『8.12日航機墜落 30回目の夏 生存者が今明かす“32分間の闘い”ボイスレコーダーの“新たな声”』


プロデュース・演出・栩木信人コメント

「取材を進める中で、乗員・乗客のご家族や事故に関わった方々の多くが口にされたのは、何故事故が起きてしまったのか、何故520人もの尊い命が一瞬にして奪われなければならなかったのかという、29年間全く変わらずにある思いでした。日航機墜落事故は、やはりまだ終わっていない事故なのだという印象を改めて強く持ちました。番組では、新証言やテレビ初公開の新事実に加え、今だからこそ可能となった科学的アプローチで、これまで伝えきることができなかった『墜落までの32分間』と『奇跡の救出劇』のさらなる真相に迫ります。事故に関心をお持ちの方だけでなく、事故を知らなかった方にも是非ご覧いただきたいと思います」

『春を背負って』

・美しい映像、そして爽やかな映画であった。

・あの『剣岳 点の記』(2009)から5年。黒澤組に仕え、あの『八甲田山』の撮影監督をし『剣岳 点の記』で素晴らしい映像を観せてくれた木村大作が、再び山を題材にした映画を引っさげて戻ってくるのだからこれは観ないわけにはいかない。いや、これは絶対に観たい。それもなるべく大きなスクリーンで。両目の視野いっぱいにスクリーンが入り、映像以外はなるべく観客も椅子も目に入らないようにして、体中が映像に包まれ、どっぷりと映像に浸るように観たい。そんな思いで映画を観たが『春を背負って』は前作『剣岳 点の記』以上に映像の美しさを、北アルプスを、山と自然を、あの場所の空気を感じ取れるような映画だった。正に、自分があの立山の懐に、あの山小屋に、あの空気の中にいるような思いをさせてくれる映画であった。

・そうそうたる役者陣を実際の北アルプスに引き連れ、山小屋での本当の生活を映画スタッフと一緒にさせ、実際に山も登らせ、その姿を大自然の懐で撮影する。下手な演出や演技よりも役者の内面から湧き出てくるものが、嘘ではない気持ちとしてフィルムに写し撮られている。



・出だしの北アルプスの映像がフィルター無しで山の風景を撮ったかのように、青が被っているような感じがしたのだが、これは小屋側のDLPの調整が巧くなかったせいかもしれない。

携帯電話での捜索

キャストと撮影

アルミの匂い

あの空気、雰囲気

蒼井 演技過剰になっている。

滑落の場面や、厳しい山の場面はちと白々しい嘘臭さがある。

挿話はどれもこれも取って付けたようで話に馴染んでいない。



・あの『剣岳 点の記』(2009)からもう5年も経つか。時間の流れは早い。初監督作品で日本アカデミー賞の"最優秀監督賞”"最優秀撮影賞”まで取り、その他の映画賞にもズラリと名前を連ねたのだから大したものだ。それまでは《黒澤明監督映画のカメラマン》《「八甲田山」のカメラマン》とばかり言われた、としか言われてこなかった木村大作に“『剣岳 点の記』の監督”という勲章がくっついたのだからこれは一人の映画人を判断する材料としてかなり大きなものを授かったのだと言える。

・その木村大作が5年の月日を経て“『剣岳 点の記』の監督”という勲章か、はたまた大きな看板をぶら下げてまたやって来たのだから、これはいやがおうにも期待せざるを得ない。しかし・・・・

・5年前の『剣岳 点の記』は映像が本当に素晴らしかった。大きなスクリーンで観ていると、まるで自分があの剱沢にいてあの剣岳の山頂で美しい北アルプスの峰々にの中に居るかのように思えるほど、美しい映像だった。あの美しい大自然の中に自分が包まれている、あの場所に自分が立っているような気持ちになる、それだけで『剣岳 点の記』はいいと思えた。映画の一番大事な部分である脚本が粗だらけだったのだけれど。

2009-06-19日記: 『剣岳 点の記』 山と自然を愛する人に!美しく貴重な一作。

・『剣岳 点の記』は脚本がうーんと言いたくなるところがたくさんあって、一本の作品としてはとても褒められたものではなかった。だが、一先ずそこには目をつぶってカメラマン木村大作の写し撮ったあの美しい映像に心をあずければ、映像を、映画体験を楽しめる、味わえる、心で感じられる映画ではあった。「ストーリーがもっとちゃんとしていたら、本当の傑作になったかもしれない」そう思ったけれど、あの映画はあの映画として素晴らしい体験を観るものに与えてくれる映画として好きだし評価している。

汚し、カメラとキャスティング、

『マン・オブ・スティール』

・歴代スーパーマン史上、最大の愚策、駄作、珍作、勘違いとんでも作。

・あいも変わらずノーランらしい話のぶっ飛び(非常に悪い意味で)方。漁船から始まってレストランで働いてたら次はいきなり極地でお仕事。ばかじゃないのといいたくなるこの筋の作り方。バッドマンとまるで同じ。ノーランって(まあ、監督ではないが)頭がオカシイんじゃないのかと思うのだけどねぇ。

むちゃくちゃ強引、手前勝手、自己都合のつじつま合わせ、屁理屈こね回しの整合性づくりは啞然とするほど恐れ入る。それだけ考え抜くならその力を他のことに使えばいいだろうなんて思ってしまう。

お目々ビームもお笑いもの。そんなのあるならいくらでもあちこち切り刻めるだろうに。逃げない人間もオカシイし、もうとんでもご都合主義のてんこ盛りのような映画、脚本、ストーリー、演出・・・愚の骨頂。

同じくデタラメの極みである「プロメテウス」とくらべて映像美という点では数段落ちる。

メカのデザインはどうも押井守攻殻機動隊からとってるんだろうと思うようなものばかり。あのデザインはハリウッドの連中では出てこないだろう。

それにしてもハリウッドのやることはこういう粗製続編の乱発しかないのか。

『パシフィック・リム』

菊地凛子との舞闘場面は立派。なめてないね映像を。菊地凛子はバベルで歳に似合わない陰毛露出の女子高生役とかやって、なんだこりゃ状態だったのだが、この作品でようやく身の丈にあった役を得たという感じだろうか。菊地 凛子初のまともな役ともいえる。

暗い場所での格闘ばかりで怪獣の姿がはっきりと分からないというのもある意味不気味さが増している。

http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%91%E3%82%B7%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%A0

『舟を編む』

本屋大賞を取った作品を、話題性が残ってるうちにチャチャチャとテキトーに人気俳優を使って映画にしてチャチャチャとそこそこの興行だけせしめればいいや。というようなテキトウの極みみたいな映画と思って、ポスターに出てる宮崎あおい松田龍平を見て、ああぁまた日本映画の最低くだらないパターンの繰り返しか・・・と思っていたら、出だしから絵がイイ。

今はなきNHK-BSに名番組「週刊ブックレビュー」にて紹介。

八千草薫は相変わらずの素晴らしさ。病院で夫の死をしらしめる場面の演出は見事。これぞ映画的演出、これぞ映画という表現。この監督若いのに立派だ。

大渡海の辞書パッケージは、あれは変でしょ。

「遊星からの物体X ファースト・コンタクト」(2011)

・まるで期待していなかったが、時間も短いし、さらりと見てフフフンとそれなりに楽しめたが、気持ち悪さもだいぶあり、SFというよりスプラッター・ホラーというような感じ。

・得体の知れないエイリアンを発見して、生体反応も確認せず放置するとか、切り刻むときに博士なんていう連中がだあれもマスクもせず、手袋以外はほとんど素でエイリアンにナイフをいれるとか・・・相変わらず間抜けな演出はいっぱいだが、おちゃらけスプラッターSF映画ととらえればこれでもいいか?

・名作である前作の前日談なんてこと言わないで、単純に一本の気持ち悪さ満載SF映画として作っていればいいものを、スタジオ役員や株主の突き上げが怖くて、やっぱり過去の名作のネームバリューだけはお借りしましょうということで作られたような映画。だから芯はなにもなし。出来上がるまでもなんども製作延期になったり紆余曲折したみたいだが、もうこういう取って付けたようなシリーズモノ、名作の前日談とか続編とか新しい展開とかはハリウッドのお馬鹿連中もいい加減やめたらと思う。でもやめられないんだろうな、それほどネタとアイディアは枯渇してるということだ。

・と、否定的なことを書いたが、一本の映画としてみればそこそこ楽しめる。金は掛かってるけどB級のやすっぽさプンプンのサスペンス、ホラーとしてもまあそこそこ。それもこれも前作のしっかりとした設定がどだいになっているからであろうが、前作を知らない、見ていない人なら「うん、言われるほど酷くないんじゃない、キモいけど面白かったよ、1時間45分それなりに楽しめた」というであろう。

・中身としては『 THE THING 遊星からの物体X 』の焼き直しというよりも『エイリアン1』の焼き直しという感じが強い。頭をひっくり返して四足で歩くエイリアンとか、腹を突き破って出てくるシーンとか、これって話は『THE THING』だけど映像は『エイリアン1』でしょう。ケイトの役はまさにリプリーのシガニー・ウィーパーだし『エイリアン』でリプリーがようやく逃げ出した宇宙船で後ろにエイリアンがいるっていうのも『THE THING』じゃなくて『エイリアン1』のシーンそのまんまだし。(これはオマージュとして受けとっていいだろう)

・ということで『 THE THING 遊星からの物体X 』の前日談、リメイクというわけで撮られた映画なのに、中身はエイリアン1の混ぜちゃってるわけで、だからこういう中途な映画になるんだなぁという典型。いや、エイリアン1を真似たからなんとか見れる映画になったのと言うべきかもしれないか?

・ケイト役で美形の紅一点(もう一人女優はいるが美形としては一人)メアリー・エリザベス・ウィンステッドがなかなか。目が大きくてはっきりした顔立ちで、こういう女性は日本でも海外でもそこそこ受けるか。しかしこの人、全然しらなかったけどホラー・クイーンなんて言われてたのね。なるほど、ホラー映画に出てればちょっとお馬鹿っぽさも滲んでぴったりだったのかも。でもこの作品の中では一人だけ美形でキラリとしてた。こういうのを一人だけ入れるというのもキャスティングの常套手段だが。

・前作はもろ男臭い男男というキャスティングと中身だったし。たぶんプロデューサーか誰かしらが「「THE THING」のシリーズものを作っても受けない。あれは男だらけのキャスティングで華がない。観客動員望めない。エイリアンのリプリーのような強い女性を話に付け加えればもっと観客受けするはずだ。宣伝のネタにもなる。客を惹きつけれる!そうだ「THE THING」の脚本にリプリーに相当する女性を入れるんだ!」とかなんとかやったのだろう。そういう臭いがプンプンする。

・まあおかげでこの女優を知ったわけでもあるが、願わくばそういうホラー映画の客寄せ役じゃなくてなにか真面目な作品でこのメアリー・エリザベス・ウィンステッドの演技を見てみたいとものだ。

・それにしても最近でてくる続編だとか前日談というのはどれもこれもどうしょうもない。「猿の惑星:創世記ジェネシス)」も猿のCGI以外はなんとも薄い話だったし。(ところでこれの更なる続編って作られるんだろうか? 出来ても当たることはないだろうな)。「プロメテウス」もエイリアンの前日談と宣伝しておいて、どうしょうもないないようだったし。ターミネーター・シリーズはなんとか持ち直しそうだが、3以降は正直酷い脚本と設定だし。

・ハリウッドはまわりと同じことをやらないと突かれた時言い訳できない、失敗しても「ほかもやってるから」と言い訳できるように周りと同じことをやるというどうしょうもない慣習が蔓延してしみこんでしまっているから、しばらくはこういうシリーズものの前日談だとか、少し話を横に逸らしたやつだとかが続くのだろう。

『HOME 愛しの座敷わらし』

・監督:和泉聖治.... 「オン・ザ・ロード」が良かった!

・岩手の風景が美しい。多少色の彩度を上げすぎているというか、緑を強く出しすぎていると感じる部分がある(夏の色、ホントの風景というは朝や雨の後などの空気の透明度が上がり、チリなどもすくないときでないと、遠目でみたらもっとぼんやりとしている)

『風立ちぬ』

零戦を作った男の物語と聞いていたので第二次世界大戦やその時の兵器工場などの絵を頭に描いていたのだが・・・、映画が始まるといかにも宮崎アニメといった穏やかで平和そうな昔の町並みの映像が流れる。その風景描写が実に美しく心を和ませる流石という巧さで、アニメーション独特の柔らかい色と映像がほのぼのとした気持ちを醸し出す。しかし、ホッとしてその気持ちに浸っていると、唐突に美しい風景の中を静かに波紋のようなものが走る!「え、なにこれ? これって地震な? いきなり地震がくるのか!」と、ハッと息を飲み込み目を見開いて驚く。静かに地面を伝わり広がっていく波の線がこれから起こることへの身震いするような恐怖の予感を駆り立てる。そして、次に現れたのは幾重にも強烈に上下に揺れ動く家屋と耳の奥まで届き脳みそを振動させるような重低音。まさに今ここで自分が地震のど真ん中にいるような錯覚におちいる。この場面が出てきた時、まさか零戦を作った男の物語に地震が出てくるとは考えてもいなかったため、かなりの衝撃であった。(この上下に揺れ動く家屋の映像は『風の谷のナウシカ』にでてきたオームの外郭の動きに似ている。いかにもジブリ流の表現なのかも。それがこんな地震の描写にも生かされているというのもまた驚き)

・出だしからいきなりこの関東大震災描写地震の描写にとは、これにはガンと頭に衝撃を受けた、そしてこの地震描写はまるで今自分があの3.11の時に戻ったかのように、あの強烈な地震の中にいるかのように激しく怖かった。いままで映画で観た地震の映像でこんなにも本物の地震を感じ、その押し寄せてくる恐怖を感じ。まさに自分が地震のどまんなかにいるような恐怖感を覚えたものは未だかってない。それほどまでにこの地震の描写は凄かった。ざまな実写映画の地震の描写よりも遥かに凄まじく恐ろしかった。3.11の東日本大震災を体験してしまったことも一因かもしれないが。

・そしてその後の大火、逃げ惑うたくさんの人々。一気に心は映画の世界に引きずり込まれた。

・TVのインタビューで宮崎駿は「昭和を描くには関東大震災から始めなければいけない」というようなことを言っていた。(関東大震災は大正に起こったが)巨大地震の後のボロボロの中からの復興ということが昭和の始まりということなのであろう。昭和は日本の真ん中の東京がボロボロになってゼロになって、そこから立ち上がって行く時代だったということであろうか? そして戦争に突入し、再び焼け野原になりまたそこから立ち上がっていく、それが昭和という時代だということであろうか。

・また、宮崎駿は「とにかく軍隊が行進するとか、戦火が広がるとかそういうことは映画着たくなかった、そうしたらドキュメンタリーに取り込まれてしまう」「堀越二郎を描かないと、この国のおかしさは出てこない」とも言っていた。

・なるほど、そういう気持ちで作られた映画なのかと改めて思う部分はあるのだが、実際に自分がこの映画を観た後に感じたものは、先に書いた地震描写の凄まじさはその1つとして、映画を見終えた後にすぐに映画全体として映画全てとして感じた印象は、戦争でも戦争の悲惨さでも、あの頃の軍隊のおかしさや、この国のおかしさでもなくて、《純粋で純粋で純粋極まりない“恋愛”》というものだった。



生きて、生きろ、生きろという言葉は愛する妻への言葉、全人類でも戦争当時の日本人でも、だれにでもなく極めて個人として愛する結核にかかって残り少ない命を灯している妻への言葉。

自分の素直な印象では、宮崎監督が描こうとしていた昭和という時代、戦争、この国のおかしさ・・・そういったものは映画全体から感じ、受け取ることはなかった、部分的にそういう描写があったという記憶は残っているが、全然、マッタク、戦争の映画には思えなかった、感じなかった。純粋な、純粋すぎるほど美しく、汚れない、極めて真っ直ぐでなんのけれんもない本当の純愛物語だと思った。人それぞれであるけど、監督が戦争や昭和を描きたかったと言っていたのに、その作品から受けるものがマまったく違っていたというのは、監督の思いと、描いて出来上がったものが発するものが別の方向を向いているということではなかろうか。そういう意味で皮肉な言い方をすれば、この映画は監督が当初描こうと思っていた思いが伝わってこない、別のものが伝わってくる、つまり描こうとしたものを伝えきれない失敗作という捉え方も出来る。だがそれは作品としての失敗作ということではなく、監督の思いの描き方としての失敗作であり、作品としてはジブリの中でも断トツの素晴らしい作品であると思う。結局宮崎監督には戦争の悲惨さやあの時代やこの国のおかしさを描くことは出来なかったのだ、完成した作品は別のものになっていた、別のものが強く描かれていた。作品には監督の心が宿る。とするならば、監督の優しさや純粋な愛という心がこの映画に強く宿っている、宿ってしまっているのだと思う。そして監督が口にしていた戦争や昭和やこの国のおかしさが描かれていなくても、自分はこれでよいと思う。

・この映画は監督の思いや意図が全然違う方向へ伸びて、発展して作品となった大いなる失敗作であり、だけどそれ以上に、口に出していった考えや思いを遥かに超えて、監督の心が投影され描き写された素晴らしい作品だともいえる。口に出す思いよりも心のなかにある思いのほうが本当なのだ、その人をあらわすものなのだという証明なのかもしれない。

声優の声も実に良かった。