『ヒミズ』(2011)

二階堂ふみの演技は最初からなかなか。染谷将太は最初はダメだが、殺しに至るところからグンと良くなる。渡辺哲はいぶし銀のような演技。流石の熟練俳優。本当はこの人、脇役ばかりじゃなくてもっと表に出てもいい実力。

・家族の絆なんてものが全く途切れていて、唯一最後に頼るべき親というものが、子を捨てようとする、殺そうとする。そんな絶望的な状況のなかに落ち込んでしまった少年と少女の物語り・・・絶望的に暗い、暗いけれど二階堂ふみの、なんとか、なんとか一滴でも元気を振り絞りだすんだっていう演技がその絶望感を遮ってくれている。

・その反面、染谷将太のほうは、どうにもならないくらい絶望的な状況なんだけど、ひねているというかふてくされているだけというか、目や顔に絶望が浮かんでいない。元気な少年が意地を張ってひねくれている、世の中にそっぽをむいているだけというふうに映る。

・だから、こんな絶望的な状況を背負った登場人物の話なのに、画面にその絶望の悲惨さや、奥深い暗さ、とてつもない悲しみ・・・そういったものがひしひしと感じられない。

・被災地の映像は本当に必要だったのか?

・絶望的な状況を描いているのに、なにか重さがない。軽い。

・場面をいくつか観ていると、もしこの登場人物が外国人だったらと思ってていると、ヨーロッパのヌーベルバーグ映画のような雰囲気が出ている。そこがヨーロッパの映画祭で受けているところか?

・河川敷で唄ったり踊ったりしている場面だとか、被災地で叫んでいる場面だとか、何人もが走って追いかけていくところを引いて撮っている場面だとか・・・これ、ニューシネマとかヌーベルバーグ的な匂いがしっかり滲み出している。(意図しているかどうかは別として)

・しかしだ、この映画は一体なんなのだろう。悲惨な状況に置かれ、絶望しか無くなったような子供たちが絶望の底から這い上がろうとする映画なのか? だったら何故、主人公二人の絶望がこんなに軽いのだ。こんなにサラサラとしているのだ。

・街をふらつき誰かを殺そうとしている男、シルバーシートに座っていることを咎められて人を刺し殺そうとする男、男のアパートで体中に落書きをされゴミを捨てに出てくる女。そして主人公二人の両親、家庭、その環境・・・なんでこんな!と言いたくなる酷い人間たち、親達、そこに落ち込んだ人間たち・・・なのに、画面が説明している状況がズンと響いてこない。ドスンと胸を突いてこない。体のまわりをサラサラと流れて飛んでいってしまう粉末のように、悲惨で絶望的な状況が圧倒的に、絶対的に軽いのだ。サラサラとして重みがないのだ。

・だから、二人の絶望や悲しみが、絵空事のように思えてしまう。二人の絶望や悲しみが重機のような重さをもってのし掛かってくることも、襲いかかってくることもない。絶望や悲しみが演技にしか見えない、感じられないのだ。

・だから、この映画は見終わっても肩に伸し掛かってくるものも感じ無ければ、胸を苦しく締めつけられることもなかった。(少しはあったけど)

東日本大震災地震津波で家を流され破壊され、ボート屋の側にたどりついて暮らしている人達にも、あの強大な自然の力でズタズタに、希望も夢もなにもかもを押し潰され、どうにもならない、どうすることも出来ない大きな力に打ちのめされ、諦めることしかできなかった被災者の絶望感、失望感、喪失感、底なし沼のような悲しみが浮かんでいる、滲んでいるとは到底思えない。(ただのホームレス浮浪者のように見えた)

・だから、この映画は悲しみや絶望感など全く、全然映画として表現できていないし、それを観客に伝える技も熱も重さも、感じられないんだ。この映画にあるのは、絶望や悲しみを演技している、その演技だけなのだ、心が、本当の苦しみや悲しみや絶望が、登場人物の肌から滲み出る汗や、体臭や、体熱のように出ていないのだ。プラスチックで作られた人形が演技をしているように、この映画が描こうとしている悲しみや絶望に、人間の心や血が通っていない。

・だからサラサラなのだ。

東日本大震災の被災地を撮影し、それを映像に加えることで、あの時のあの被災地の悲しみや絶望を作品に付加したかったのだろうか?しかし、それも噛み合ってはいない。被災地の映像を入れてもあの時の絶望や悲しみや喪失感が甦ってくることはなかった。瓦礫の山のあの映像にすら、悲しみや絶望感が血肉として染み込んでいなかった。なにもかもが、セルロイドに描いたアニメーションのように体温と人間そのものを感じさせるものではなかった。

・ラストシーン「住田の”絶望”が茶沢の”希望”に敗れる」・・・か。それが東日本大震災の被災者に対するメタファー(暗喩)だというのか?あの震災時の絶望を、希望で塗り替えろというメッセージだということか?

・その希望のメッセージだというのなら、受け入れよう。だが、その希望のメッセージを発する土台となるものが、ヒミズという絶望的な漫画を原作とした映画でいいのか? その漫画に被災地の映像を加えたことで、希望のメッセージを発する土台足りえるのか? 違うだろう。希望のメッセージは付け足されたものにしかなりえていない。

・この映画は東日本大震災を絡めるべきではなかった。全く別の物語りに”絶望〜希望”というキーワードで結びつきをつけたとしても、二つが混じり合うことはない。ヒミズという少年少女の物語りに、東日本大震災の悲劇と絶望を重ねても被災した人々に、本当の悲しみと絶望を心に刻んでしまった人々に”希望”が届くとは、”希望の光”を灯らせることができるとは・・・とても思えない。

・希望を抱く人がいるとすれば、それは実際の被災した人ではなく、被災地を遠くから見ていた人。絆だ、頑張ろう、勇気をもって、希望をもってと被災していた人を、安全だった場所から応援していた人ではないだろうか。

・絶望を体験した人に見せる希望、絶望に勝る希望とは、こんなものではないはずだ。

ヒミズ公式サイト:http://himizu.gaga.ne.jp/


・音楽:サミュエル・バーバー 弦楽のためのアダージョ Op.11"Adagio for Strings"・・・プラトーンのラストで流れていたあの曲か・・・。『シン・レッド・ライン』のハンス・ジマーの音楽にも似ている感じがする。