『苦役列車』(2012)

芥川賞の話題に乗って、大衆の記憶に残ってるうちに映画化してしまえっていうのは大昔からやってることだが、内容を煮詰めもせず、何かを伝えようというわけでもなく、ただ原作の話の筋をなぞっただけでハイ撮りました、作りました、ちゃんちゃん!そんなもんで適当に作ったかのような映画だ。

・ぎっちり煮詰めて、考えぬいて撮った映画(最近そういうのは少ないだろうが)の対局として、こういった粗製の映画はまるでインスタントラーメンのようなもの。最後はしまりもなくだらりと尻切れトンボのように終わって、一体なんだこれはという呆れた気分だけが残る。『ゲゲゲの女房』もまさにそういう映画であったし、そういう風にチャチャチャと余計な監督の考えなんか入れず、粗造りしてなんとか観れる形にしてくれる監督というのも今の世の中は必要なのだろうし、使いやすい、都合がいいのだろう。

・それが映画というもの、何かを表現するというもの、創造するというものとは甚だかけ離れていても、そういうのを求められる監督というのは、そういうのをこなす監督というのは工場の機械みたいなものだろう。

前田敦子もまあ最初っからこういう映画に出る必要もないだろうに。

森山未来は頑張っているが、だからってそれがどうしたってわけでもない。頑張りましたで認められる仕事ではないんだし。

・原作も女性からしたら、いや男性が読んでも不快感がにじみ出るような作品であったし、それが文学の一表現としてなら存在価値もあるのだろうが、この手の映画にしてしまう意味合いはあるまい。最もウケない、普通ならとてもじゃないが採用しないような話を映画にするというのは如何にプロデューサーや出資会社などが権威というものを抱っこしたがっているかということだ。芥川賞という権威を着たいがためだけに他は全部どうでもいいよという感じで作られた映画とも言えるだろう。