『老人と海』(1958)

●改めて年代をみると、これが作られたのはもう半世紀も前、ほんとうに古典という分野の映画作品と言ってもいいのであろう。

●文筆家としてのヘミングウェイに対する評価は揺るぎないものがあるが、往々にしてヘミングウェイは長編よりも短編にこそ才能の輝きがあるとされている。長編「誰がために鐘は鳴る」ですらも短編に比すれば決して素晴らしいと言えるものではないと評する識者もいる。だがさまざまな意見の中にあっても「老人と海」だけは短編以外のヘミングウェイ作品では最高の出来であるとすることに異論を唱える人はほとんど見当たらない。それほどまでに「老人と海」は傑出した文学作品として評価が定着している。

●その最高とされる小説を映画化するというのは非常に勇気のいることだ。いや、今から半世紀前は古典の名作というよりも、流行作家の人気作品という感じであったのかもしれない。

●その揺るぎない名作の映画化は映像という表現手法を用い、映画というメディアを用いながらも、小説を拡大することも、昇華することも出来なかった、小説の偉大さにまるで太刀打ち出来なかった映像作品になってしまっているようだ。半世紀も前の古い作品という言い訳はなしで語ったとしても、この作品は小説を準えただけであり、映画が小説に何かを加え、輝かせ、小説を越えるようなものを映画独自に描くことは出来ずに終わっている。小説の世界を映像で表現しきったとも言い難い。この映画はこの映画として存在はするが、小説の素晴らしさを映像で飛躍させることができず、かえって小説の世界を想像力の部分では狭めてしまった映画になってしまっているとも言える。

●特に、物語の中盤までの進行をナレーションにあずけてしまっているのがいけない。これではスクリーンに映し出された映像を見ながら「老人と海」の朗読会に参加しているようなものである。ヘミングウェイが言葉で表現したものを映像に置き換えることをせず、結局見るものはヘミングウェイの言葉を聞き、映像では表現しきれないものを言葉でとらえる。これでは映画が映画である必要がない。

●そう、この映画の半分以上は”映画”ではなく「老人と海」の朗読になってしまっている。巨大なカジキが針に掛かってからはようやく朗読がなくなるのだが、その後に続く映像もまるで舞台演劇を映したようなものとなっている。

●合成映像や実際のカジキを船側に結んでサメが食いつくところを撮影したりといった当時としての工夫は見られるのだが、いかんせんそれもやはり古すぎる。同じく映像にも美しさを感じることは出来ない。

●そんな不満な点が多い作品なのだが、見終えた後には心に響くものがあることに気がつく。だがそれはこの映画が作り出した響きではなく、ヘミングウェイの言葉が、ヘミングウェイが作ったストーリーが響くのであり、この映画がその響きをもたらしたのではないのだ。

●厳しい言い方をすれば、この映画は小説に完全に負けているとも言えよう。それでも、小説を知らずにこの映画を見ても、この物語が人の心にもたらす響きを感じることはできるであろう。それがヘミングウェイの言葉、小説から生まれたものでありこの映画から生まれたものではないとしても・・・。

●誰もが知る名作小説の映画化としてこの映画は名を残すかもしれないが、同時に素晴らしい文学、小説を映画として表現しきれなかった作品としても記録に残るであろう。素晴らしい小説を映画化すること、それがいかに難しいことか、半世紀を経た今、再び「老人と海」を映画かしたとしても、この小説を小説以上のものとして映像に置き換えることは出来るのだろうか? 素晴らしき言葉を紡いだ小説は映像では表現しきれないのか?

昨年アニメーションで「老人と海」が映像化されているようだが・・・未見

●サンチャゴ老人役のスペンサー・トレイシーは名優であろうけれど、この映画の中では舞台演技をしているようにしか思えなかった。

●「OK牧場の決斗」「荒野の七人」「大脱走」とこれまた歴史に残る映画の名作を作り出してきた監督のジョン・スタージェスだが、この映画を作った頃はその後のに監督した作品に見られるような素晴らしさは正直微塵も感じられないのである。

●映像に重ねられたBGMは完全にアンマッチである。