『ヘヴン』


●いじめを受ける女子学生が自分がいじめを受ける理由を語るシーン。なぜかドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟 』にある大審問官の章を思い出した。

映画は芸術か、エンターテイメントかと問われる。

小説は文学か、エンターテイメントかと問うべき。

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ここまで書いてずっと止まっていた。
8月に読んで、ずっと書かないでおいたので、年末を迎える前に文字を入れておこうと思った。2010/12/14

最近の売れている小説は面白いものも多いが、そのほとんどが”小説”というよりも”物語”、もっとニュアンスを変えれば”ストーリー”にしかなっていないと感じることが多かった。

言葉、文字をなんとか捩じり上げ、こね繰り回し、修辞を重ね、ある状況、情景を文字によっていかに表現するか・・・それこそが文学であり、小説であろうと考えていた。それこそが純文学であろうと。
大江健三郎は「純文学という言葉は日本にしかない、世界では文学はひとつしかない。純文学も三文小説もすべて文学というひと括りに入る」と言っていた。

なるほど、と思った。だが、やはり自分的には、日本的には”純文学”と”流行小説” ”三文小説”には大きな違いがあると思っている。

内容のほとんどが会話でしめられており、言葉をこねくりまわして、ある状況、ある情景を表現し読者に伝えようとしていないもの、それが流行小説、三文小説だと自分は思っている。まるで映画やドラマの台本のごとき内容。チャッチャッチャと鍵括弧で囲まれた会話だけでどんどん話が進んでいく小説。読むには楽だがそれはまるで映画やドラマの台本を読んでいるような感覚。読むことによってイメージはもちろん形成されるが、それは登場人物がスクリーンやTVの枠の中で演技をしているものを見ているかのようなイメージだ。それは文学と呼ぶものとは違う。なにか決定的に違う。文学はシーンをイメージさせるのではなく、自然を、人間を、生そのものをイメージさせるものだ。そんな風に思っていた。

その区別は非常に微妙で難しい。誰かにコレとソレはどう違うのだ? と問われたら説明に窮するかもしれない。そのくらい論理立てて説明出来るものごとではない。

だが、やはり、明らかに、会話だけで物語を運んでいくような小説と、純文学は違う!と言いたい。

台本、シナリオという形式変換する一歩手前のストーリーだけを綴っているような小説は純文学とは呼ばない。それが自分の考えでありスタンスだ。

だから、純文学は映画化、映像化が非常に難しい。流行小説は映画化しやすいのだ。最初から素性そのものがストーリーであるからだ。

そんな思いで読んだ『ヘヴン』は今流行の作家の作品でありながら、非常に”純文学”としての匂いを感じることが出来た一作であり、ある意味久しぶりにその文章に、表現に驚いた一作でもある。

そして、これは映像化することは難しいだろうと読後すぐに感じた。

TV『情熱大陸』で川上未映子が『ヘヴン』を苦心惨憺して執筆する様子が放送された。それを見ていた。大変そうだなと思う反面、なにかエヘラエへラと編集者から逃げ回り姿をくらます川上の姿を見ていて「この人は本当に小説を書く人なのか? 文学者、小説家というタイプの人ではないな」とも感じていた。その印象もあり2009年7月の『群像』にこの『ヘブン』が一挙400枚掲載として売り出されたときも、横目でチラッと本屋の棚を見はしたが手にはとらなかった。多分に「あのTVに出ていた雰囲気ではろくな小説ではないだろう」という先入観があったことは確かだ。

その後、夏真っ盛りになって地元の図書館に行ったとき、再び本棚にある『群像』に目がいった。なにせ表紙にどでかく”川上未映子 ヘブン”と書いてあるのだから。

時間もあったので『群像』を手に取りぴらぴらとページをめくり『ヘブン』を見る。読むのではなくページをうめている文字を見る。目に飛び込んでくる文字、言葉、会話を”見る”・・・だがやはり読む気にはなれなかった。そして『群像』は棚に戻した。あの暑い夏の日のキンと冷えた図書館の空気とその雰囲気が何故かものすごく脳裏に焼き付いている。あそこで『群像』を手に取り『ヘヴン』を読もうとしたのだけれどやはりやめた、あの夏の日がなぜか頭にこびりついている。
このころの文芸雑誌にはもっぱら村上春樹『1Q84』のことばかり特集されていたっけ。

その後、それまで読もうともしていなかった川上未映子作品を二つ『乳と卵』『私率イン歯ー、または世界』を図書館で手に取る。

ダメだった。この関西弁、このいかにも注目を集めるような話題を選んだ中身、そして実に特殊でこれまた注目を集めるような題。全部を読む気になれず本は二冊とも返却。「これは自分には合わない作家だ」と感じた。

そして2009年11月に映画『パンドラの匣』を観た。川上未映子が準主役級の扱いで出ていた。暗く微妙な不思議女の雰囲気は出ていたがそれは役で作り出したのではなく、本人の地から出たものだろう。映画出演も初めての演技を鍛練した役者ではないのだから。作品自体も実に詰まらなかった。

その他にもユニクロのCMに出たり、ファッション誌の表紙を飾ったりという活躍振り。まるで時の人のような扱い。こういう言い方もなんだが、とても文学者、小説家には思えなかった。TVの印象もあり自分の川上未映子に対するイメージはどんどん悪くなっていった。この人は本当は小説家なんかじゃないんじゃないだろう。そういう思いが強くなっていった。

小説自体も奇をてらった内容、特殊性で目を引こうとしているようにも思えるし。(そいうタイプの小説が芥川賞を取るというのも一つのパターンだが)なにか出版社やメディアが”売るもの、売れるもの”を手を合わせて作ろうとしている感じが強く漂っていた。本が売れない、出版不況と言われる中、何かと話題になり、メディアにも取り上げられ、注目を集める女流作家の存在は動く広告塔、まるで文学界のアイドル扱いのようでもあり、少々不気味でもあった。

そんなかんなで川上未映子には否定的な気持ちしか持ちえなかったのだが、今年に入って『パンドラの匣』で新人女優賞なんてものを受賞し、これまたありえないなという気持ちが強くなる。なにかあちこちが川上未映子を舞台の上に上げようと画策している匂いがプンプンとした。
そしてさらに『ヘヴン』が平成21年度芸術選奨文部科学大臣新人賞、8月には紫式部文学賞を受賞と川上未映子に関する話題が続く。文学賞受賞というお題目に自分もいよいよ気持ちを揺すられ、発表から1年ぶりに、ついに『ヘヴン』を読むことに決めた。 

そして読後感は・・・なかなかの一作だった。ヘンテコ奇妙キテレツな題に最初から拒絶反応を示していた過去作とはことなり、この『ヘヴン』にはちょっとガンと頭を殴られた。驚いた。『ヘヴン』には流行小説、三文小説的なストーリーだけの小説ではない、非常に純文学的な匂いを嗅ぐことができた。

驚きだった、こんなに文学的な小説だったとは・・・今まで拒絶反応をしめしていた川上未映子作品にがぜん興味が沸いてきた。業界がこしらえた似非女流小説家だと思っていた川上未映子を思いきり見直した。こんな小説が書ける人なのか。今まで偏見の目で見ていた自分を恥じた。これはなかなかの小説だと心が躍った。

この感想を、いい余韻をどう文字にすべきか少し悩んだ。ここは映画評のブログで書評は過去に一度も書いていない。さあどういう風にして『ヘヴン』を読みその内容に少なからず感動した気持ちを書くか・・・映画と違って小説の感想は書きずらく、気持ちが熟成するまでしばらく文字を打ち込むことはしないでおこう。そう思って8月以来この日に日記は未完成のままにしておいた。

遅ればせながら『ヘヴン』を読んで川上未映子に対する自分のイメージは大きく向上した。

だが秋を迎えると『ヘヴン』に関する感想を書かずにいる間に、またガクンと川上未映子に関するイメージを突き落とされることになる。

秋になって『私率 イン歯ー、または世界』が盗作ではないかという話題がネット上に出てきた。さらに浜野佐知監督映画『第七官界彷徨』映画評の盗用疑惑と、川上未映子が盗作作家だという話題が続いた。(浜野佐知さんの著書『女が映画を作るとき』は映画人にとって強烈な一冊だ)

良くなってきていた川上未映子に対するイメージが再び悪化。自分の中で川上未映子に関しては下げて、上がってまた下げてとそのイメージがジェットコースターのごとく乱高下している。

自分の感じたままで言えば津原泰水『黄昏抜歯』と『私率 イン歯ー、または世界』の類似個所は確かに似ている。盗作というまでのレベルではないかもしれないが、アイディアを借用しただろうという憶測はかなり強い。『第七官界彷徨』に関してはその盗用は明らかであろう。『イキガミ』と『生活維持省』の盗作疑惑に関しては2008年10月2日の日記にあれこれ書いた。

映画、小説などの創作物には、厳密に盗作だとされずとも、一般的に見て明らかに似通っている、あきらかにこれはアイディアを借用しているだろうと思われる部分が見受けられる場合が多々ある。黒澤明が言うように、ほんの一言「あれはあそこのアイディアをお借りしました」と言えばなんの問題にもならないことを、黙ってアイディアを使い、バレると、私はそんな作品なんか見たことも聞いたことも読んだことも無いとしらばっくれる。たった一言儀を通せばなんの問題にもならないことを誤魔化そうとする。

なんでこういうことが繰り返されるのかなとがっかりしてしまう。
ひょっとしたら本人よりも出版社や映画会社のビジネス的な損得が優先されてこういうことになってるんじゃないかとも思ってしまうが、余りに愚かだ。

川上未映子の盗作問題に関してはwikipedexiaの川上未映子ページで編集合戦が行われ、今はノートであれこれと良く分からぬ議論が応酬されているようだ。

今年そうそうたる文学賞を二つも受賞した人気女流作家が果たしてこの盗作問題で今後どうなるのか、マスコミやメディアは意図的にこの問題に目を瞑り黙殺しているような感もあるが、少なくとも自分においては、せっかく『ヘヴン』を読んで昂揚した作品に対する気持ちが、思いきり冷や水を浴びせかけられ一気に冷えてしまった感じだ。

そんなこともあって、ずっと『ヘヴン』に関する日記は書かずじまいとなっていた。2010年もあと残り僅か。思っていることを書き留めておこうと12月になってこの日記を文字でうめる気持ちになった。そういうことである。