『史上最大の作戦』(1962)

●濃い墨汁で淀みなく、さぁっと筆を引き塗りつぶしたような黒の美しさ、鮮明さ。半世紀も前の映画がここまで美しくなるのかと溜め息をつく。NHK-BShiで放送されるハイビジョンの映画は本当に美しい。この美しい映像を家で気軽に堪能できるのだから。

●DVDが大普及したのがたった10年ちょっと前なのに、もうここまで映像が美しくなるとは。本当に時代と技術はものすごいスピードで進んでいると実感する。

●名作として非常に有名であるしDVDも持っていたのだが、この映画も何故か今まで一度も観たことがなかった。この映画に夢中になった世代というのはひと時代前、自分達の親の世代辺りだろう。自分の周辺で考えても『プライベート・ライアン』『シン・レッドライン』『父親たちの星条旗/硫黄島からの手紙』などの比較的新しい戦争映画は観ているが、数十年前の白黒戦争映画となると、いかに名作といわれていても観ている人は少ない。敢えてソフトを買ったりレンタルしたりという人となると殆ど居なくなるだろう。そういう意味ではNHK BS-hiでこれだけ美しい映像で放送されるというのは良いことだ。昔の大作に触れ考える事が出来る機会になるのだから。

●昔の白黒映画というものは画面がかすれて、チリチリとノイズが走っていて、ぼやけていて見難い。そういうものだという意識が頭の中で出来上がってしまっている。ある意味そういったノイズや汚れが古さの味わいでもあろう思ってきたものだから、このハイビジョンの白黒映像はあまりに絵が美しすぎて最初は違和感さえ感じた。

●映像の美しさは文句の付け所のない素晴らしさなのだが、今回初めて観た『史上最大の作戦』には正直なところがっかりした。名作とされるこの映画には中身として深いものを期待していたのだが、そういうものが殆ど皆無な映画であるということを知ってしまったからだ。

●今回初めて観るまで『史上最大の作戦』は『戦場にかける橋』のような人間描写、反戦などの何らかのメッセージ性、思想性が含まれる作品だと思っていたのだが、この映画には深くは考えさせられるような部分は殆ど無かった。人間の姿も戦争の有り様もまるで深堀していない。洞察もしていない、これは極めて表面的な映像の編集体でしかない。

●こういった撮影を成し遂げ、こういった映画として作り出したということは映画というものを表現手法としても技術的にも進歩させたであろう。しかしこれは数万人も死傷したノルマンディー上陸作戦という悲惨な戦闘をエンターテイメントとして映画化したもので、映画の中に思想も哲学も無いない、中身のないすっからかんの映画だ。戦争に勝った側が大規模な戦闘を再現し、撮影し映画にし、勝った側が自画自賛し、あの戦闘は凄かったがオレたちはこんなふうにして勝ったんだぞと、手前味噌に勝利を、戦果を自慢している映画になっている。

●こんな表面的な中身のない薄っぺらな作品だとは思わなかった。これは名作と呼べるのか? これだけの撮影を行いこれだけのスケールの映画を撮ったことは凄いとしても、作品として名作と称賛されるべきもの、名作としての資質がこの映画にあるか? 名画という名称において、”画”の部分では歴史に残る画期的な一作だとしても、映画の本質である物語の部分には心を揺さぶられるものはない、全くといっていい、無いのだ。名作と呼ばれるものは人の心を揺さぶり、感動させるものだ、そうあるべきだ。しかし『史上最大の作戦』に感動はなかった。この作品は戦争を映画にしてはいない。戦争の本質やその愚かさ、問題に大してはなんら足を踏み込もうとしていない。触れようとも俎上にのせようともしていない。戦車や銃で撃ち合い、人間が殺し合う戦争をゲームのごとく扱い、映像化しているだけだ。

●パラシュートで敵地に投下され撃ち殺される兵士。上官の命令に従って突撃し、次々に撃ち殺されていく兵士。それには一切お構いなしで突撃の指令を出し続ける上官。まるで犬死にさせられるために戦地に送り込まれる兵士の姿を観ていると、こんなことをさせられたらたまったものではないと思う。そう思ったことがせめてもの救いだ。映画は死にゆく兵士の姿を部品としてしか扱っていない。カメラは、監督の目は次々に殺されていく兵士を映画を作る人形としてしか見ていない、駒としてしか扱っていない。

ジョン・ウェインに「ぶらさがっている兵士を下ろせ、死者をほおっておくな」と言わせているのもいかにも偽善的取って付けのシーン、演出と言わざるを得ない。ジョン・ウェインの言葉にもそのシーンにも心が震わされない。

●この映画は第二次世界大戦最大とも言われる戦闘を、勝った側の目から描いた、なんの思想も主張も哲学もない勝利賛美、戦争賛美の映画だ。こんな表面的で浅薄な映画だとは思わなかった。

●多くの世界大戦を描いた映画で、ドイツという国はヒトラーという象徴的なアイコンによって衆目一致の悪として扱われる。しかし、ドイツの人がこの映画を観たらどう思うのだろう、どんな気持ちになるのだろう? 散々に攻められ次々に同じ国の人間が撃ち殺されていく映画なのだから。それを穏やかな気持ちで観ることなど出来ははずがない。同じく敗戦国側の日本人が、日本人が次々に撃ち殺されていく映画を素直に観ることなど出来るはずが無い。戦争映画というのは戦勝国側の目で、戦勝国側の勝利の倫理の上で描かれるものが殆どだ。敗戦国側が負けた事実を描くということは殆どない。自らの屈辱を自らが描くということを人間は先ずしない。ましてや大衆に鑑賞させる映画ではなおさらだ。

●『史上最大の作戦』は名作とされているが、自分はこれを初めて観て、名作などと呼べる作品ではないと思った。これは戦争を浅はかなエンターテイメント化して描いた愚かな作品だと強く感じた。

●ドイツの人はこの映画を名作だと思っているのだろうか? ドイツでこの映画は名作と呼ばれているのだろうか? たとえそうだとしても、心の中では、この映画を名作だなんて思っていないのではないだろうか。

●ドイツ軍総統としてのヒトラーをかなりチャカしたりコケにしている。連合軍の進行がはじまるというのに寝ている。総統が寝ているので戦車部隊の出撃許可が取れないとか、癇癪をおこしていて近づけないとか。ヒトラーの姿は見えず、直接描かれてはいない。唯一肖像画がチラリと映るだけだ。

●映画はドイツ側の部分と連合国側の部分を別の監督が担当し撮影しているという。だがドイツ側部分の撮影はオーストリア人の監督が担当している。映画全体で連合国側の視点が多く、ドイツ側からの視点が少ないと感じるのはこの為かもしれない。というよりもドイツ側は卑下して描かれているといっても過言ではないだろう。

●製作は20世紀フォックスの名物プロデューサーであるダリル・F・ザナック。『史上最大の作戦』が興行的に大成功したため、二匹目のドジョウを狙って真珠湾攻撃を描いた『トラトラトラ』を企画し日本側監督に黒澤明を選んだ人物。『トラトラトラ』はアメリカ側が事前に日本の攻撃を察知していたことや、攻撃への対応ミスから軍として大失態をしてしまった様子が描かれ、どちらかと言えばアメリカ人には気持ち良くない内容になっている。だがそれが史実をなぞり、ニュートラルな視点で描かれた故のものだろう。そこには監督として日本人を採用したことが大きく作用していると思われる。(2009/4/1日記『トラトラトラ』

●もし『史上最大の作戦』においても、ドイツ側を描く監督にドイツ人を採用していたら、映画はもっと違ったものになっていたのではないかと思う。もう少しでも主張や、思想が入った映画になっていたのではないかと思う。そうすれば本当の名画になっていたのではないかとも。

●同じくノルマンディー上陸作戦を描いていても『プライベート・ライアン』では上陸を前に怖れ震える兵士や、むごたらしいまでに撃ち殺されていく姿が描かれ、戦争というものの愚かさ、恐ろしさを映像が伝えていた。『史上最大の作戦』にはそういった視点がないのだ。

●1964年の第35回アカデミー賞では『アラビアのロレンス』が作品賞、監督賞その他7部門を受賞した。同じ年に公開された『史上最大の作戦』は撮影賞と特殊効果賞にとどまった。今更アカデミー賞などを取り上げても仕方ないという気持ちもあるが、この二作品の作品としての資質の差は大きい。デビッド・リーンが作り上げた映画史にのこる本物の映画『アラビアのロレンス』とダリル・F・ザナックがプロデュースした『史上最大の作戦』には映画の質、感動、その思想、哲学という分で大きすぎるほどの差がある。

●この映画のテーマ曲である『史上最大の作戦マーチ』が昔から小学校の運動会や行事の時の入場行進に定番曲として使われている。音楽が使われた映画のことも、その内容も何も考えずこの曲が子供たちの教育の現場で使われ続けているというのも、曲の善し悪しは別で、なんとも無思慮で浅はかなことなのではないかと思うが。

youtube史上最大の作戦マーチ/ミッチ・ミラー楽団

・DVDの日本語字幕には階級や名称の表記などの間違いが多々あるという。BS-hiで放送されたバージョンではその辺りは直されているのだろうか???