『あゝひめゆりの塔』 

●また今年も終戦の8月を迎えるにあたり、見ていなかった過去の戦争映画を一つ見てみようと思った。

●作品の冒頭。ゴーゴークラブ(たぶん当時はディスコではないだろう)で踊る若者をとらえ、それを見つめる渡哲也が映しだされる。そして渡哲也はその若者たちと、20年前に戦争の中で死んでいった若い女子高校生たちの在り方の違いを懐柔に批判している。その部分から作品は始まる。

●あまりにベタな演出。監督が冒頭に自分の思いやメッセージを出したいと、こう言った部分を付けたのであろうが・・・・それは映画の作品としての本質から逸脱している。そう言った批判やメッセージはもっと本編の在り方や、構成で表現すべきであろう。

●まあ、いまから40年以上前の作品であるから演出の技法としてこういった粗野なやりかたが取られたのも時代の証しなのであろうが、今改めて見るとこう言った演出は見ているほうがしらけるというか気恥ずかしくなる。

●この部分を監督の強い主張だ、考えさせられる部分だ・・・・などと言っていたのでは・・・・一本の映画としての完成度をないがしろにしているようなものだ。

●冒頭にガクンとこのような妙チクリンなことをされて、あれまぁ、とガクンと来たのであるが、その部分を切り取れば、日本映画の歴史の中に欠かすことの出来ない作品であることは疑いようがない傑作である。

●最初の30分程はわざとらしいばかりに女子高の体育祭?とそこに忍び込む男子学生の姿、寮で男の子の話題にはしゃぐ平和な女子高校生の姿を描きつづける。その姿はまるで現在の女子高校生となんら変わりない本当に普通の姿だ。それが空襲、学徒動員、米軍沖縄上陸と急激に戦争が彼女達を過酷な試練の渦のなかに引きずり込んでゆく。(こういった対比てきな演出もあまりに単純すぎるのではあるが、それに勝る映像の強さがべたな演出の粗を凌駕し見るものをストーリーに釘付けにしていく)

疎開する子供たちを乗せた船。見送りにきて子供の姿をもう一度見ようと殺到する親達。そして、その船が撃沈され全員死亡という報が伝わる。

●冒頭からどうも変な演出で、んーと唸っていたが、この辺りから戦争の激しさと悲劇が画面から強烈に滲み出てくる。最初から妙なことをせず、余計なあざとい見え透いた演出もせず堂々と真っ向から正論で話しを綴っていけばよかったのに・・・という思いはあるが。それに目を瞑ってもこの辺りからこの映画は本当の映画としての強さを主張し始める。

吉永小百合は当時21歳位であろうか? 高校生を演じるには年をいっているとは思うが、その演技力は今見ても凄いとしか言い様がない。今の20歳位の女優にこれだけの演技ができるであろうか? いや、やはり吉永小百合の演技はレベルが違う。そして周りの女学生の演技も巧い。

●実際に歴史の中であった、ひめゆり部隊の悲劇。その真実の重みが映画と役者に宿る。演技をするものに悲劇の重みが心の底からの演技を生みだす。そして見るものにもそれが伝わる。そんな気がするほどに、この女学生達の演技は演技とは思えぬものを画面に映しだしている。

●機銃掃射から逃げるシーン、爆撃を受け周囲が爆発し土煙が舞い上がるシーン。今ではCGを使わなければ出来ないのでは?と思えるようなシーンが圧倒的な迫力でフィルムに捉えられている。これだけのシーンを今日本で日本の映画で撮影することはかなり難しいであろう。

●2時間を越える長い作品でありながら、その内容の重さと辛さ、哀しさに時間の経つのを忘れてしまう。

ひめゆりの塔の事は多くの日本人が知っている歴史の悲劇であろう。だが、表面的に史実の名前をしってはいても、その悲劇の痛ましさまでは書物を読んだり、このような映画を見ないことには伝わらない。感じとれない。

●このような日本が過去に犯してきた悲劇を扱う歴史映画をもっと我々は見返すべきであろう。歴史の教科書となる映画は数多く作られている。過去の映画であっても、その内容が伝える重さとメッセージはいつの時代にも通じる。非常に重く沈痛な気持ちになる作品である。しかしこのクオリティーの高さと真実の持つ重みは映画ファンに関わらず多くの人が観るべき作品であろう。