『地上より永遠に』(1952)

●その昔、日曜日の午後二時位からのテレビ番組で放映されていたのを覚えている。(サンデー名画劇場か日曜ロードショーだったか?)
CMへの切り替え部分などで、この映画の中の有名な名シーンである砂浜での抱擁と接吻のシーンが繰り返し静止画で映し出され、まだまだ小さかったこともあり親も一緒にテレビを観ているものだから、こういったラブシーンを親と一緒に見るのが照れ臭く恥ずかしくもあり、テレビの画面から目を逸らし、本編も殆ど見ないでいた。うつむいて観ていない振りをしても、もう気まずさも限界だし、戦争映画に興味があったわけでもないから、少しして居間を立ち、子供部屋で本を読んでいた。だから作品名とあの砂浜でのラブシーンだけが鮮明に記憶の中に残っていて、映画の本編は殆ど観ていない。ストーリーなどは全然分からないという状態であった。

●今回は「トラトラトラ」を見た流れで、この映画が同じく真珠湾攻撃を扱っていたのだということを改めて知り、それではということで鑑賞。あの子供の頃の日曜の午後からもう随分と長い年月が流れたのだなぁと思ってしまう。だけど、頭の中には波が打ち寄せる砂浜でいかにもアメリカのスターといった美男美女が熱い接吻をしているシーンが鮮明に残っている。このシーンはDVDのジャケットなどでも使われているが、長い年月が経って記憶の中で鮮明に浮かび上がるというのは、やはり名シーンと言われるだけのものであり、ある意味これも映画というものの持つ凄さなのかもしれない。

●映画は軍隊内部での人間同士の歪さ、縦の組織として動く時の人間の歪み、卑屈さ、矮小さ、ずるさなどと、そこに迎合せずに自分の生き方を貫く男、表面的には上長に素直に従う忠実な部下を演じているが、心の中では誇りを持ち、絶対の信念は揺るがせない男、そしてその男達に絡む女性たちとのストーリーで形成されている。軍隊という設定をとっているが、監督であるフレッド・ジンネマンが描こうとしたのは、社会のどこにでも存在する人間の愚かさであり、組織の中で権力を与えられたものの腐敗であり、そこに手を擦り従う人間の心である。軍隊に限らず人間の社会に普遍的に生じる人間の浅ましさ、くだらなさである。そしてそれに対比した信念を貫こうとする男の姿である。

●作風は一見しただけで今とは違う大作の匂いを漂わせている。「風と共にさりぬ」「嵐が丘」などのごとく、古典ハリウッドスタイルの最も映画が映画らしかった時代の堂々たる映画だ。映画自体にも信念というものが宿っていた時代の作品なんだなあとしみじみ思う。ハリウッドの良き時代の遺品ともいえるだろう。

●こうしたハリウッド黄金期、映画最盛期の本当の映画らしさ、豪華さを持った映画であり、それは今観ても映画の歴史の一部とも言えるものだが、作品の中身の部分ではプロデューサーや製作スタジオ側のあざとい汚さのようなものが張り付いている。

●前述したようにこの映画は監督フレッド・ジンネマンが人間の愚かさ、組織(軍隊)の腐敗、集団の愚かさ、戦争の愚かさ、そこに対比した信念を持った人間、信念を持ちつつも組織に迎合しつつ生きる人間、そこに絡まる男と女の愛を描いた文芸大作とも言い得る作品である。フレッド・ジンネマンが描きたかったのは人間そのものなのであろう。第26回アカデミー賞で「ローマの休日」を押さえ作品賞、監督賞、脚本賞を含む8部門を受賞というのもなるほどと納得出来る作りである。お手本にでもなるくらい分かりやすい展開の脚本も破綻がなく完成度は高い。最後の最後になって自分を痛めつけ、苦しめた軍隊に戻ろうとしたブルーイットがその軍隊によって射殺されてしまうという筋も「戦場に掛ける橋」のアレックス・ギネスをほうふつさせる人間の悲しさの象徴でもあろう。こういった部分でこの映画は過去の名作、大作に並ぶ本当の映画だ。だが唯一決定的な蛇足が”真珠湾攻撃”だ。

●2時間の尺の映画は最初からずっと軍隊とその中での人間関係、女性関係・・・つまり人間こそを丹念に描いている。戦争、戦闘行為そのものは原作小説にもエピソードの一つでしかない。また舞台がハワイの軍隊となっているのも原作者の実体験に従った設定というだけであり、ストーリーからみればハワイであろうが、カリフォルニアであろうが、サンフランシスコであろうが、どこでもよいのだ。描いているのは軍隊内部とそこにいる人間のことなのだから。

●まあハワイという設定があったからこそ、あの浜辺のキスシーンがうまれたのかもしれないが、ストーリーはあくまで軍隊という閉鎖された人間空間のことを語っているのであり、それがあった場所はどこでも構わないのだ。そして真珠湾攻撃にしても、ラストの20分となったところで一つのエピソードとして挿入されているだけであり、真珠湾攻撃やその頃の軍隊の状況を描いた作品でもない。この点は「トラトラトラ」とは大きく異なる。

●監督のフレッド・ジンネマンにしても、原作者にしても描きたかったのは人間であり、真珠湾攻撃ではないのだ。それなのに、この映画の宣伝は”パール・ハーバー攻撃前夜のハワイ”だとか”1941年パール・ハーバー”という点ばかりが強調されている。こうなると「地上より永遠に」という作品は真珠湾攻撃アメリカ側から描いた映画なのではないかとすっかり思ってしまう。・・・しかしまるで違うっていた。

●日本軍の攻撃はラストのラストでの事件、1エピソードであり、原作者や監督が表現しようとしていたことではないのだ。きっとスタジオ側の観客動員の餌が必要だという考えでパールハーバーのシーンを強調したのだろう。アメリカ人にとってはパールハーバーのことを描けば注目も集まるし、人も沢山映画館に来るだろうという打算のもとに、パールハーバーの映画という部分を強調したのだろう。映画全体は人間の生き方、恋愛を描いているのに、金儲けのためにわざわざラストに奇襲シーンをいれたようなものであり、監督の映画の中で訴えたかったこととは相反している。

●日本でもこの映画を説明するときはパールハーバー絡みで語られることが多いようであるし、DVDのジャケットにもでかでかとパールハーバーと書いてある。パールハーバーはこの映画の中では全体の中でのある一つのエピソードでしかないのに。

●そういった作品の本質では無い部分をPRし、作品の本質となる部分を伝えない宣伝というのは実に嫌である。

●作品自体はなかなか素晴らしい出来栄えなのだけれど。

●監督もこの映画がパールハーバー真珠湾攻撃の映画として語られることを不満に思っているに違いない。「描いたのはそんなことじゃないんだ」と憤慨しているに違いないだろう・・・。

●女優の美貌にはみとれる。いかにも古典的ハリウッドの本物の美人が集められているし、男優もイイ男ぞろい。これはちょっと揃えすぎ。そんななかではフランク・シナトラ演じるマジオがさほどカッコいいわけでもなくバランスを取っている。シナトラとしては不本意だろうが・・・。(落ち目だったシナトラは出演料を破格の安さでも構わないとしてこの配役を取ったということだ)

●原題の「FROM HERE TO ETERNITY」を日本語に直訳すれば”此処より永遠に”となるのに『地上(ここ)より永遠(とわ)に』とわざわざ地上と読み替えた邦題の付け方は、かなりの巧さ。その昔にはなんで”地上”を(ここ)って読ませるんだろう???と不思議に思ったものだけれど、今この邦題を観ると巧いなぁと思ってしまう。昔の映画人は本当に邦題の付け方がセンス良く、最高であった。

●スタンダードサイズというのも久しぶりであった。