではどちらかというと直線的な動きが多かったファルコン号だが、レイが操縦して飛び上がると、砂漠の上を追ってくるタイ・ファイターやスターデストロイヤーの残骸を、ひらりふわりと水の中を浮く魚のごとくかわしながら飛んで行く。予告編でも使われていたが、このミレニアム・ファルコンの飛び方がとてつもなくカッコイイ、最高だ。

☆レイとフィンが乗ったミレニアム・ファルコンはタイ・ファイターの攻撃から逃げ切り、惑星ジャク−から宇宙空間へと飛び出す。ようやく逃げ切った!と安心した次の瞬間、ファルコンの操作が効かない、ロック・オンされた!と二人が気付いた時、ファルコン号は巨大な船艦の格納庫に飲み込まれていく。これは正にエピソード4の冒頭でレイア姫の乗った宇宙船がスター・デストロイヤーにロックオンされ飲み込まれていくシーンをそのもの、きっちりとあのシーンをなぞらえたものではないか! なるほど、こういうオマージュも組み込んでいるのか! と感心しつつ、心のなかでは当然、エピソード4と同様にスター・デストロイヤーから敵が乗り込んでくると予想する。レイとフィンもファースト・オーダーに見つからないようにファルコン号の地下に身を潜める。さあ、どんな奴らがファルコンに乗り込んでくるのか、カイロ・レンか、ストーム・トゥルーパーか!エピソード4になぞらえるならダースベーダーがやってくるのだから、きっとカイロ・レンが来るんじゃないか、ワクワクどきどきしながら想像が掻き立てられる・・・・そして・・・予想は数百万%の驚きでひっくり返される! 

ファルコンに乗り込んできたのは・・・! まさか! 

劇場内がざわつき、歓喜の声があちこちから沸き上がる! こんな憎い演出してくるとは! くぅなんてサイコーなんだ!なんてカッコイイんだ! ヤッタ−と声を上げて拳を振り上げたくなる。身震いがする、嬉しくて涙が目の端に滲んでくる。

We are home! 我が家だ。帰ったぞ!・・・・2015年、STAR WARSシリーズにまた新たな名台詞が生まれた!

巧い! この映画は本当に巧い! 何度も繰り返すが、この映画は、この映画の監督は、脚本家は、スタッフは、2015年の今、STAR WARSファンがどうしたら喜ぶのか、どうやったら最高に喜ばせられるか、そのツボを本当にしっかり心得ている!

☆惑星タコダナに襲来したカイロ・レンとストーム・トゥルーパーの軍に追い込まれた時、はるか向こうからけたたましい水煙を上げて何かがやってくる!「援軍だ!」というセリフの後にスクリーンいっぱいに現れるのは、あのXウィングの編隊だ! これまた何度も同じことを書いてしまうが「ウォー!やったー」と見ている側が雄叫びを上げてしまうほどのかっこよさと嬉しさだ!

☆カイロ・レンの登場の仕方も、エピソード4でのダースベイダーの登場のシーンに重ねてあるし、カイロ・レンが姿を表わす前でも、スクリーンに移ったシャトルがダースベイダーの乗っていたインペリアル・シャトルに形と気がついて、乗っているのは奴なんだとわかるようになっている。なんとも細部まで作りこまれた映画だ。

☆かっこいいシーン、劇場に歓喜の雄叫びが上がるシーン、身震いして魂が震えるようなシーンが次々と繰り出される。これはまるで豪華絢爛多種多様な料理の数々。最上級フルコースディナーか!中華満漢全席か! 最高の腕で料理された最高の料理が次から次へとスクリーンというテーブルに運ばれてくる。それがこれでもかというくらいのてんこ盛りで矢次早にだ。もう一杯だ、もうこれだけで充分に満足だ、いや、まだだ、もっともっとほしい、もっともっと味わいたい。そんな映画と言えるだろう。

・映画を観ながらこれだけワクワク・ドキドキし、次はどうなる、次は何が来る。と期待に満ち溢れ映像の世界に完全に取り込まれてしまうような作品はそうそうあるものではない。STAR WARSを初見という人や過去作を余り見ていないという人にとってはどうかわからないが・・・この《STAR WARS フォースの覚醒》はSWファンにとっては最高の、いや最高を更に超えたような、心躍り魂を揺さぶられ、感涙に咽び、涙しながら喜ぶ、傑作中の傑作と言っていいだろう。

・最初に届けられたこの特報第一弾、ファルコン号の飛ぶ姿のかっこよさに目を奪われたが、フィンが砂漠の中から画面に突如として顔を出すシーンは、これぞまさに黒澤明隠し砦の三悪人」の冒頭シーンのオマージュ。こんな所にもこの監督のSTAR WARSとその元となった作品に対する敬意と愛を感じる。

・TV予告編でマズ・カナタの言っているこの言葉、
I have lived long enough to see the same eyes in different people.
I see your eyes.
I know your eyes.

わたしは充分に長く生きてきたさ、そして沢山の人のなかに同じ目を見てきたんだよ。
私はお前の目を見たことがあるよ。
私はお前の目を知っているよ。

このセリフの後にレイがアップで映しだされ、画面の中でレイの目がどこかを見上げている。

まさにレイの目を語っていると思われる繋ぎで編集している。

これを見た時に「そうか、そういうことなのか、レイはジェダイの系譜にいるんだ、レイこそがジェダイの正義を銀河で受け継ぐその人物なのだ、そういっているんだ!」と謎が解けたように納得したのだが・・・

実際に映画を観たところマズ・カナタのこの言葉はレイではなくフィンに向けられたものだったのだ。えー、なんで? と思ってしまった。どう考えたってこのマズ・カナタのセリフはなにか重大なことを言っていると思えるじゃないか。ルークの子供、新しきジェダイであるレイを指している言葉じゃないか。それなのに、この言葉はフィンに向けられたものだった。これって予告編製作でよくある本編のいいとこ取り、本編内容無視の勝手改変編集ってやつか? と憤ったのだが、いや、もっと深く考えると・・・次回作以降でやはりフィンがなにか重要な役割をすることへの暗示なのかもしれない・・・ひょっとしてフィンもフォースの強い家系の一人? んー、どうなるんだろう。
http://www.youtube.com/watch?v=9owoYz5ikvI:movie:W630

・ヒーローであるハン・ソロが死んでしまう場面。SWシリーズの原案にはギリシャ神話から“父親殺し”がテーマとして取り入れられているということであったが、まさかこの新シリーズでソロが息子に殺されるとは予想していなかった。4,5,6の三部作がダースベーダーの贖罪ということがテーマであるともいわれているが、新しい6,7,8の三部作はカイロレンの贖罪が一つの大きなテーマとなるのだろうか? 懲罰とも考えられる右手の切り落としもまたどこかで出てくるのだろうか? それにしてもソロがあんな殺され方、死に方をするとは・・・。

ハン・ソロの最後で更に気になることといえば、その死に方が深い深い宇宙の底に落ちていくかのように、突き落とされて消えていくという点だ。この死に方はダース・シディアスダース・モールと全く同じではないか。我らがヒーロであるハン・ソロの死に方がダークサイドに囚われたシスと同じなのか! ここにも何か意味が込められているのか? それともこれは考え過ぎか? どちらにしろ、ハン・ソロのあの死に方は納得できないものがある。ソロはシスとはその存在が映画の中で全く違うのに・・。

☆二回目観賞後

日本語吹替版のほうが言葉の情報量が圧倒的に多いのでストーリーの理解には役立つ。二回目をみて疑問に思っていたところもなんとなく分かってきた。

それ以上に、一回目では細かく追いかけて見ていなかったところまで字幕を追う必要がないので良く観ることが出来た。

初回ではなぜか気が付かなかったのだが、これは笑えるという面白いシーンがあった。ハン・ソロとフィンがスターキラーに侵入し、シールド装置を停止させるために考えついたのが、キャプテン・ファズマを捕まえて装置を停止させようと言う案なのだが、二人がキャプテン・ファズマを捕まえたときにフィンのセリフや表情がめちゃくちゃに面白く笑えた。

フィンとしてはトウルーパ軍下っ端の一兵卒で一番偉いファズマには絶対服従、何を言われても文句を言えない立場だったわけだが、ソロと一緒にファズマを捕まえた途端、目をキラキラ輝かせてくっきり見開いて「はっはっはー、ざまーみろコノヤロー、もうお前なんか怖くないぞ」とばかりにファズマに食って掛かっている。それを隣で見ていたハン・ソロが「おい、落ち着け」と窘めるシーンがこの映画の中では一番に笑える所だった。その後、シールドを停止させたファズマをどうしようかとハン・ソロが言うと「へっへー、このバケツ頭野郎、どうしてくれようか」とフィンがもう狂喜乱舞しながらファズマに突っかかって行く・・・いやはやまったく、その姿を見てハン・ソロは肩をおとして「どうしょうもないやつだな」と呆れているようでもある。そしてファズマをどう処理するかということで「ダストシューターに落としてしまえ」となったときの、フィンのもう嬉しくて嬉しくて堪らないような顔・・・・まるで今までイジメられてきたガキ大将に恨みを晴らしてやっつけちまうときのようなガキの顔である・・・2回目は細かい所までじっくり見ることが出来たのでこんな点にも気が付き、熱中しながら見た一回目とは違った意味でスター・ウォーズ/フォースの覚醒を楽しむことが出来た。

関連日記
2010-07-23 『ファンボーイズ』つまらない話の駄作だがSWファンは楽しめる。

2010-07-12 「STAR WARS 〜伝説は語り継がれる〜」これはおぞましい。

2010-06-28 『STAR WARS 世界の兵士たち大行進!』

2009-06-27 『STAR WARS エピソード3/シスの復讐』

『海街diary』

・『誰も知らない』(2004)では親に置き去りにされた子どもたちの誰からの助けも受けず生きていこうとする生への足掻きを静かに、そして壮絶に描いた。『歩いても歩いても』(2008)では老いていく父母とその息子、そして嫁の関係とその中にある毒をこれぞまさしく小津の世界というべき見事さで描き切っていた。そう、『歩いても 歩いても』を観た時に強烈に感じた事、それは「是枝監督は名匠・小津安二郎のあの映画の雰囲気を、そしてあの映画の味を遂に、そして見事に現代の日本映画に蘇らせたのだ」という感激だった。『歩いても 歩いても』は小振りな作品ながらも、その年一番の作品だとも思った。日本での興行は振るわなかったが、その後海外で高く評価され、なんとあのクライテリオンがこの映画をソフト化した。これはきっと海外の映画ファンにとっても「歩いても 歩いても」は小津をほうふつさせる古き良き日本映画の伝統を継承する作品だと感じられたのだろう。

・チクリチクリと皮肉をうまい具合にまぶした「歩いても あるいても」は老舗の逸品のごとく味のある作品で、その年は何度も何度も観返し、ロケ地を探したりして歩いたものだった。

・この監督は次はどんな驚きを与えてくれるのだろうと期待した。そして次作の「空気人形」はエグさをも躊躇せず写しだし「歩いても 歩いても」とはまるで異なる作品。まさかこう来るとは予想もせず、その内容と表現にこれまた驚かされた。

・是枝作品といえば、毎回内容や描く対象ががらりと変わり、しかし多種多様に切り替わるその作品の中に一本ゆるがぬ筋が通っている。それはいってみれば社会性といわれるもので、今の社会や制度、この日本のあり方に対する批判であると考えている。その怒りや批判、悲しみのエネルギーが多種多様な作品の中でプツプツプツと温泉の底からたゆまず湧き続けている熱い泡のように、全ての作品の底流となっている。そんな感じを持っていた。

・そして『海街diary』だ。

・是枝監督の2年ぶりの新作ということで、さて今回は一体どんな映画を楽しませてくれるんだろう!と期待が膨らむ。今回はフジテレビや小学館と組んだということで公開前の番宣やコマーシャルも多々。住友林業と組んだCMはなかなか良かったし、BSの日本映画専門チャンネルでは是枝作品の特集が組まれ、その一部として放送されたメイキング番組である《映画『海街diary』が生まれるまで》が特に良かった。(前ページ)

・メイキングでは古民家の茶の間で、飯台を囲む三姉妹の位置や構図にこだわり、そのセリフの掛け合いから姉妹一人ひとりの心の中、表には見えない気持ちや、日々の生活の背景を浮かび上がらせ観客に伝えようとする是枝監督の撮影と演出の様子をがたっぷりと映しだされていた。「これぞまさに小津安二郎の様式美に成瀬巳喜男の人間味表現を加味した是枝作品のなんともいえぬ味わい、情緒の源なんだな」と、メイキングを見ながら更に映画への期待が膨らんだ。

・最初に言ってしまうと、この作品、絵は綺麗だ、絵は美しく、絵には情緒が漂っている。だが、途中まで観ていく内にその絵と話がゆるやかな流になっていないと感じ出す。パッ、パッと瞬間、瞬間にスクリーンいっぱいに映し出される“絵”に、はっとする美しさ、情緒、味がある。だが、それが繋がっていくにつれその情緒や味わいにちりちりと裂け目が入り、バラバラに細かく破れてスクリーンの外に飛び散って消えていく、そんな感じなのだ。

・この映画は四姉妹の一年の物語ということで、鎌倉を舞台として四姉妹の成長、変化を四季の移り変わりとともに映像にしている・・・ということなのだが、季節がまるで“移り変わって”いないのだ。季節から季節への移り変わりというものはゆっくりと気がつかないうちに、徐々にだけど早く、ある日ふと「ああ、季節が変わったんだなぁ」と気が付き感じるもの、そういうものだ。しかしこの「海街diary」の中での季節の変化は唐突にエッ!とう感じで出てくるのだ。たとえば桜が咲く春だなぁと思って見ていたら、なんでか急に半袖、夏服になって花火・・・え、いつの間に夏になったの? なんか急すぎない? と思っていたら、こんどは夏と思っていたのがセーラー服にマフラー・・・あれ、いつのまに冬になってるの? とそういう感じだ。

流れていないのだ。

映画「海街diary」が生まれるまで

・久しぶりに“これは観たい”と思える作品。

・今週末の公開を前にしてメディアミックスのプロモーションが相当に行なわれている。住友林業のタイアップCMはかなりのGRPで流されている。人気番組に4姉妹が出演というPR企画ものも多々。この月曜日からはSWICHなどの雑誌で「海街Diary」「是枝作品」といった特集物が何冊か出され本屋の棚に並んでいる。

・是枝監督の前作である「そして父になる」もカンヌで審査員賞を取ったということで話題にはなったが、今回ほどのプロモーションは行なわれていなかっただろう。思うに「海街Diary」はこれまでの是枝監督作品の中で最大級のプロモーションが行なわれているであろう。

・前作「そして父になる」がテーマとしては重く、社会的な告発的部分を持っていたのと違い、今回の「海街Diary」は家族の絆がテーマという部分では若干の重さはあるが、前作に比べれば圧倒的に観客にかかる負荷は少ない。観客にかかる負荷というものはある程度必要だ。まったく負荷のかからない、お笑い、コメディー、アクション映画などと違って、適度な負荷は映画の深みにもなり、感動の源泉にもなる。重すぎては辛い、軽すぎては見応えがなくなり中身が浅くなる。“適度な、ちょっぐっとくるような負荷”それが当たる映画には丁度いい。そして観客にとっても。それは映画を見終えた後の観賞感として心に残る。一冊の本を読み終えた後の読了感に似たようなものが観客の心の中に生まれる。そういった意味で「海街Diary」は適度な緊張感をもって巧みにバランスを取っている作品と言えるだろう。いつもながら食べ物に例えれば、塩加減が、その塩梅が見る側にちょうどいい映画なのだ。

小学館、フジテレビ、東宝とくればメディアミックスのプロモーションなどお手のもの。まさに自分たちの土俵であり何をどうして作品を盛り上げていくかなど周知している組み合わせだ。だが、いくら手慣れた企業が手を組んだとしても映画のPRが必ずうまく行くなんてことはない。なによりも大事なのは作品そのものが世の中の期待や希望、映画を観る層に訴えかける、惹きつけるものを持っていなくてはどうにもならない。

吉田秋生の原作マンガ、その質、そして登場人物が4人の姉妹だということ、4姉妹のキャスティングが綾瀬はるか長澤まさみ夏帆広瀬すずという見事な組み合わせだということ、そして映画の舞台が湘南、鎌倉だということ。一つ一つが見事に押さえられたつぼであり、それが集積して仄かな優しい光に包まれている。温かい、人を惹きつける魅力を醸し出している。そういったものを内包した映画だからこそ、企業も「この映画に協力したい」「手を差し伸べたい」《この映画のイメージで企業イメージも一緒にアップしたい》と思うだろう。作品が持ち得た輝きと魅力があるからこそ、それを取り囲むPR戦略も上手く行く。公開前週にこれだけのクロスプロモーションが行なわれているのもやはり作品の良さありきだからだなぁとしみじみと思う。

BS日本映画専門チャンネルで過去の是枝作品の特集と、“映画「海街Diary」が生まれるまで”という番組を放送していたので見てみた。作品を観賞するまえにメイキングなどを観るのはあまり良いこととは思わないのだが、今回の番組ではあまり深く作品内容に踏み込むことをせず、監督の撮影手法だとか、脚本を作るにあたっての監督の気持ちだとか、そういったものが映しだされていて、面白く興味深かった。

・是枝監督作品としては「歩いても歩いても」で小津安二郎の姿を感じたが、この作品ではさらにその小津安二郎的様式美が強く見られるようだ。鎌倉の古い民家で座卓を囲んで食事をする姉妹の姿は、まさに小津の様式美の世界。この番組の中では「小津から成瀬へ」なんていうことも言っていたようだったが、日本にいる数多の映画監督の中で小津の様式や雰囲気、その手法を自作に取り入れ、取り入れただけではなく見事にそれを小津らしい様式美として映像に映し出している監督は是枝裕和だけかもしれない。

・監督というのは絶対君主のようなもので自分の思った通りい、自分の我のままに映画をとるというものだと思っているが、この番組のなかで是枝監督はカメラマンやスタッフの意見を取り入れて、絵の構図や角度、人物配置、カメラの方向などを修正していた。修正前と修正後の映像を比較するなど、この番組には撮影技法の解説などもあり、この手の番組としては実に面白い。

・劇場公開後の6月下旬にもう一本、同じくBS日本映画専門チャンネルで「海街Diaryメイキング」というのが放送されるらしい、これも楽しみだ。

・身近な場所である鎌倉を舞台にしたこの映画、「ああ、これはあそこだな、このシーンはあの角で撮ったな」なんいうのを見つけるのも楽しみだ。

・それにしても、湘南とか鎌倉、逗子なんかを舞台にすると映画ってなんていい感じなるんだろう。この辺は、町やそこに流れる空気そのものがなにか人を惹きつけるものをもっているんだなぁ。美味しい店も本当に多いし。(高いけど)

・生シラス丼を食べるシーンとその時のセリフはちょっとわざとらしいな〜と思ったが。

関連日記

2008-07-02 『歩いても 歩いても』是枝監督が手に入れた小津安二郎的映画感・・・久里浜、葉山が舞台だった。

2006-05-15 『ラヴァーズ・キス』小粒だが、青春映画の佳作としてgood! ・・・吉田秋生の実写映画化として秀作。舞台は江ノ島から長者ヶ崎あたりまで色々。

2006-06-18 『タイヨウのうた』・・・・・・泣けた。・・・是枝、吉田秋生とは関係ないが、湘南鎌倉を舞台にした映画としてはとてもイイ作品。これは七里ヶ浜がメイン。

『アメリカン スナイパー』

・秀作、傑作を毎年立て続けに出し続ける監督、クリント・イーストウッドの新作ということで公開前からかなり話題になっていたし、数多の批評家や芸能人、文化人(似非も含めて)が「素晴らしい作品だ」「最高傑作だ!」「これほど胸を打つ作品に出会えるとは」などとほぼ大絶賛の感想、批評を繰り広げていた作品でもある。

・だが、この作品は正直、映画として余り面白くない。あと少し何かが欠けていたら“つまらない”という表現にも落ちていたかもしれないような映画である。だがこの映画はギリギリ一歩手前でいわゆる“つまらない”には落ちていない。この映画がギリギリの所で堕していない紙一重の“つまらない”は“くだらない”とか“観る価値がない”といった“つまらなさ”ではなく、ギリギリまで余計なものを削ぎ落とした、徹底的に飾りや、今の映画にありがちな、常態、定番化している虚栄的演出、作為的演出を排除した監督の技量によって意識的つくられた“つまらなさ”なのだ。

・それはあたかも、何一つ上に材料を乗せていない、塩すらほんの少ししか加えていない、本当にプレーンな素焼きにしただけのピザ生地のような映画なのだ。それはまるで“今の映画”であることを自ら否定しているかのような“映画”なのだ。

・本来ならばトマトソースを塗り、チーズをまぶし、ベーコンやコーンなどを上に散りばめてトッピングし焼きあげるのがピザだ。だがその全てを取り除き、生地だけを焼いたもの・・・まさにこの映画はそういう作品だ。

・本来(いや、それは本来ではないのかもしれないが)映画というものが、脚本や撮影で長年かかって培ってきた観る者の気持ちを刺激し、興奮させ、楽しませ、わくわくさせ、泣かせ、悲しませるといった“演出”という作為がこの映画では稀なるほどに希薄なのだ。

・演出とはそもそも作為的なものだ。いかに観客を刺激し、鼓舞し、画面に観客  それが騙し、あざとらしさにつながったじてんで興ざめする、しかしさっこんの映画はそれが過度にいきすぎそれがあたりまえのようになってしまっている。

映画が素の状態である。

『インターステラ−』

・2時間49分 映画を映像をじわりと噛みしめるように堪能した! 素晴らしい! 久しぶりに《映画》を《観た》〚満足感〛〚充足感〛に浸れた一作。2014年ナンバーワン映画は『インターステラ−』にほぼ決まりだ。

・兎にも角にも話が面白い。難しいとも言えるが、実に巧くリズムとテンポを保ちながら全く飽きる気配など感じることなく、どんどん話に引きずり込まれていく。いや、ほんとに映画の面白さ、映画ならではの映像、展開、映画そのものの素晴らしさをじっくりと味あわせてもらった、見終えた後のこれだけの充足感、満足感も久々だ。

クリストファー・ノーランの監督作品は映像は美しく素晴らしいのだが、脚本に毎回すっとんきょうとも言えるような大穴がある。致命的な欠陥というわけではないが、その一歩手前くらいのどうしょうもない話のすっ飛ばし、監督の脳内がうみだしたような超ご都合主義的な物語の運び、脚本の粗が必ずある。それがあるから「ああ、また今回もこんな超ご都合主義で登場人物に出来るはずもない不可能なことをやらせてる」「だれがどう考えたってここはおかしいだろう」というのが引っかかって、作品そのものを両手で評価するようなことが出来なかった。

・しかし、『インターステラ−』はそういった監督のご都合主義で書いたような展開はなく、科学的検証もきっちりやったであろう、しっかりとした脚本、ストーリーであった。たぶん、こういう非常に難解な科学的な内容を含む話だからきっちりと科学者、物理学者に話を検証させたという。それがあったからいつものとんでもない“大抜け”が無くなったんだろう。
[:W600]

・マッド・デーモンのくだりは蛇足。あそこがなければもっと尺も切れただろう。あそこがあるせいでそれまで上品で高尚で気品のあった作品に濁りが出だ。まるで繊細で上品なお吸い物に醤油をどっぷりと掛けたようなおぞましい蛇足だ。

・星野先生の作品に似ているという指摘はネット上でもかなりでているが、これは誠にもって否定しがたい。話そのものもそうであるが、宇宙船のデザイン、惑星と宇宙船のカットなど星野先生の作品のあの場面やこの場面が目に浮かぶ。星野作品は海外でも英語に翻訳されてかなり出版されているが、それを基にしたというのは可能性はかなり高い、いや確実ではないか?

・ラストで、一人惑星に辿り着いたアメリア(アン・ハサウェイ)の姿が映る。そして新型の宇宙船に乗り込み旅立つクーパーの姿も・・・アメリアはあの後、凍眠カプセルに入り、誰かが自分を見つけてくれることを信じて眠り続けるしかない、たった一人惑星に辿り着いたアメリアにはそれしか選択肢がないのだ。自分はラストに期待した・・・荒れた惑星の大地で絶望に打ちひしがれたアメリアはきっと救われるんんだと、きっとこの後、ラストではアメリアがたどり着いた惑星にクーパーが時を超えて辿り着き、アメリアの凍眠カプセルを開けるのだと、そして眠りから覚めたアメリアとクーパーの抱擁でこの映画は終わるのだと。しかしそのラストシーンはなかった。・・・・・・そうあって欲しかった。きっと星野之宣であれば、それがラストシーンとして飾られたことだろう。しかし『インターステラ−』においては、アメリアの絶望とクーパーの旅立ちで映画が終わってしまった。この映画のラストは衝撃のラストだ、だが、本当に欲しかったのは身震いし慟哭するほどの《感動のラスト》だ。本当のハッピーエンドにしてほしかった。きっとクーパーはアメリアを救い出しただろう、そういう想像は出来る。だが、この素晴らしい映画のラストは本当に素晴らしい胸がすくような、涙と感動で体中がわなわなと震え出し、男でも女でもわっと感極まって泣き出してしまうようなラストにしてほしかった。そこが悔しいくらい残念なのだ。
[:W600]

・事象の地平線( EVENT HORIZON )

・吹き替えは秀逸。剛力彩芽は嫌いじゃないが、そんな実力も表現力も感情もだせない剛力に拙い日本語の吹き替えをさせて吹き替え版を最悪のものにしたフォックのプロメテウスみたいなお話にもならない愚挙をワーナーはとらなかったというだけで○

・天体物理学者のロミリー(デビット…ジャージー)は「自分はここで待ってブラックホールの研究をしたい」とエンデュランス号に一人残ったわけだが、アメリアとクーパーが最初の探査惑星(ブラックホールの超重力により時間軸が歪み、惑星での1時間は通常の7年分に相当すると計算されていた)から戻った時、アメリアが「何年経ったの」と尋ねると「23年だ」と答えているのだが、23年も経っているのにロミリーはちょっとヒゲを増やしただけで全然老けこんでいないというのがなんとも抜けている。

星野之宣作品からの流用といっても過言ではあるまい。

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_☆2009-06-01 『天使と悪魔』:この映画も星野之宣作品からアイディアを取ったと思われる。


/ハンス・ジマーサウンドは、壮大で荘厳。かってのヴァンゲリスを彷彿させる素晴らしさ。



☆インターステラ− 批評・感想 by Lacroix
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『GODZILLA ゴジラ(2014)』

・これじゃムトーさんが主役じゃないの?

ゴジラが全然怖くない。おそろしさもない。凶悪でも凶暴でもない・・・おっきな猫か? ゴジラの意思が全然感じられない。

・脚本は正直言って低レベル。あれこれお話を継ぎ合わせただけで、一本の物語として完成していない。もっとキツく言えば、なにがなんだかメタクソ状態の本からできた映画。

・なんなんだ、このお話は・・・少し日本の怪獣映画を観てる人なら、この第二弾ハリウッド版『GODZILLA ゴジラ』のストーリーに ”ん?なんかあれそっくりじゃん” と思うところがあるだろう。そう、平成ガメラの第一話 1995年『ガメラ 大怪獣空中決戦』にプロットの元となる設定が似すぎでしょ。ムトーさんはギャオスだし、そのムトーさんをやっつけに古代から生きていた生物が蘇ったって、平成ガメラ対ギャオスの戦いをGODZILLA 対 ムトーさんに置き換えたって、もうそのまんまじゃない。なんたる粗製ストーリーだっての。観ていてだんだん呆れてきた。

・脚本の最終稿が出来上がるまでにずいぶんと紆余曲折があったということだが、何人も脚本家を替えてスタジオ側が納得する脚本を作ろうとしても、これでは何のために何人もの脚本家を使ったのかまるで意味不明。映画不況以降、ハリウッドがダメになったその根本がここにも見え隠れしているようだ。ようするにスタジオ側は、スタジオの幹部連中が求めている映画、脚本は “金になる、動員の見込める”映画であり、そしてそれ以上に“株主から批判されぬ、自分たちの責任が問われぬ” 映画なのだ。

・まったく新しい、創造的な映画、今まで見たことがないような映画、映像、ストーリーは敬遠する。感性で判断することを避ける、逃げる。心の声に従うことに怯える、逃げる。自分がイイと思った感覚、感情を恐れる、信じようとしない。全てにおいてこの逆をする。なるべく多くの人が頷く可能性ばかり模索し失敗する可能性を少しでも下げようとする。思い切ってやってみようという気持ちがない。兎に角リスクの低いことだけをやろうとする。個性や独創性などよりも、今までに受けたこと、過去に評判の良かったこと、周りがすでにやっていること、周りが直近でやっていることに倣おうとする。



大体似てること書いてる
http://newsphere.jp/entertainment/20140519-2/