『光の雨』(2001)

●以前に観た時は総括という名の悲惨な殺人場面ばかりが強く印象に残り、映画としては見切れなかった気がする。この映画も暑い夏の夜に観るような作品ではないのだが、なぜかもう一度観てみようと思った。

●党という名の組織、それもちっぽけな十数人の集団なのに、そのトップに立った人間に誰も意義を唱えられず、歯向かえず、トップの人間のエゴ、傲慢、欺瞞、偽善、嫉妬、そういったものを革命という言葉で全て正当化し、反革命という名の下に意図も簡単に仲間であった人間を殺していく、それも当然のように。まだ20歳から30歳ほどの世の中もさして知らぬ人間が突き進んだ狂気・・・結局連合赤軍も口先で唱えた世界革命や人間の平等、全ての人が幸せに暮らせる世界などというものは、他の思想家から借りてきた言葉だけであり、それをお題目としてやったことは愚かでおぞましく、薄汚れて嫌悪するような矮小な人間のエゴの噴出でしかなかったということにしかならないのであろう。その為に若くして悲惨な殺され方をした人のことを思うと嗚咽しそうになる。

●総括のおぞましさ、人間の薄汚い性根というものをさらけ出しているという点では「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」より「光の雨」の方が強烈かもしれない。しかしこの作品は総括で仲間の顔を腫れ上がるほどに、正視に耐えぬほどに殴りつけ、これはもう見ていられない・・・と思うようになる寸前で、劇中劇という実に都合の良い、巧みな演出技を使ってその悲劇をスッと嘘で覆い隠してくれる。嗚咽しそうになる手前で「これは演劇なのだよ」と異常な世界から観ている者を平常な世界に連れ戻してくれる。何箇所かでこれがなかったら、ちょっとキツ過ぎるという場面もある。そして何箇所かは、その逃げ技を使わずに総括という名の惨殺をモロに見せてもいる。

連合赤軍の事件を一般作品の映画として取り扱ったのはこの「光の雨」が最初であろう。監督やスタッフがこの悲惨な事件をどう映画にするか、ただ事実だけを単純に撮っていけばもうこの事件は猟奇殺人事件と同じものになってしまっていただろう。それを劇中劇として巧みに扱った脚本家と監督のアイディアと構成、演出力はすぐれている。こうとでもしなければおぞましいだけの映画になっていただろう。

●「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」は浅間山荘事件に至るまでの連合赤軍の若者男女の気持ちを描いていた。しかし、なにか連合赤軍の、この凄惨なリンチ殺人を行った永田洋子森恒夫、その他のメンバーを英雄視しているかのような部分も大きく感じられた。監督のあの時代、あの事件への思い入れがそういったニュアンスを映像の中に滲みこませていた気がする。しかし「光の雨」は連合赤軍のメンバーを見る目が違う。「光の雨」の映像が映し出す連合赤軍の一人一人は、まだ世の中も知らず、借りてきた思想を妄信し、人間としてあるまじき行為を行い、それを正当化した愚かな子供たちという目で映している。

●中学生や高校生が教師を権力側の人間だ、大人を俺たちを押さえつける人間だと決めつけ、愚かな暴走をするのと等しく、連合赤軍のメンバーも、愚かでかわいそうな子供たちという目で映像は捉えている・・・そして自分もそう思う。あの時代の異常な空気のなかで異常となった愚かな子供たち、連合赤軍のメンバーはそういう存在だったのではないか?そう思う。

●あんな凄惨な、愚かな殺人事件を起こしていなければ、革命を成就させるための武力闘争と反革命殲滅を履き違え人間を殺し続けた異常な精神構造と心の歪みがなければ、そして60年安保反対運動がもし国を変えていたならば、いまだ勝手あのデモを勝る国民的な大規模な政治否定のシュプレヒコールがあがったことのない、60年安保の運動がもし政治をひっくりかえしていたならば・・・今の世の中はもっと良くなっていたの可も知れないのではないだろうか? そんなことを思ってしまう。 

●60年安保は資料でしか見た事のない自分でも、国会議事堂を取り囲む数十万人のなんでもない国民のデモが、それだけの国家にたいする不満と否定のパワーの噴出がもし行き着いていれば、今みたいな同省も無い日本とは違った国がひょっとしたら出来ていたんじゃないかな、なんて思ってしまう。

●日本の安保反対運動も、中国の天安門事件の大暴動も・・・国家が仕切る武力、軍によって踏み潰され押しつぶされ沈静化され、二度と国に歯向かうという気持ちが起きないよう、国民を絶望させ諦めさせてしまったという点で全く同じなのだろう。

●自分も含めて、今後も「あさま山荘事件ってなんだったの?」「どうしてああゆう事件が起きたの?」「連合赤軍って何?」そんな疑問を持つ人はこれからもずっと世の中に生まれてくることだろう。そういった人が難しい本を読んで連合赤軍を知ろうとするよりも「光の雨」と「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」という二つの映画作品を観れば、大方の事は頭の中にはいり、理解も出来るだろう。映画という映像はこちらから苦労して向かっていかなくても、向こうから勝手に頭の中に入ってきてくれるのだから。その分映画は楽なのだ、じっと見ていれば頭に勝手にインプットされてしまうのだから。良い意味でも悪い意味でも・・・だが、今のような、そしてこれからの時代においては、勝手に頭に入ってきてくれる映画というメディアで、勝手の歴史を解説してくれるというのは役に立つことだろう。

●二つの映画はあくまで演出され、脚色された映画作品なのだけれど、価値ある資料として取り扱ってもいいものになるはずだ。

●それにしても2時間10分の間、観る側にも苦痛を要する映画だ・・・ラストの雪合戦のシーンは悲しさや悲惨さを際立たせようとしたのだろうけれど、わざとらしすぎるかな? 若さだとか情熱だとかをたぎらせて走っても結局何も変えられなかった、間違った行為に走ってしまった人間という生物の無力さを感じさせてはくれるけれど。立松和平のナレーションで「子供たち」と言っているのが印象的だった。

●監督の高橋伴明は『禅』を撮った監督だったと知った。この映画の製作は本当に厳しいものがあっただろうな。予算集め、スポンサー、上映劇場すべてにおいて・・・よくぞ撮ったものだと拍手を送りたい。