《エジプト革命の歌 自由の叫び声》

Amir Eid、Hany AdelのSout el horeya - from Youtube


反政府デモが成功したエジプトで作られた歌。デモや人々の場面はすべてオリジナルで撮影地はタハリル広場だという。(Youtube投稿者コメントより)

・最初、エジプトで反政府デモが起きているとニュースで見た時、いくらデモをしてもまた軍に押し潰されてしまうんじゃないかと思っていた。軍が広場に出て来た時点で、中国の天安門事件のように、軍が、戦車が圧倒的な火力で群衆を蹴散らし、殺し、デモを弾圧し、革命運動なんて結局支配権力の武力で押し潰されるのではないかと思っていた。

・軍部が「民衆に銃口を向けない」と発表したとき、え!と思った。国の手先と思っていた軍がデモの鎮圧を拒否、ひょっとしたらこの革命は成立するのかも知れない、平和革命が成功するかもしれないと思った。

・友達に教えてもらった《フィフィのブログ》。エジプトの実情が、TVやネットのニュース、コメンテーター、識者の言っていることなどよりもよっぽどよく分かる。相変わらずマスコミはあてにならない。
《エジプトの軍隊は上層部を除いては徴兵制度で召集された若者によって構成されている。しかもその若者は知識人であれば軍隊、満足に教育を受けてない者は警察と振り分けられる。そのため軍隊の若者たちは、デモ隊の若者と同じく政治の仕組みを理解していて、その腐敗政治に不満を持つ若者の行動に共感していている》qoted from fifi blog

・エジプトの革命は、インターネット革命だ、ソーシャルネットワーク革命だ、facebook革命だと言われている。革命運動の発端はそこにあって、人々を革命の機運に駆り立てたのはネットワークだとしても、平和革命が成就した本当のそして直接の要因は軍が武力を行使しなかったことだ。それが盛り上がった市民の意識が折れることのなかった一番大きな理由であろう。

・もし軍が武力を行使していたら、デモを武力弾圧していたら、凄まじい流血の事態は確実であっただろう。その後にエジプト政府は国際的非難を浴び、市民の怒りはさらに加熱し、そして最終的に革命は成し遂げられたかもしれない。流血革命として。それとも中国のように、市民は圧され殺され革命が押し潰されていたかもしれない。それはどちらになっていたかは分からない。

・革命を起こすには、腐敗した政府、国をひっくり返すには、どうあっても武力がキーとなるのだ。支配権力が革命を押し潰そうと行使する”武力”に対抗する”武力”が民衆の側になければ、支配権力をひっくり返す行動は押し潰される。だけど今回は軍部が武力を行使することを止めた。権力側のデモ鎮圧の道具になることを拒否した。権力側が民衆を弾圧する武力を失った。武力は行使されなかった。そして平和革命は成立した。
・ネットが無ければ革命の火は燃え上がらなかった。ネットがあったから人々は結集した。革命の意志は継続した。それでも武力が革命の成否を決定付けるキーであったことは確かだ。それは歴史を振り返っても、大昔から変わり無い。

・暴力では何も変わらないと平和革命を訴え行動しても、それが体制維持、既得権益確保、反革命を是が非でも通したい国家、政府、権力側の武力を使った暴力で押し潰され、殺されてしまってはどうにもならない。エジプトの革命は武力が権力者の側から離れた、銃口を民衆に向けなかった。それこそが革命成功の一番大きな要因なのだ。

・中東の革命をネット革命だ、新しい時代の革命だとメディア、マスコミは書き立てているけれど、それは革命の動きを美化し強調していること美辞麗句だ。革命はそんなキレイ事では達成されない。マスコミは軍隊、武力という革命の重要なキーを選別して情報を流し、人々の意識が革命成就の最大要因である軍と武力に結びつくことを遠ざけ見え難くしている。

エジプト革命の本質はネット革命なんかじゃない。大勢の市民を意識付けし、デモに動員する方法として、情報を拡散する手段としてネットはこれまでに無い便利で効果的なツールであった、だがそれは”集め訴え知らせる”までのツールだ。本当に革命の成否を決めたのは、民衆に銃口を突きつけることを拒否した軍の動きなのだ。

・平和革命なんて無理だ、出来っこないと思っていた。理想主義は掲げても、現実は違う。向けらた銃口の前で平和主義、非暴力主義は撃ち殺され沈黙する。そう思っていた。だけどエジプトで平和革命と言えるものが成功した。たった18日で・・・凄いことだ、驚くべきことだ。同じことが他の国々にも波及するか、同じことが他の国々でも可能となるか? それは分からない、いや難しいだろう。エジプトで成功した平和革命は、軍が権力側の手先となることを拒否したことで成立した極めて稀な例なのだから。

2011年、自分たちは今、本当に歴史の大転換点に居るのだろうか? 

追記
・フィフィのブログを読んで「ジハードに聖戦という意味はない。それはマスコミが作ったものだ」ということを知る。ネットで調べた。確かにあちこちで「ジハードの本当の意味は(信仰のための)努力」という記述がある。今の今まで知らなかった。学生時代に教えられ、メディアで常用されているのでその意味を疑ったことも無かった。相変わらず意図的に民衆の意識、知識は操作されているんだと憤る。
リビアカダフィ退陣を要求したデモは流血、大量殺人化している。軍が空からデモ隊を空爆、機銃掃射しているともいう。カダフィは治安部隊に外国人傭兵を使っているという。同じ国の人間は殺し合うことにためらいがあるが、金で雇った他国の傭兵ならそんな感情は低い。周到な計算。
もうリビアに平和革命はない。すでにジェノサイドと言える状況になっている。革命は成就するかもしれない、でもまだ沢山の血が流れたるだろう。権力の側が持つ武力は既得権益を守るために使われる。
ジョン・レノンが「Power to the people」と歌った。”それは人々に力を!”と訳されるけれど、本当は”人々に武力を””権力側の武力に対抗する武力を”という意味にだって捉えられる。2011.2.24