『私は貝になりたい』

●1958年テレビドラマ、1959年にその映画化、そして1994年にテレビドラマでリメイクされ、今回オリジナルから50年もの時を経て再映画化・・・・去年辺りから古い作品のリメイクはやたらと多いが・・・・そのどれもが今ひとつパッとしない。想像通りでこの作品も何のためのリメイクと言わざるを得ない。

橋本忍がもう一度書き直したかった脚本ということだし、オリジナルは高い評価も受けているし、脚本とストーリーはもう折り紙付のクオリティーである。それがこんなに面白くもなんともない映画になってしまうというのは、やはり監督、演出、キャストの問題ということになる。

●この映画、BGMがやたらと五月蝿くて耳障りだった。BGMにそういうことを思うことは殆どなかったのだが、シーンを覆いつくすように流れる交響曲がまるで絵に合っていない。音が大きい。音楽が絵を膨らませより感情を高まらせてくれるというのが映画音楽というものだが、この映画では全然そういうことが無かった。映画音楽の大家でもある久石譲だというのに、何でこんなことになってしまったのだろう? BGMが流れていないときのほうがよほどホッとして画面を見ていられる。そういう場面が少ないので困った。

●編集も、驚くほどぶった切りというシーンが数箇所。本当にザバっと情緒余韻も無視して切って繋いだという感じであり、この映画、音楽にしてもなんにしてもちゃんと作っているのか?と疑問が出てきた。

●主役が仲居、その妻が仲間ということを聞いた時点で、ああ、これは地雷になりそうだなという感じはしていたのであるが・・・・それ以上に何か圧倒的に訴えてくる演出が足りない。

●中居、仲間の二人は見るに堪えない程の演技ではないのだが、既にTVメディアでそれぞれ特徴のある顔姿演技を露出しすぎている。それを塗り替えるほどの演技の巧さはない。だから結局スマップの仲居であり、ごくせんの仲間のイメージが付きまとってしまう。

●キャスティングは映画を作る上で重要だ。それは映画のクオリティーとしての重要さと、人を呼ぶための重要さがある。今回のキャスティングは作品をより良くするためのキャスティングではなく、人を呼ぶためのキャスティング。それは別の意味で役にも立つのだが。(似たようなことは「闇の子供たち」の批評でも書いている。)

●半世紀も前の名作を今の若い世代で知る人など殆どいないだろうし、このようなBC級戦犯に対する不当な裁判を知ることもまずないだろう。そういった意味では中居や仲間を使ったお陰で、何も知らない若い層がこの映画を観に足を劇場に運ぶことを促進するだろうし、そういった若い層に日本が終戦後にどういう立場にあり、敗戦国がどういう処遇を受けたのか、その原因となって軍国主義がどんな愚かなものかをほんの少しでも知らしめるという効果はある。映画のクオリティーとは別の次元で。

●劇場にはきっと中居、仲間の二人に引き寄せられた若い客層と、50年前のドラマを記憶している年配層という二つの観客軍が訪れることだろう。まるで時間の隔たった二つの観客層が来ることでそこそこの動員も見込めるであろう。そもそも一連の古い邦画のリメイクは皆このパターンである程度の動員を稼いでいる。

●こう言った作品が今リメイクされ、戦争の悲劇がそれを知らない世代に伝わるならば何らかの価値はある。だがそういう若い世代には「明日への遺言」をこそ観てもらいたいものだ。「明日への遺言」に足を運ぶ若い世代は希少であろうが。

●この監督は最も視聴率を稼げるTVドラマを作る人ということだが・・・今回の「私は貝になりたい」は”映画”としてはまるで精彩を欠く詰まらない一本であった。

●繰り返すが、それでも若い層になんらかの新しい意識を投げ掛けるだけのきっかけにはなるだろう、そこが救いでもある。

○絞首刑が決まった後、一人暗闇の中に座る中居。その目付き形相は鬼の如くであった。目元をライティングで際立たせているが、よくこれだけ恐ろしい目が出来るなと思った。まるで凶悪犯かホラー映画の主人公の如くである。このシーンにはちょっと驚いた。

○ある映画評のページで「赤紙召集令状)が来て、出征するとき、家族・友人・地域の者たちが万歳をして送り出すというのは、映画や演劇の「出征シーン」のパターンである。しかし、この映画のそれほど「明るい」出征シーンは見たことがない。」とあった。なるほど確かにそうだ。送り出す側も送り出される側も本来はお国の為という国全体の強制された思想で万歳を繰り返すのだが、その心の中は死に行く前の最後の別れである。それなのにこのシーンはそういった悲しさや苦しさが感じられない。あまりに歴史性に欠けるというのは確かだ。この辺りもこの映画の製作者サイドのこの時代、この背景にたいする認識の甘ったるさであろう。そういうのが積み重なってこの映画を陳腐なものにしているのかもしれない。

ミスチルはあれもこれもと映画のテーマ曲にひっぱりだこだが、曲と詞はいいのだが、それが映画にあっているかどうかとなると・・・・今回にしてもエンドロールでミスチルが流れてきてもなにか作品に融和していないと思えて仕方ない。こういったパターンは「どろろ」でもそうだった。