『雨あがる』(1999)

●1998年黒澤明没後、遺稿となった脚本を黒澤明氏の長男である久雄氏が「この脚本は小泉さんに映画化してもらいたい」と言って映画化が決定したという。

黒澤明の寡黙な参謀と言われる小泉氏。黒澤明監督の晩年まで最も側に居た人、最後まで黒澤明に全幅の信頼を受けていた人。黒澤明が残した脚本を映画化するに、確かに小泉氏ほど適任な監督はいなかったであろう。

●この映画は公開時に鑑賞してラストシーンの爽やかさになかなかやるな、と感心したものであった。8年振りの鑑賞となったがこの映画の持つ爽やかさ、優しさ、柔らかなそよ風のような雰囲気はまるで色褪せていない。

●「見終わって、晴れ晴れとした気持ちになる様な作品にすること」黒澤明は脚本の覚書にそう記していたという。まさに見事にその覚書は映画で実現されている。

●最盛期の黒澤監督作品には観る側にも緊張感を強いるような厳しさがあった。それはある種観ていてちょっとしんどくなる、辛くなるような部分でもあった。晩年の作品にはそういった部分は薄らいだが、それでも監督の個性がビシビシとスクリーンから発射されるような感じはあった。強烈な個性で自分の思った通りの映像を強引に我が侭なまでに撮ろうとした監督なのだから、その個性が作品にも滲み出ていた。「映画には全てが出てしまうんだ」と黒澤監督本人が言った通り。

●非常に良く出来た脚本。黒澤監督が晩年に撮りたいと煮詰めていた脚本。それは確かに文句の無い出来である。しかし、もしこの作品を黒澤明が監督していたら? こんな優しく、柔らかで、爽やかな作品になっていただろうか?

●前述の覚書の様に黒澤明自身が「晴れ晴れとした気持ちになる様な作品に」と記しているのであるから、小泉監督はきっとそういう部分を違えずに映画を完成させたであろう。だが、もしこの作品を黒澤明が監督していたならば、黒澤明の棘、アクの強い個性も作品に宿ってしまっていたのではないだろうか? 大筋では同じだろうけれど、小泉監督の「雨あがる」とは受けるニュアンス、雰囲気、優しさ、そういった色彩が違う作品になっていたのではないだろうか?

●この「雨あがる」は小泉堯史が監督したからこそ、この優しさ、柔らかさ、清々しさ、爽やかさが作品に宿っているのだと感じた。

●黒澤組が総結集し、黒澤明の作品として。黒澤監督流のやりかたで、「雨あがる」を映画化したのだが、これは黒澤作品を越えた、もっと素晴らしい小泉堯史監督作品に昇華している。黒澤明の元で長年に渡り助監督を勤め、黒澤明の映画の撮り方を肌で学んできた小泉堯史がすべて黒澤流を踏襲して作り上げた作品、そうして出来あがった映画は、小泉監督の優しさ、温かさ、清々しさを備えて黒澤明が監督する以上の質に仕上がってた。この「雨あがる」は黒澤明を越えた小泉堯史作品として輝いていると思う。それはきっと天国の黒澤明にしても「よくやった、お前が作ったから俺よりも良い作品になった」と言わしめるものではないかと思うのだ。