『アメリカン スナイパー』

・秀作、傑作を毎年立て続けに出し続ける監督、クリント・イーストウッドの新作ということで公開前からかなり話題になっていたし、数多の批評家や芸能人、文化人(似非も含めて)が「素晴らしい作品だ」「最高傑作だ!」「これほど胸を打つ作品に出会えるとは」などとほぼ大絶賛の感想、批評を繰り広げていた作品でもある。

・だが、この作品は正直、映画として余り面白くない。あと少し何かが欠けていたら“つまらない”という表現にも落ちていたかもしれないような映画である。だがこの映画はギリギリ一歩手前でいわゆる“つまらない”には落ちていない。この映画がギリギリの所で堕していない紙一重の“つまらない”は“くだらない”とか“観る価値がない”といった“つまらなさ”ではなく、ギリギリまで余計なものを削ぎ落とした、徹底的に飾りや、今の映画にありがちな、常態、定番化している虚栄的演出、作為的演出を排除した監督の技量によって意識的つくられた“つまらなさ”なのだ。

・それはあたかも、何一つ上に材料を乗せていない、塩すらほんの少ししか加えていない、本当にプレーンな素焼きにしただけのピザ生地のような映画なのだ。それはまるで“今の映画”であることを自ら否定しているかのような“映画”なのだ。

・本来ならばトマトソースを塗り、チーズをまぶし、ベーコンやコーンなどを上に散りばめてトッピングし焼きあげるのがピザだ。だがその全てを取り除き、生地だけを焼いたもの・・・まさにこの映画はそういう作品だ。

・本来(いや、それは本来ではないのかもしれないが)映画というものが、脚本や撮影で長年かかって培ってきた観る者の気持ちを刺激し、興奮させ、楽しませ、わくわくさせ、泣かせ、悲しませるといった“演出”という作為がこの映画では稀なるほどに希薄なのだ。

・演出とはそもそも作為的なものだ。いかに観客を刺激し、鼓舞し、画面に観客  それが騙し、あざとらしさにつながったじてんで興ざめする、しかしさっこんの映画はそれが過度にいきすぎそれがあたりまえのようになってしまっている。

映画が素の状態である。