『JOKER ジョーカー』スタイリッシュに描かれる狂気。しかしジョーカーは極悪ではない。描いた狂気はジョーカーではなかった。

バットマンにおけるジョーカーは極悪非道、悪の権化、とにかく頭の中から爪先まで悪の塊・・・ずっとそんな風に描かれてきた。

 

そしてこの映画も言ってみればそういう極悪非道を全面に押し出した映画であろうと想像していた。

 

しかし、それは全くの予想外の作品であった。

 

まさか、ジョーカーをこう描くとは。練りに練ったその先でこういう形にジョーカーを持ってくるとは・・・驚きである。そしてハリウッドの底力をひしと感じる作品でもある。

 

まったく奇をてらわぬシンプルでストレートな脚本。つまらぬ伏線やわざとらしい驚かしもない。

 

そして、そのシンプルな脚本をスタイリッシュな映像と音楽でまとめる監督の力、創造力。

 

観客に媚を売らない、小手先のしみったれた過剰演出もない。本物の脚本、本物の映画というべきか。

 

この映画はジョーカーの極悪な狂気を描いているのではない。人を殺す、それも惨殺する、その形は狂気だ。しかしこの映画が見つめさせる先にあるのはジョーカーの狂気ではない。こんなジョーカーを生み出したゴッサムティーの政治であり、支配層であり、それを包括する社会そのものだ。

狂気を生み出したのは社会、人間の強欲や妬みが生み出した社会だ。狂気を生み出しながら平静と良識の仮面をかぶった偽善者たち、その側にすり寄る守銭奴たちだ。

ジョーカーやジョーカーが属する側は、搾取され貶められ蔑まれ卑下される。悪いことなどなにもしていなくても。

この映画はジョーカーの狂気を描いているのではない、ジョーカーを狂気に貶めた社会の狂気こそが悪なのだと暗示している。

 

映画を観ていてハッっとしたシーンがあった。そしてそのシーンにこそこの映画の一番大切な、重大な意味が込められているのではないかと思えた。

 

警察に捕まりパトカーに乗せられて連行されるジョーカー、街にはピエロマスクの暴徒が溢れ出している。

ジョーカーを乗せたパトカーがひっくり返り、ジョーカーもそのパトカーに閉じ込められる・・・しかし、そのジョーカーを救ったのがピエロマスクの暴徒達だ。

 

暴徒の一人がパトカーから這い出そうとしているジョーカーに手を差出す・・・その手がスクリーンいっぱいにアップに映し出される・・・そう、差し出されたその暴徒の手、その手だけがスクリーンに映っているのに、その手には愛とか優しさが滲み出していた。ジョーカーに差し出された手に凶悪さも何もなかった、その手から感じられたのは聖母のような優しさだった。

ただ差し出された手なのに、言葉や顔よりも何よりも強く大きな愛と優しさがあの手に映し出されていた・・・。

 

映像の極み。

 

映像に乗り移る監督の心

 

あのシーンこそが、この映画の核心だと言えるだろう。