『誰が為に鐘は鳴る ワールド・プレミア・上映版』(1943)


BSプレミアムで放送された映像は美しいの一言。半世紀以上前の作品なのにノイズ一つ見当たらず、輪郭も明瞭、擦れた映像も皆無。色合いに関しては修復は文句ないのだが、やはり自然な肌の色というまでにはいっていない。美しく再生されているが不自然とまではいかないまでも、濃い目のファンデーションで塗ったような肌色。

イングリッド・バーグマンは西洋人形のような美しさ。当時27歳か28歳位での撮影だろうが、幼な顔もあってもっと若く、20歳かもっとわかい娘のようだ。まさに青い目の奇麗で可愛いお人形だ。

アメリカ人である主人公のロバート(ゲーリー・クーパー)をイギリス人さんと呼んでいる点。

・映画の尺に関してはこの作品も色々あるようだ。163分 ワールド・プレミア・上映版、170分(オリジナル)、134分(米国再公開時)130分(編集版、国際版、米国以外)
・映画ファンというというと、映画の尺を気にして、長いほうがオリジナルだ、監督が作りたかった本当の作品だ、長さだ、短いのは編集されたものだからあちこちカットされている、等々言い出すのが常だが、この手のオリジナルだ、ディレクターカットだ、編集版だ、国際版だなどというのは、ハリウッドのスタジオが一本の映画をVHSの映像ソフトとして二次利用して金儲けをしようとしたところから始まる。
・ハリウッドのスタジオは映画公開⇒ソフト販売だけでは物足りず、一本の映画を尺や編集を変えバージョン違いだとして再上映、再ソフト化して、それこそ一本の映画で何度もおいしい思いをしよう、絞れるところまで映画ファンから金を絞り取ろうとして始まったようなもの。(始まりはブレードランナー辺りからか)
・その策略にまんまと乗せられているのが映画ファンであり、バージョン違いが出るたびにしっかり繰り返しハリウッドに財布の中のお金を献上し続けている。特に日本では”長いほうがいい”””長いほうがオリジナル”といって映画の尺の長さを価値基準において良いものとするような傾向がある。
・往々にして監督というものは撮影したフィルムを少しでも切りたくなくて、撮影したシーンは全部繋げて、全部見せたいと考えるもの。あのシーンもいい、このシーンも見せたい、このシーンがないと気持ちが伝わらない、このシーンはとても苦労したから切りたくない・・・そして映画はどんどん長くなっていく。
・もちろんそうではない場合もあるが、往々にして編集を監督に任せれば尺は長くなるものだ。ウッディ・アレンのように映画は90分が理想だなんて言う監督はまずいない。
・映画の長さを価値基準で上位に置くという傾向は、作品の中味や質という部分ではなく、量を由とする愚かな考えだ。
・『グラン・ブルー』にしろ『ライトスタッフ』にしろ、その他諸々の映画にしろ、量的判断基準である映画の長さに拘泥しとらわれているのは愚かなことだ。
・監督が編集したディレクターズ・カット版だからイイのではなく、一番尺の長いヴァージョンがイイのではなく、自分の目で見て、自分の感性で判断して、どれがいいという判断をするのが正しいこと。
・長いバージョンだからイイ、オリジナルだなどというのは、物の質を確かめることなくブランド名だけで商品を選ぶことや、ブランド名をいちいち説明しながら服やバッグをもちあるくこと、味を自分で判断することなく、パッケージに書かれた産地や種別だけで肉や魚を美味しいといっているようなものであろう。