『二郎は鮨の夢を見る』(2011)

・外国人が撮ると、どうしてもこういう映像になってしまう。情緒とか奥ゆかしさとか日本人としていつも自分が見ている日本とは違った絵が広がる。松田優作の『ブラック・レイン』のときも同じことを感じた。巨匠とまで言われるリドリー・スコットが監督なのだからどんな日本が描かれるのだろうと期待していたら、出てくる映像はまるで中国、香港映画のそれ。日本らしさ、日本的なものなんて全然ない。「これって香港で撮ってるの?」と言いたくなる絵だった。

・この映画も見ていると自分が感じている日本とは違った絵に見える。外人は日本というのはこういう風な色、こういうふうな場所、こういうふうな人として見ているということなのだろう。

・このドキュメンタリー映画を見ていて強く感じたことは、監督やスタッフは日本の鮨の素晴らしさ、その極上の美味さ、そういうものを映像で伝えようとしたのではないんだろうということだ。観ていて「これは美味そうだ」とか「こんな鮨を食べてみたい」という気持ちが全くもって、全然湧き上がってこない。ミシュラン三ツ星の日本でも最高と言われる鮨屋ドキュメンタリー映画なのに、観ていてヨダレが出てくるような美味しそうな場面は一つもなく、食欲が喚起されることもなく、まったくもって鮨の旨さだとか素晴らしさというものが伝わってこない。

・この監督は当代一の寿司職人を題材にして何を撮ろうとしたのだ。食の素晴らしさ、鮨と言うものの素晴らしさ、その限りなき奥深さ、その極めつけの美味。そういうものを撮ろうとしてないのだ。だから映画を観ていて美味そうだとも思わないし、食べたいなとも思わないし、腹も鳴らないし、ヨダレが出てくるわけでもない。一体何なんだこの映画はと見ている途中で怒りさえ覚える。

・百万歩譲って、鮨職人二郎とその息子たち、弟子という人間を描こうとしたのか? と考えてみるとしよう。人間に焦点を当てたのだと考えてみるとしよう。だとしても、二郎と二人の息子との関係や二郎本人がどういう苦労をしてきたかなどは映像の中で語られているが、それだからどうしたというのだ。こんな風に苦労をしてきて今ミシュランの三ツ星をもらう店になったんですよということを説明して、それでなんだというのだ。そんな説明を映画の中でされたって、誰も感動も感激もしないだろう。ただの情報として映像が流されているだけだ。必要なのはそれだけの苦労の末に、今コレだけ素晴らしいものが生み出されているんだというその点なのだ。今、二郎やその息子たちの手でどれだけ素晴らしい鮨が生み出されているか、それを伝えずして、それを感じさせずして何を況んやなのだ。

・鮨の素晴らしさ、旨さを映像で表現出来ずして、現在過去の苦労話を映像にしたとしてなんになる。そんなことなら《すきやばし次郎の鮨》でなくてもなんだっていいだろう。苦労の末にうみだされた傑作を伝えず苦労だけを伝える、本末転倒、愚かさの極み。この映画の監督は映画をつくる視点も感覚も洞察も表現もなにもかもが極めて薄っぺらで浅はか。ただ単に話題性になる題材、少しでも注目を集めそうな題材を選んで映画にしただけで、そこに深い思慮もなにもない、極めて低レベルのただ単に動く映像を編集しただけで感情がなにもこもっていない映画だ、正に愚策の極みである。

・これならNHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」ですきやばし次郎を取り上げた回のほうが何十倍もいい。二郎本人にも、鮨の旨さ、それをいかにしてうみだしているかという部分にしっかりと踏み込みそれを伝えようとしている。

・ようするに、この監督やらカメラマンやらスタッフらは鮨の素晴らしさやその奥深さ、その旨さというものを全くもって理解していないのだろう。分かりもしないし分かろうともしていないのだろう。日本というくにの世界でも稀な鮨という食の特異さに目を付けただけであり、その文化、歴史などはこれっぽっちも描こうとしていない。だからこんなセメントを舐めているような無味な映画になっているのだ。

・しかもだ、魚や烏賊の腹わたを取っている場面だとか、血合いを洗っている場面だとか、築地市場にならんでいる魚を品定めしてマグロの尾肉に手を入れ肉をもんでいる場面だとか、通常の食を題材にした映像なら映すことのないような場面が多々みうけられる。食材を厳選し、美味いものに仕込むために避けられぬ作業とはいえ、通常食を扱う番組、映像では映さない場面を相当に入れている。鴨肉の料理を伝える映像に、鴨の首を切り血抜きをしている映像を入れたらどうなる? ジビエの素晴らしさを伝える番組で毛をむしり、内蔵や血を取り出す場面を映したらどうなる、いかに美味い、上等な料理であろうともその前段階である言ってみれば汚れの部分を見せたら、人はその料理を食べたいと思うか? おいしいと感じるか。それはもう常識以前の問題だ。ナンセンス極まる。

・つまりこの映画の監督やスタッフは《すきやばし次郎の鮨の旨さ、素晴らしさ》を映像で伝えようなどとしていないのだ。外人に目から見た生魚を属する日本の鮨文化の奇異さ、奇特さに目をつけ、それを面白がり、好奇の目で取り上げているだけなのだ。

・外人が日本を撮ると、満員電車にギュウギュウ詰めの通勤ラッシュのシーンだとか、工場でやってる朝の体操だとか、ゲイシャ、キモノ、ニンジャ、最近ではアキバにコスプレ、そんなものがやたら出てくるが、つまりそういう好奇な外人視点とまったく同じ見方で当代きっての鮨職人を撮影しているキワモノ感覚で鮨をみている、それがこの映画なのだ。

・自転車で荷物用のエレベーターから下りてくるシーンにしても、ギャーギャーウルサイ六本木ヒルズエスカレータで上がっていくシーンにしても、好奇の目で日本を見ている外人が、そういう外人に受けるようなシーンを集めて撮った映画、それがこの映画だとも言えるだろう。

・ここまでこき下ろしたのでついでにもう一ついうと、カメラが全部見下ろし。店の中でも、鮨を握る姿も、同窓会も、とにかく全部上から見下ろし・・・背丈のデカイ外人がカメラ抱えて、しゃがみもせず、視点を対象によって変えフレームに区切られた絵が最高の姿になる場所を選ぶ・・・なんてこと、微塵も考えてないんだろうな。みんなおんなじ背の高さからただ撮ってるだけ、素人撮影、運動会や家族ムービ撮ってるのと同じ。日本の文化《鮨》を撮るならもうちょい小津でも勉強してから撮りやがれ! とでもいって終わりにしよう。