『ディア・ドクター /Dear Doctor』

●予想を遙かに超える満足度。丁寧に炊き上げられ、ピカピカツルツルと光った上等な甘い香りの立ち上る御飯をたっぷり口いっぱいの頬ばり、しっかり噛みしめて腹一杯食べたような充足感、満足感.....今のところ今年の邦画ではNo.1、洋画ベストの『グラン・トリノ』にも通じる質実な作品。

●もちろん脚本もなかなかであるし、監督の演出もいいのだが、それ以上にこの映画は役者の演技力が際だって光っていた。僻地の医者を演じる鶴瓶の演技が注目されているようだが、もちろん鶴瓶もいい味の演技をしている。しかし、この映画の中で兎に角、白眉中の白眉、まったくの自然体であり、演技をしていることすら感じさせ無い程の素晴らしい演技をしていたのは鳥飼かづ子を演じた八千草薫である。今更八千草薫の演技が巧いだなんだというような女優ではないとは思いつつも、やはり上手い!上手すぎる。吉永小百合ももう大女優として批評など恐れ多くてできないほどだが、八千草薫の演技はもう感涙もの、絶品どころか極上の極みだった。玄関で吐血し、伊野に背中をさすられているときに「やっぱりつらいわ」と漏らす言葉、天皇家の仕草のように手首から上だけを動かして手を振るしぐさ、そしてなんと言っても、ラストで示す驚きの表情(このブログはネタバレし放題で書いているが少しは隠す)。このラストの「あ!」という驚きの表情はもう絶賛してもしきれない位の素晴らしさだった。良い映画であったが、このラストの八千草薫の演技を観ただけでもこの映画を鑑賞した価値は十二分にあると思った。もう涙が流れてきそうで、背筋にぴりぴりと電流がはしるようであった。素晴らしい!

●兎に角、その他の役者の演技も素晴らしい。少しあざとさは残るとはいえ、余貴美子の演技も格別。八千草薫の演技があったからそちらに目を奪われてしまったが、余貴美子の演技は素晴らしい。肺気胸と思われる患者の胸に針を突き刺すよう伊野に指示しする下りの余貴美子の目つき、演技は恐ろしい強さまで感じるような迫真の顔だった。香川照之は今回はちょっといまいち。まあ出番もそれほど多くなかったが『剣岳 点の記』での長治郎役があまりにはまりすぎていたので今回は少々違和感あり。しかし香川も最近話題の邦画にはほとんど顔を出しているがどんだけのスケジュールをこなしているのだろう。

瑛太も数々の役をこなしてもう充分に実力ある演技をスクリーンでみせてくれている。グラドルから脱却した井川遙も実に演技がよくなっている。笹野高史は言うことなし。それ以外でも患者の老人や診療上に訪れる村の老人、彼らが並んでいる姿なども実に味わいのある顔がそろっている。よくぞこれだけ演技の上手い役者、味のある顔の脇役を集めたモノだと感心する。この映画のクオリティーは役者の素晴らしさによって相当カバーされていると言っても良いだろう。一二が無くてもキャスティング。黒澤組で言われたことだが、まさにこの映画はその典型と言っても良い。そこに脚本の良さと監督の演出、そして美しいカメラが絡まり合って素晴らしい一作が出来たのだ。

●「ディア・ドクター」が僻地医療のストーリーと聞いて、声高々に今の医療の問題をアジテートするような映画だろうかと訝しがっていたのだが、そんな杞憂はまったく不要だった。西川美和の脚本は僻地医療の問題を観る者に強く訴えかけるのではなく、じんわりと滲むように染みこませる。"映画”としてのストーリーの面白さ人間ドラマの部分が抜きん出ていたため、僻地医療が抱える問題点はぼやけてしまった感もある。

●僻地医療の部分は映画の中の背景であり、僻地医療が生み出してしまった1人の男の煩悶、1人の男の優しさとそれにすがり慕う周りの人間の心が生み出してしまった無資格医師という”社会的な罪”、こんな医療状況が実在する日本という国でその嘘が”本当に罪なのか”という疑問符を投げかけること。それこそが映画のテーマなのだなと思い見終えた後の感動は高まった。

・僻地医療の問題点という部分ではドラマティックな演出に終始した「Dr.コトー診療所」よりは現実味があるが。

●映画の作り方は非常に良い!ワンシーン毎に絵も丁寧に作り込まれている。鳥居かづ子の家にあった足踏み式のミシンなどよくぞこんなものを見つけてきたものだなとそちらに目がいってしまった。(昔は確かにこれがあった) 診療所の看板の汚れ具合、伊野の家の雑然とした雰囲気、いい加減な作りがない。美術スタッフの努力、監督のこだわり・・・しっかり映画の厚みになっている。

●登場人物それぞれのセリフもかなり重く、意味深いことが語られている。それを一つ々取り上げて解説、感想を言っても仕方ないが、二回目に観るときはセリフの意味がもっとぐさりと来ることであろう。

●カメラワーク、色が美しい、久しぶりに美しいなと思える田んぼの風景を映画で観ることが出来た。茨城の日立太田などで撮影したということだが、緑美しい稲穂が風になびく映像はそれだけを観ていても優しい気持ちになれる。蛙が水に浮かぶシーンのアップ、ひっくり返ったカナブンが起きあがろうと必死でもがくシーン。こういった挿入シーンも綺麗だ。テレンス・マリックの映画作品を観ているような気分になる。撮影監督 柳島克己の功績が大きい。

・アイスクリームが溶けるシーン、ルージュをアップで映したシーンなどは監督の意図なのだろうが、ちょっとあからさまなのでわざとらしさを感じる。

●正直、2003年に西川美和が「蛇イチゴ」で若干28歳で脚本、監督デビューしたときは穿った目で見ていた。テレビ局のプロデューサーが大して実力もないのに新進の女性脚本家をゴールデンタイムのドラマに起用し、愛人のごとく局内を連れ回していたような状況と被さり(そういった女性脚本家は今ではどこにいったのか、大抵離婚、不倫、次作で大批判されたりして海外に逃げたりしている)西川美和も似たようなパターンで誰かに実力とは別の所で起用されているんではないか?と邪推していた。ちょうど2003年10月号の「シナリオ」には『蛇イチゴ』の脚本と西川美和のインタビューが載っていたが、今の今までこれは読んでもいなかった。『ゆれる』も自分としてはオダギリジョー、真木ようこに女性監督という話題性でロングランしたのだろうという感想に止まった。しかし、今回の『ディア・ドクター』を観て西川美和の視点、映画作りにほぼ感服。今更ながらに改めてこの女性監督凄いと思い直した次第であった。

西川美和は「映画は出来上がってしまったら解釈は観客に委ねる」というようなコトを言っている。この映画は確かに、観客がどう解釈するか、言葉やシーンをどう受け取るかでいろいろと感想も変わってくるような作品だ。短絡的に一方的にこうだ!と言ってしまうことも出来るけれど、非常に曖昧、ファジーであり、明確な主張やアジテーションを避けているような作品でもある。

●こうなのだよ、こういうこともあるのよ、それってあなたはどう思う?そういうメッセージ性は低い、少ない。監督は故意にそうしているのだろう。自分がこの映画をどう受け取る?と問われたら、日本の僻地医療の問題でも、資格をごまかして医師を演じていた嘘、罪の映画でもなく、これは結局の所人間の素直な心の”愛”の映画なんじゃないかなあと思う。最終的に一番心に残ったのは、村人が伊野を慕う気持ちであり、大竹(余)や相馬(瑛太)の伊野にたいする愛であり、そして伊野(鶴瓶)と鳥飼かづ子(八千草)の愛の映画だなと思う。最後に残ったのは愛、人々のほのかな優しい愛、年老いてしまったけれど病を抱えているけれど、嘘を付いているけれどそれでも繋がる愛の物語、ラブストーリーなんじゃないのかなって思えた。

西川美和は以前対談で「ラブストーリーに興味はない」と言っているようではあるけれど「ディア・ドクター」はじわっと来る正真正銘のラブストーリーである。

●もう一度見に行きたい。久しぶりにそう思える作品。
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◎参照:「ディア・ドクター」のロケ地に関して記載されていたブログ
◎試写会で行われた西川監督のティーチインの様子はあちこちのブログに細かく書かれていて、それを読むのも割と面白い。これとか、これとか、これなど・・・
NHKトップランナーに出演(6/19)したときのレポートもあちこちあるが、これなどが面白い。TV全然見なくなっているがこれは見たかったかも。
http://www.youtube.com/watch?v=nLWxyAxpyxQ:movie:W600

公式サイト:http://deardoctor.jp/
ぴあ映画生活:http://pia-eigaseikatsu.jp/title/26344/
goo映画:http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD14505/index.html

☆2011・7・20 二年振りに再見
・ものすごく良かった映画というのには二種類ある。直ぐにまたもう一度観たいと思う映画と、最初に観て感動した余韻に浸っていたくて暫くは観ないでいたいという気持ちになる映画。『ディア・ドクター』は後者だ。
・しかし、登場している役者の演技がもうたまらない位うまいなぁ。
・細かな作り込みも今回再見して良く分かった。細部にまで本当に目を配って一枚一枚のフィルムのコマがキッチリとした絵に仕上げられている。
・緊急気胸エア抜き吹き出した空気でメガネが曇るところだとか、映画館では気がつかなかったシーンもあれこれ。うーん、と唸る。
・誰かの映画を真似ているような部分も感じられないし、西川美和のオリジナルさで作品が充満している。途中途中で意図的に動物やアイスなどの一見無関係な絵を挿入するのはテレンス・マリック的ではあるけれど、真似事をしているという感じはしない。
・ラストシーンの八千草薫の驚く顔はやっぱり曇り空がすっと晴れ太陽の光が刺すような爽やかな感動。伊野(鶴瓶)の顔を正面からとらえず、メガネを掛けた横顔の微妙な表情の変化で、でしゃばらず奥ゆかしく感情を表現している。これもまた美。そこでストンと映画を終わらせているのも余韻がずっと響くので巧。
・セリフで心情、感情を説明するのではなく、映像と絵の演出で心情を感じさせる。映画が映画であるべき姿。
・これはやっぱり良い映画だ。上手い映画だ。情緒もある映画だ。
・自然描写が美しいからキッチリと仕上げたブルーレイの画質でも鑑賞してみたい。
・最近の邦画の中でこの作品はとても好きだし、とても秀でている。

http://www.1101.com/nishikawa/2009-09-01.html