『天国からのラブレター』(2007)

●あの1999年光市母子殺害事件を描いた映画ということで、ずっと気にはなっていたが、どうしても観ようという気持ちになれなかった。あんな残忍でとても正常な人間が行うとは思えないような事件をどうやって映画にするというのだ、あの事件を映像で再現するというのか? そんな事が出来るのか? 映画の内容が事件を再現するようなものであったとしたら、そこに自分は目を向けられるか? そんな映画を作ることは死んだ被害者とその遺族に対する冒涜以外の何ものでもないのではないか? あんな腸が煮えくり返るような事件を映画化するのは、女子高生コンクリート殺人事件を映画化した「コンクリート」のごとき卑しさになのではないか? 事件のことや被害者のことなど何も考えず特異な事件に対する興味本位の人間を引きつけようとする制作陣の卑しい魂胆が滲み出た最低の映画なのではないか? そんな気持ちがあって、この映画はずっと観ないままであった。

●今ようやくこの映画を観ようという気持ちになったのは『告白』を観た事で少年法のことを考える機会があったせいかもしれない。

●原作本に対する非難、中傷はネット上に散乱していた。だがとにかく、"映画"としてこの作品はあの事件をどう描いているのか、どう捉えているのかを確かめたいと思った。ひょっとしたらこの映画を観ることで、史上最低の邦画だと言いたくなるような憤りを自分の中に着床させるかもしれないという憂いもあった。そんな作品ならば観たくもないという思いも残っていた。恐る恐る観賞する状態だった。

●だが、この映画は自分が抱いていた憂いに該当するような部分はほとんど無い作品だということが分かった。ある意味ホッとともいえる。

●映画は二人の出会いからデートを重ね、就職し、結婚し、子供が産まれ、二人の暮らしを作り上げていく部分までに尺の殆どを費やしている。78分の映画で58分までがこのようなどこにでもあるような何の変哲もない普通の恋愛模様を映し出す。そして最後の20分で、事件が起こり、主人公が悲しみの中に突き落とされる瞬間までを描いている。しかし、犯人が部屋に押し入るシーンも、犯人の顔も姿も、爪先の一部すらも画面には映し出されない。唾を吐きかけてやりたくなるような犯人の姿は一切映らない。チャイムの音がして、玄関のドアが開けられる音がするだけで、シーンはカットされる。

●暴行、殺害のシーンも一切無い。夫が家に戻ってきて殺害された妻と子を押し入れの中から見つけるシーンも、驚愕する夫の姿を映すのみとし、余りにも惨く悲しい殺され方をした妻と子の姿も一切映像として映していない。そう言ったシーンは全て観る者がイメージすることに委ねられている。

●ストーリーというものが四段構成の"起承転結"や三段構成の"序破急"で作られるとするが、この映画は58分もだらだら延々と続く"序"と残り20分の"結"だけしかない。それだけで作られた摩訶不思議な不可解な特殊な映画とも言える。

●仮にもし、この映画があの劣悪な事件を題材として描かれているということを一切知らずに観たならば、何がなんだか良くわからない駄作として捉えられる可能性が高い。映画が始まってからずっと男女のイチャイチャ話が58分も続き、一体なんの映画なのか? こんな詰まらない恋愛映画なのかと思うかも知れない。押し入れの前で嗚咽する夫の姿でようやく非道な事件が起こったということに気づくのではないだろうか? その位この映画は事件そのものの事を描いてはいない。敢えてそう言う手法を使っている。

●この映画は、その題材となった極悪な事件を観客が知っているという前提で作られている。事件の非人間的部分、犯人の極悪な部分は映像として描かれてはいない、しかし事件を知っている観客の頭の中で想像され、観客の頭の中で映像化される。この映画は"序"と"結"だけを提示し、その間にある"承"も"転"も、"破"も"急"も描いていない。事件と犯人のおぞましさを直接に描くことをせず、それを観客が想起するイメージに委ねている。

●卑劣、悪劣極まりない事件を映画化するにあたって、こういう表現、構成手法を取らざるを得なかったのであろう。極悪な事件をそのまま表現し、映像化することは事件のおぞましさや、卑劣さを観客に伝えるよりも、そのセンセーショナルな極悪犯罪行為にのみ関心を持ち、それを面白がって興味本位で観察する輩を呼び込み、その犯罪行為にのみ興味をもって、同じ犯罪行動をとろうと頭に思い描く下劣な輩を発生させる可能性がある。(『闇の子供たち』で引用した斉藤百合子さんのコメントより)

●この映画が表したかったことは、実際に起こった犯罪行為の卑劣、下劣さであり、それに巻き込まれた人の悲しさ、悔しさ、非道な犯罪行為に対する怒り、憤りであろう。エログロ趣味の卑しき輩の興味に応える映像を排除し、犯行の卑劣さを観客に訴えるにはこういう手法が必要だったのだ。

●原作本は読んではいない。その内容の部分で相当に揶揄中傷されていることは知っていた。この映画は原作本とは違うなどという発言をしている人もいるようだが、そんなことはまるでどうでもいいことなのだ。タイトルは同じだとしても、この映画に関わった人が表現したかったことは、原作を忠実に映画化することなどではなく、あの非道卑劣な事件の悲惨さや、おぞましさ、怒りを映画という形で観る人に伝えたかったということなのだろうから。だからこの映画の構成、その在り方は非常に特異な形式ではあるけれど、間違っていない。あの事件を映画化するにはこういう形をとらざるを得なかったのだ。そしてそれで正しかったのだ。取り上げた題材を歪曲されることなく伝える手段としてこういうスタイルを取ったのだろうと解釈する。

●こういう異常な事件を映画化するというのは非常に難しい。こういう映画は、異常さ、センセーショナルさをフックにして世の中の注目を集め、観客の動員を計り、製作収支を黒にもっていって儲けようとするかのような薄汚く狡い製作サイドの顔が見え隠れすることも多々ある。正直なところこの映画もずっとそういう類いの映画、そういう輩が作った映画なのではないかと想像していた。だが、少なくとも観た感想としてはそういう薄汚い魂胆はこの映画の中に滲んではいなかった。それは良かった。

●正直なところ映画としての出来はお世辞にも良いと言えるようなものではない。学生が学園祭で上映する自主製作映画レベルでもある。延々と続く二人のいちゃいちゃ場面もそれだけを観ていたらうんざりしてしまう。背景にある惨たらしい事件をイメージしなければ映画として評価するような作品ではない。

●この映画はそもそもの映画として成立していない。"序"と"結"だけが提示されたような映画だからだ。この映画は観た人それぞれが頭の中で想起するイメージによって完成させられるのだ。事件を知る人が観て、その事件の酷さ、被害者の悲惨さ、悲しみを思い描き、それによって完成する映画なのだ。その想像のきっかけのみを見せている映画なのだ。この映画を観た人がどう感じるかということが映画を完結させる。

●こういった題材を映画化することは、非常に難しくその表現方法も困難であっただろう。これは"映画"というようなものではないかもしれない。だが、卑劣、極悪な事件を観た者に思い描かせ考えさせる"映像作品"として価値はある。

●後は観た人間がどう捉えるかだ。自分は『告白』の時に感じたことと同じように、こんな事件を起こした人間をそれが少年法の適用される年齢であったからといって、犯人にも人権があるからなどといって擁護する気にも、許す気にもならない。そういう思いが沸き上がってきた映画であった。