『潜水服は蝶の夢を見る』

●非常に特徴ある邦題が文学的、誌的な想像力を掻き立てた。この題だけでは映画の中身を想像することも出来ない。一体どんな作品なのだろうと思わせずにはいられない。いかにもおフランス的な題であり、きっと中身も文芸作品のようなものかな?と思っていたのだがまるで違った。

脳梗塞で体の自由が効かなくなってしまった男の話。意識は病前と変わりないのに、自分の意思を伝えようとしても伝える術が無い。唯一機能する左目の瞬きだけで自分の意思を伝える方法が取られる・・・・・この話をみているとすぐに「ジョニーは戦場へ行った」(1971)が思い出された。「ジョニーは戦場へ行った」は自分が知る限りで、これほど悲惨な、これほど悲しく、これほど絶望的と思われるものは無いというほどのストーリーであり、映画である。余りの重さと悲しさにそう簡単には再見できない程の悲痛な、だが崇高な作品だ。「潜水服は蝶の夢を見る」は「ジョニーは戦場へ行った」の設定を拝借した一種のパクリ映画かと思った。

●だが、これは実話だったんだと知り、改めて驚く。ファッション誌「エル」の編集長という華やかで勢いづいた立場から、脳梗塞により身動きのできない、言葉も話すことのできない立場に陥った一人の男の話。それは聞いただけでも絶望的ともいえる転落の人生。なぜ自分にこんな運命が降りかかってくるのだろうと自問し、悩み、嘆いても何も答えは出ない。この男の置かれた状況を想像するだけでも胸が苦しくなってくる。「ジョニーは戦場へ行った」は目も、耳も、なにもかもが奪われ、ただの肉の塊として意識だけを持ち存在する人間の悲惨さが果てしなく絶望的で悲惨であった。「潜水服は蝶の夢を見る」の主人公は外部を見ることが出来、瞬きだけであるが、意思を伝える手段があるというだけで何十万分の一かしれないが救われる。

●瞬きの動きだけでアルファベットを選択し、意思疎通を図り、そして一冊の本まで書き上げる。それは絶望的と言えるほど気の遠くなる作業であったことだろう。だが、そうしてでも身動きのとれなくなった自分の微々たる力を振り絞ってでも、最後に伝えたいこと、言いたいことを発したい、自分の意思を外部に伝えそして最後を迎えたい。こんな状態に置かれた人間ならばきっとそう考えることであろう。主人公がこんな絶望的なほど気の遠くなる方法に耐え、自伝小説を書き(伝え)上げたということは一人の人間の最後の執念に近いものだったのではないだろうか。その裏に潜んでいたのは、完全な絶望と紙一重のところにいる、一人の人間の悲痛な叫び、人生への最後の一滴の執念であったと思う。

●だが、この映画は主人公を諧謔的に描いている。それはいかにもフランス的シュールレアリズム的諧謔嗜好の表れなのだろう。しかしだ、自分はこんな状況におかれた主人公が、この映画の中で描かれているようなおふざけでくだけた言葉、感覚を持っていたとはまるで想像できない。瞬きの一つ一つに常人では想像の出来ないほど大きな苦痛と苦悩が込められ、それを耐え、自分の半生をなんとかこの世に言葉として残したいというたった一つの執念で生き続けたのだ。それをこの映画は諧謔化して描いている。映画という表現手段で、この主人公の存在をモチーフとし作品を練り上げる方法として、この主人公の存在、生き方に対してこの映画の表現は在りだろうか?と疑問に感じる。

●悲しさや苦悩、悲劇をそのままに描くのではなく、視点を変えて明るく、さらりと、悲惨さとは逆の見せ方で描くことにより、より一層その悲しさを際立たせるという方法はある。「おくりびと」にしても死者を送るという暗く重い行為を諧謔を交えながら胸に響く作品に仕上げていた。しかしだ、この「潜水服は蝶の夢を見る」の映画としての作り方は、20万回もの気の遠くなる絶望的ともいえる瞬きを繰り返し、自伝を書き上げることに人生最後の執念を費やした一人の男の姿を真には描いていないと思う。監督や製作者の目は作品のモチーフとしての主人公の存在を捉えているだけであり、この主人公の本当の苦悩や絶望感には手を伸ばしていない。

●この映画は果てしない絶望の断崖絶壁に立つ一人の男が、自分の生命の最後の力を振り絞って伝えた自伝小説を素材として利用しているだけで、この男の苦しみに心を砕いているとは思えないのだ。だから自分はこの映画は「間違っている」と思うのだ。

●苦悩の果てに伝え上げた自伝がフランスで出版された直ぐ後、全ての生きる気力、執念、支えを失ったかのように主人公は息を引き取ったという。「もう、これで充分だ、もうこれで思い残すことは無い、もうこれ以上苦しみたくは無い」そんなことを思って、息を引き取ったのではないのだろうかと思ってしまう。

●この映画も巷の評価は高いようで、監督の温かい目だとか、美しい絵だとか誌的な表現だとか言って賛辞を上げる声があるようだが、自分はこの映画は商業主義的な一物であり、原作者の存在を利用しただけの作品と思う・・・・かなり否定的な見方と言われるかもしれないが、そう感じてしまうのだ。