『母べえ』

●邦画バブルなどと言われて久しいが、今は明らかに洋画よりも邦画の方に素晴らしいものが多い。自分が学生だった頃は、自分にしても自分の周りの同級生にしても「邦画なんか観ないよ、どうしょうもないよ、やっぱり洋画の凄さには敵わないよ」と皆が同じように言っていた。日本全国に劇場が乱立するかのごとく出来、小屋のスクリーンを埋めるため、兎に角という感じで邦画が乱作され、粗悪なやっつけ仕事のような作品が有象無象のごとく公開され、それが続く邦画最悪の時代を生み出した。劣悪な邦画作品に呆れ返った観客は、邦画=ダメ映画 という公式を世の中に広めることとなった。そして自分も邦画が劣悪作品の垂れ流しをしていた時代を少し舐めて、邦画に対する期待感はゼロという時期を経験している。(角川映画など当時として頑張ったものもあったのだけれど)

●かっては洋画に心酔していた自分も最近ではあまり好んで洋画を観ることが無くなった。小振りな作品であったとしても邦画を観ているほうが、まだ映画を観たという実感に浸れる気がし、今では邦画ばかりを観ている。一緒に歳を重ねてきた同級生も「今は邦画を観るなぁ」と同じような事を言っている。ハリウッド作品のどうしょうもないパターン化、マンネリ化などが色々言われ、それが邦画回帰を促しているという考えもあり、確かにそれは当っているが、それ以上に粗悪品乱立の邦画最悪の時代からようやく脱し、今では、良心的でしっかりと作られた邦画が多く製作されているという、作品そのものの質の向上こそが、なによりも多くの人の意識を邦画に向けさせている最大要因であろう。TV局や芸能プロダクションの金儲けの為だけに作られているような作品だとか、人気俳優をキャスティングすることで観客を呼び込もうとしている作品、内容のカスカスな粗悪な作品ももちろん多々あることも事実ではあるが。

●この「母べえ」は今の邦画作品の中でも実に堅実で、正道、方正な、それこそ映画の”母”のような作品である。

●暗く、陰惨で世の中も、人の心も捩れてねじ曲っていたような時代。戦争や国家主義が人間を踏みつぶしていた時代。自分はその時代を知らない。だが、この「母べえ」を観ると、ほんの数十年前、昭和の初期の時代がこんなにも酷い時代だったのかと、言葉を無くす気持ちになる。今もしこんな時代に放りだされたら、自分は生きていけるのだろうか? そう思ってしまう。この日本という国が、政治が、政治家が、ほんの数十年前にいったいなんたることを行っていたのか、憤りを感じずにはいられない。あの時代を生き抜いてきた人たちはどれだけの苦労と辛酸をなめ、耐え忍び、それでも明日への希望を心の中から絶やさず、頑張って生きてきたのかと、痛切な思いに打たれる。

●自分も子供の頃や若かったころは、あまり日本の戦争映画だとか、時代劇は観なかった。派手なアクションもの、SF,ラブコメなどに気持ちは魅かれていたのであるが、やはりこの「母べえ」の様な作品は、学生や若い人に観てもらいたいと思う。観て詰まらないと感じ、面白くないと感じたとしても、やがて歳を取り、親となり、子を持ったときに、きっとこんな作品を思い出し「あの頃はなぜ、この作品の伝えることが分らなかったのだろう」と思う日が来る。今は分らなくても、感じなくても、こういう素晴らしい本当の意味での邦画を、若いうちに観ておいて欲しいと思う。そして何か一つでも心の中に残しておいてくれればと思う。

●歳を重ねた世代にとっては、懐かしくもあり、苦しさを思い出すこともあり、しみじみと感じ入ることの出来る珠の一作であろう。

山田洋次監督は、母の存在というものを通して、空気に染み渡るような声で”反戦”という意志を堂々と表現している。

●誰がこんな時代を作ったのか、誰がこんな時代にしたのか、誰がこんな日本を肯定したのか、誰がこんな非道に乗じて生きたのか。そして、今思うのは、こんな時代を味わいたくはないと、誰もが思うであろうということだ。

山田洋次監督はストーリーの根幹に家族を置きながらも、小さなエピソードで、声を荒げることなく、この当時の世情、軍事主義、天皇崇拝、そういったものを批判している。そして生きるためには世の中の流れを受入れ、それを堪えなければいけなかった人々の心の中にも、確実にこの時代の日本、その政治、戦争、天皇崇拝、そういうものを否定する心が存在していたのだということを静かに訴えている。

母べえの父が地方の警察署長で、東京までやって来て警察官御用達の旅館に投宿し、愛人とすき焼きを食うシーンがある。それが諸悪の源であっても、権力の側に付いた人間は、権力の側に媚びを売り、権力の傘の下に隠れた人間は、いつでもその権力の下で益を得、私腹を肥やす。思想も信念もいくらでも変える。兎に角自分だけは何とかなるように生きる。短い人生、たった一度の人生。母べえの父と、母べえの夫の生き方は対称的である。個人の利己主義で考えれば、母べえの父親の方が楽が出来、悠々と苦労せず生き永らえるであろう。だが、間違った時代を変えていくのは、利己主義ではなく、世を見据え、体制に乗じず、自分の信を唱えた母べえの夫のような人々である。だが、父べえは獄中で痩せ衰え、苦しみ、死んでしまう。これほどまでに辛く苦しい世の中だっこんな、こんな苦しみを味わうくらいならば、自分も体制の側に与し、今の楽を選んでしまうかもしれない。だが、それをせず、苦しみを覚悟で体制を批判し、打ち砕こうとした人達がいたからこそ、悪法は崩され、私利を貪った組織と体制は崩されていったのだ。しかし、苦しみの中で死んでいった人は、果たして報われたか? 報われるのだろうか? 信念を貫くことで、心の迷いはない、人間として、自己としての誇りと尊厳は失わず、あの世に行くことは出来る。今の暮らしの楽を求めて、誇りと尊厳を捨てた人は、あの世に行ってから本当に苦しむのであろうか? 正しき行いは本当に報われるのであろうか? それは信じるしかないのであるけれど。

●数人が投獄された部屋に放り込まれた父べえに、一人が「何をしたのかね?」と訪ねる。父べえが「思想的なことで・・・」と答えると、問うた人物は「アカか」と言いつつも、屎尿を入れた缶の側に居た父べえを部屋の真ん中に移るように言う。アカは他の投獄者にとっても”間違った考え”ではないのだ、法が押し潰しているけれど、間違ってはいない考えなのだと認識されている比喩だろう。

母べえの父親が「治安維持法は確かに悪法じゃ、だが、無法よりはいい。無法になったらどうなる? 無法よりも悪法のほうがいいのだ」と母べえに言うシーンがある。この時代にもし無法がまかり通ったら、更に悲惨な世の中になっていたのだろうか? 本当に無法よりも悪法の法がいいのだろうか? 無法の混乱のなかから真の、正しい法が生まれてくるのではないか? だが、確かに想像を越える苦しみは伴うのであろう。

吉永小百合の演技は、もう演技という芝居を既に超越してしまっているかのようだ。吉永小百合は演技しているのではなく、その役の人物そのものにまで自分を変化させているかのようだ。この時代の、この母べえそのものになってしまっている。大女優・・・まさにそういう言葉が当てはまる、そして女優という段階を越えたもっと別の存在にまでなってしまっているかのようだ。余りにも素晴らしすぎる。実年齢で60歳を越えた吉永小百合が、30歳そこそこの母べえの役を演じても何ら違和感が無い。全く無い。これ程の女優は世界に二人といないのではないだろうか?

●二人の娘を演じる志田未来佐藤未来もなんたる上手さなのか。監督の手腕もあるであろうが、本当にこの時代の、母べえと父べえの子供たちのようである。驚くほどに自然に役を演じている、演じているとも感じさせない程だ。浅野忠信檀れい笑福亭鶴瓶と脇を固める役者も見事である。全てにおいて極めて完成度の高い映画だ。

●実はこの作品はこう言った反戦色を持った映画とは思っていなかった。キーとなるイメージも母親によりそう娘二人で、もっと単純な母子の愛情物語と思っていた。この原作が黒澤組で常に黒澤明監督の側に寄り添い、黒澤映画の芯をささえていた野上照代さんの書いた実話だということを、後から知人より教えられた。そうだったのかぁ「天気待ち」を書かれた野上照代さんの作品だったのか思ったときはすでに遅く、公開は殆ど終了していた。今ようやくにしてこの映画を観ることが出来て、心の仕えが一つ取れた感じがする。劇場で見逃したことは大きな後悔であるが、じっくりと家でこの映画を観て、遅ればせながらも、また素晴らしい一本に出会えたとに心から喜んでいる。

●良き映画である。父や母と一緒に観ることは気恥ずかしいので、今度二人に二人だけで観てもらおうと思う。きっと、感動してくれるであろう。