『巨人と玩具』(1958)

・原作:開高健  監督:増村保造氷壁
・西洋介:川口浩、島京子:野添ひとみ、合田竜次:高松英郎
●古臭いな、というのが第一印象。極めて大時代的(ひどく古風。大仰で古めかしい。時代遅れ。時代がかって大げさ)と言っても、半世紀近く前の作品なのだからそれも当然、今の感覚で観れば仕方ないことなのだろうが、同じ時代に撮影された作品でも古臭さなどまるで感じず、今でも映像と演出の斬新さに目を見張り、驚くものもある(本当に希少だが)。風景、髪型、衣装、ファッション、車、町並み、そういったものから受けとる古さの印象をまるで感じさせない、払拭しているような演出、演技、映像の作品もある。そういった作品は今でも東洋を問わず名作として認められている。

●その古臭さを我慢してずっと観ていると、少しずつ画面に引きこまれていく部分はある。それはこの作品に少なからぬ熱気、熱意が篭っているからだ。原作者の開高健と監督の増村保造には終戦後の高度成長期の中でどんどんと人間性を失っていく社会に対する強い不満、怒りがあった。その熱い憤りが作品の中にこもっている。その熱さがあるから最後まで観ることはできた。

●だがそこまでだ。半世紀も経った今観るこの映画は、広告宣伝のいびつさ、大衆を見下した意識誘導、心理操作という今に通じる部分もあるのだが、もうそれは語りつくされ、当たり前のものになり、今更そんなことを言ってもどうしょうもないという段階に達してしまった。半世紀経って、それだけ社会も人間も悪化し、過去に提議された深刻な問題はすべて現代社会で標準化してしまった。社会の隅々まで菌糸を張り巡らせ見えないくらいに同化してしまった。

●この作品が大上段に批判している企業、広告宣伝の非人間性、非人道性、企業にあたかも滅私奉公するサラリーマンの愚かさは悪い意味で過去の物になってしまったのだ。もうそれがあまりに当たり前になってしまったのだ。そんなことを言ってもどうしょうもないだろうという意識が現代においては出来上がってしまったのだ。

●この映画は古い。映像も、演出も、音楽も、表現も描かれている内容も、主張も非難も告発も、古い。現在の社会状況や人間の感覚は悪い意味でこの映画とこの時代を追い越し、増長し、覆い尽くしてしまった。

●今においては、この作品が、監督が描いている、主張していることの古さを積極的に感じ取ることが、この映画を見ることの逆説的価値となる。

●この映画も開高健原作小説の映画化という鍵がなければ今振り返られることも殆ど無い作品だ。一般的な認知度は限りなくゼロに近いだろうし、開高健ファンや、出演役者のファンというのでもなければ知る人はほぼ皆無に近いだろう。邦画全盛期に呆れるほど撮影された大量生産映画の中に埋もれている一つだ。邦画の歴史の中で振り返って語られることもまず無い。

●ドンドコ、ドコドコと刺激的で騒々しく、正に大時代的な音楽で始まる映像。ずらりと大勢がならんで出勤するサラリーマンの姿。これ見よがしに壁に貼られた大きな大きな折れ線グラフ。昔はこんな折れ線や棒グラフで売上推移や営業達成率を誰にでも直ぐに認識できる情報にして、社員を鼓舞、叱咤激励、ケツ叩きをしていた、それが流行りでもあった。(今はパソコン画面の中にそれがあるのだろうけれど)

●なんとも古臭く、極めて類型的で、形式化した会社人間像、会社至上主義像、強欲経営者像、高度成長期のモーレツサラリーマン像、それがいかめしく、古く、類型的、形式的に感じるのは現代においてはそれがもう過去のものであり、もうそんなものは見飽きた、語りつくされた、そんなものは否定の対象でしかないという思いがある。だがそれとは対照的に、そんなものは否定の対象ではなく、もう既に社会の中で標準化してしまい、人間の内部まで浸透し、精神と思考に同化してしまっている。だからもうそんなものを取り上げ、炙り出し、浮き上がらせ、批判したってどうしょうもない、そんなことにはもう意味が無いという思いもある。どちらにしてもこの古さは確定され固定されているのだ。前向きにも後ろ向きにも。積極的にも自虐的にも。希望的にも悲観的にも。

●この時代の作品を観ていてよく感じることだが、役者の演技がかなり下手。喋りが一本調子で声の上げ下げだけで短絡的に感情を表現しようとている。邦画全盛期、お昼のTVドラマ級に邦画が大量生産されていた時代、小さな町や島にも何軒も映画館があり、邦画会社はとにかく毎週スクリーンを埋めるため乱雑に粗雑に次から次へと映画を作り続けた、監督らは撮り続けさせられた。そんな時代、役者は演技力よりもパッとした見栄え、知名度の方が優先された。演技力などなくてもそこそこ形になっていればいい、名前で客を引ければいい。会社からまくしたてられ、時間に追いまくられて映画を撮影していた多くの監督たちはしっかりとした演技指導を役者にすることも出来ず、せず、カメラの前で脚本に沿った演技をしてくれればその質までは求めなかった、求めていられなかった。役者もそれに甘んじていた。とにかくカメラの前で要求された演技をして、下手くそでもセリフを喋ればそれでよかった。この映画の役者の演技を観ているとそんな時代背景がひしと感じられる。熱意は感じられるけれど、表面的で形だけの演技と喋り方、演技の深みや奥行き、演じている役の心情が表現できているわけではない。演技というより役者が言葉で気持ちを説明しているようなものだ。

●大挙して出社するサラリーマンの姿、宇宙服を着せた女を撮るカメラマン、最後の方で出てくる踊りのシーン。宇宙服を来て大勢の人の中を呆然とあるいていく男。映像に骨太さはある。量産映画の中に骨太さと社会批判、人間批判の気概を入れたのは監督の熱意、熱気あればのこと。この作品は愚作、駄作ではないが積極的に評価する部分を見いださなければ忘却されていく作品であろう。そういう作品は星の数ほどある。開高健小説の映画化であったからたまたま自分は観ることになったが、それが無ければ観ることはなかっただろう。

開高健の小説で映画化されているのは『巨人と玩具』のみ。あまりに密度が濃く、文学的でりすぎる開高健の小説は映画化が難しいのだろう。高密度に組み立てられた言葉、文学作品は、単なる物語(ストーリー)とは異なる。物語(ストーリー)は映像化しやすいが、文学は映像化しにくい。