『単騎、千里を走る。』

●昔の仁侠ものは別にして「健さんの映画」となるとなんだか辛口批評するのがご法度のような雰囲気がある。しかも監督がチャン・イーモウとなれば何を言っても「いや、そうじゃないのよ」「そういう見方をしてるのは寂しいよ」「なんでもっと温かい目でみれないの?」とかおばちゃん連中からザワザワと言われそう。なんだかそんな気がする。映画批評という立場をとる人も高倉健の出ている映画、ましてや演じている高倉健をあれこれ批判しにくい、出来ないという不文律が日本の映画界、というか映画を観る人まで含めた日本全部にあるような気がする。真面目一徹、良心の塊、善人、高倉健に付与されたそういうイメージが映画そのものの批判、批評までも封してしまっているかのようだ。それは高倉健健さんという人とその人柄が為しえたことに依るものであり、その人そのものを批判するものではないが、映画そのものとは別口で語られるべきものでもある。

●自分も高倉健にはあれこれ言うような特別なものは無いのだが、この映画はどうなのか? 高倉健の演技はスキもなく相変わらずに高いレベルであるが、あまりにリアリティーのないストーリーと抜けの多さにはちょっと閉口。「これはファンタジーなのだから」という逃げの常套句もこの映画で使うのは憚られる。なんでも「これはファンタジーなのだから」と言ってしまえば話に落ちは付けられるのだけれど。(実際自分もそういうことで納得する、させることは多い)ファンタジーという言葉をなんでもかんでもに当てはめたら、現実はどこにもなくなってしまうじゃない?と思う。

チャン・イーモウ監督は映画のテーマについて「温情、感傷、喪失、孤独および人と人の交流と意思疎通であり、家庭、家族、国を越えた人類共通の感情や苦しみを描いた。」と語った。まあ確かにそういうことは映画の中で表現されてはいるけれど・・・。

●それにしても、なんでもかんでも都合よく飛ぶストーリーだ。背景の説明もなしにいきなり「はい、この人とこの人はこうですからこう思って観て下さい」とでも言われているかのようだ。そういった話の飛躍、疑問、なんだこれ?と思う部分は上げきれないほどある。漁村で暮らす父親が病気で倒れた息子の願いを叶える為、いきなり中国の奥地に行って、しかも携帯で日本と国際電話しまくり。もうそんなアホな?という部分は多すぎるからいちいち語っても仕方なし。

●電話というのが話を進展させたり、場面を切り替えたり、状況を自然に説明させたりという便利な小道具であることは確かだ。だがそれに頼りすぎるとお粗末な脚本になる。まだ携帯電話なんてものが無かった頃は電話は家とかオフィスとか公衆電話だったから、電話に頼ろうとしても自ずと限度があった。いきなり公衆電話で状況説明したり、話をぐいっと前にすすめるのわけにもいかなかったし。テレビドラマはもうワンパターン化したかのように家に掛かってくる彼氏彼女の電話で話を進めていた。そういう見ただけでフンと鼻を鳴らしてしまうような演出も、まあテレビはテレビだと容赦していたのだが、携帯電話が浸透してからというもの、どこにいてどんな状況でも電話が使えてしまう。こうなったらもう大変で、テレビドラマなんか携帯が無かったら話が全然転がらないんじゃないのという位、場面場面で携帯電話が使われまくり。一度携帯を使わないドラマを作ってみたら? 携帯を使わない脚本を書いてみたら?と流行りのドラマの脚本家には言ってみたくなる。きっと携帯無しにしたら脚本が書けなくなっちゃうんじゃないかね? 

●この「単騎、千里を走る。」では、もううんざりするくらい携帯が使われている。しかも、日本と中国という国を隔てての国際通話だ。途中でNTTのコマーシャルらしきものが挿入されていたから、スポンサー企業のPRと絡んでいたのだろうと推測するが、あまりに携帯を使い過ぎ。これは酷い。

●この映画も携帯を取り上げたら全く進まなくなる映画である。息子の病状から、死んだこと、最後の言葉、なんでもかんでも携帯を使って説明しちゃっている・・・・どうしょうもない。

●名匠ともいわれるチャン・イーモウがこんな脚本でこんな映画作ってていいの? 思わずそう怒りたくなってしまった。脚本を書いたヅォウ・ジンジーという人物も良く分らないが、この脚本、酷すぎ!テレビドラマ初脚本作なんて人のレベル以下。

●そんなどうしょうもない脚本なのだが、映画全体でみると流石チャン・イーモウ。村での歓迎宴会のシーン(こんな長いテーブルで村全体で宴会するのだね)、やら仮面舞踏のシーン、中国の村の様子、自然の美しさなど部分部分を切り取れば目を見張る映像が結構ある。現地中国人の出演者が皆物凄く人間味に溢れ、温かく味わい深く撮られているのもウーン流石だと唸るばかり。高倉健のぶすっとした演技もやはり味わいがある。

●こういったチャン・イーモウ独特の映像表現、映像美があるから、そこそこにこの作品は見応えもあるし、奥歯を噛んでじっと画面に見入りってしまうような味わいがある。間違いを犯して刑務所に入っている舞踏家リー・ジャーミンが村に置き去りにしてきてしまった子供の写真を見て泣くシーンなど、お決まりのパターンだがやはりジンとくる。

●結局、この映画はチャン・イーモウの撮っている人間に温かさ、中国人の人間味が見事に写しだされているから良いのだということに尽きる。見終ってそこそこに心に残るものがあるのも、この人間の温かさの部分だ。チャン・イーモウの持っている目、人間性と映像の巧さでこの映画は映画足りえているのだ。見た人の心に残るものを持ちえているのだ。

●だがあくまで映画ということにおいてこの作品を評価するならば、この映画は出来が悪い。話が現実から乖離しているし、ストーリーも演出も親子の絆の部分も断片的で表面的、踏み込んだものではない。

チャン・イーモウの人間を見る目、人間味を写しだす映像の美に対してならば、この映画はなかなかの良さだ。だがそれだけに目を奪われたのでは一作品、映画としての正当な評価にはなるまい。この映像、チャン・イーモウの監督としての巧さに浸ってこの映画を”良い”とするのもよかろう。だが、そこに全てを持っていかれず、しっかりと映画全体をみるのならば・・・この映画は出来の悪い凡作以下である。

●それでも、やはり見終ってちょっとだが心に残るものがあることは確か。それは全てにおいてチャン・イーモウの監督としての巧さ、そこにある意味では騙されている(良い意味で)、まやかされているということなのだろう。

●まやかされても気持ちが良ければそれでよしとするのが穏便な態度なのかもしれないけれど・・・・・。