『まぼろしの邪馬台国』

●今年公開の映画の中には興味はあるけれどこれはわざわざ時間を割いて劇場で観なくても良いだろう。ビデオグラム化されてから観ればいいやと思えるものが何作かあった。石原さとみ主演「フライイング・ラビッツ」、新垣結衣「フレフレ少女」。両方ともキャスティングの面白さで興味は無くは無かったのだが、集めようと思わずとも集まってくる情報から、これはパスしておこうと判断した。新垣のガクラン鉢巻姿はイメージとしてインパクトはあったのだけれどね。そして「まぼろしの邪馬台国」も邪馬台国を探求する話というのではなく、邪馬台国を追いかけた夫婦の話だということで、これは映画として地味なストーリーになりそうだし、映画化そのものにも向かないのではという懸念が生じていた。監督が堤幸彦でなかったら、NHKプロフェッショナルの流儀での堤監督の撮影の姿を見ていなかったら(2008.5.13日記参照)きっと観ていなかったかもしれない。

●そもそも「まぼろしの邪馬台国」という小説の映画化というよりも、この小説を書いた夫婦の姿、小説のバックグラウンドを映画の話の中心に置いているのだと聞き、ならば小説のタイトルをそのまま映画のタイトルにするのは内容にズレを生じるのではないか、タイトルを「島原の偉人 宮崎康平とその妻」とでもすればタイトルと中身の話は繋がるのだが、「まぼろしの邪馬台国」というままでは邪馬台国の探求そのものがテーマと受け取られる、タイトルと話の内容にギャップがありすぎると感じていた。

●集まってくる情報から判断するとこのギャップが言葉を受け取る側に疑問を抱かせ、映画として大きな失敗を導くのではないかと思われた。原作小説(小説という分類で良いかどうかという話は別におく)自体は映画化向きの話ではない。だからこそ、盲目ながら苦難をのりこえて邪馬台国を探し当てようとした宮崎康平とその妻の姿を主題として映画にしようと転化したのであろう。これは「まぼろしの邪馬台国」という小説自体の映画化ではないのだ。だが宣伝PRは全て「まぼろしの邪馬台国」の映画化というイメージで展開されている。(さすがに、どこにもはっきりと小説の映画化だという言葉は使われていない)この映画にはなにかギクシャクしたものを感じていた。映画化の発案自体にもかなりの疑念があった。

●映画のテーマ曲としてセリーヌ・ディオンに日本語で「卑弥呼のテーマ」を歌わせるなどというのも尋常ではない。話題作り、海外番宣などの見え透いた企みがありありとしていて、この映画のプロデューサーは相当に腐ってるなと思わされたのだが、誰だ?こんなどうしょうもないことをことをしてるのは?と調べてみたら予想的中ああやっぱりなで、悪い評判だらけ女性プロデューサーの名が(溜息)まあ、そういう人物でも世の中では”映画プロデューサー”などと言い、私がこの映画作ってますなどと肩で風切って歩けるわけである。「優れた人物が映画を作っているわけではない」とはハリウッドで良く言われる話。それは日本でも同じ。運良くその仕事に就いたというだけのことであり、それが映画だから持ち上げられるだけのことなのだ。

●と、最初からネガティブな面ばかりを書いているが、事前情報とこのプロデューサーの存在からして「まぼろしの邪馬台国」は「ドラゴンヘッド」級の最高水準の駄作になるのではないかと予見した。(ドラゴンヘッドもプロデューサーの仕切が最悪だった作品)・・・・しかし、そんな気持ちをおしても観たのは監督が堤幸彦であったからだ。これだけ自分にネガティブな情報が集まっている作品を堤演出はどう処理しているのか? それを見たかったというのもある。

●大満足とまではいかない、感動したとまでもいかないが、この映画は充分に鑑賞に耐えうるレベルの作品になっていた。いつものテンポよく飽きさせない演出はちょっと薄れ、作品途中では気怠さも漂ったが、破綻することはなくラストまで話しは持ち続いた。脚本が大石静ならばなんとかなるだろうという期待も少しはあった。これは不要ではと思えるエピソードも堤演出は巧く映画に馴染ませ溶け込ませ違和感を消し去っている。康平が邪馬台国探査を始めるきっかけとなったという豪雨の中での遭難騒ぎとそこで見つけた遺物の話しは分かりにくい。(遺物が骸骨のようで土器に見えにくい。何を掴んで叫んでいるのかと疑問に思った)社長の席を追い払われてからの生活、二人の子供をどう育てたのかなど現実感がなく、不整合な部分も多々有る。しかし全体としてはなんとかそういう頭に浮かぶ疑問符もうまくやりこめられてまあまあ観ることのできる一作に仕上がっていた。これはやはり堤監督の技と言うべきであろう。

●この映画のキャスティングはイイ役者を揃えすぎて失敗している。役者が役を越えて目立ち過ぎている。個々人の演技のレベルは高いのだが特にこの作品は事実に基づいた内容なのだから役者の個性が出過ぎるのは程々にすべきだ。竹中直人は奇人とも言われる宮崎康平を表現してはいるが、あまりの演技にかえって実在の人物にはない嘘っぽさが滲み出る。その妻和子に吉永小百合を配したのはちょうど原作がブームとなった昭和40年代にこの本を読んだ世代、サユリストと呼ばれる世代を映画に呼び込もうとした魂胆か? 日本の大女優としてまったく異議の無い吉永小百合さんは流石に文句の付けようの無い演技で感心するばかりなのだが、実際の妻和子の年齢との差があまりにもありすぎる。現在の吉永小百合さんはもう60歳を越えている。映画の中での吉永小百合さんはは確かに美しさは健在だし、観ていると年齢の違和感は感じなくなるのだが(そこがまた映画の、そしてこの大女優吉永小百合さんの凄いところであろうと思うが)このキャスティングはかなり以上強引で無理がある。大女優の演技とその美しさに助けられてはいるが、動員目当ての商魂もいい加減にすべきであろう。作品のトータルクオリティーを上げるという所とは別の部分でキャスティングがされているとまざまざと見せつけられている。

●窪塚はもうどうでもいいやという感じなのだが、その他のチョイ役にまでいい役者を使っているのは20世紀少年でもそうだったが堤幸彦作品の特徴であり、監督の吸引力。今の日本の監督これだけの役者をチョイ役でまで使えるのは、集められるのは堤幸彦くらいでなのであろう。

●映画の出来は思いのほか悪くは無い。実際に吉野ヶ里遺跡で撮影されたという古代邪馬台国の人々の生活風景など、映画というよりもNHKの「そのとき歴史は動いた」のようなテレビの時代考証番組のような雰囲気を感じてしまうが、歴史物が好きで、邪馬台国論争や卑弥呼の存在に興味がある者にとっては、こういった映像も非常に興味深い。歴史にロマンを感じる者にとっては、吉永小百合が演じた卑弥呼と火山爆発で人々が逃げ惑う姿、卑弥呼の屋代が火山爆発によって流されるという映像ですらも心に響くものがある。考えてみれば邦画の歴史のなかで卑弥呼邪馬台国を取り上げた作品というのは日本の起源に迫る話だというのに非常に少ない、いや殆ど無いに等しい。そういった意味でも今回この映画の中でうつしだされた卑弥呼邪馬台国のシーンは、ほんの僅かではあるけれど、非常に珍しい映像であるとも言える。

●妻和子との旅の末に辿り着いた丘、これこそ卑弥呼の墓だと信じ、発掘調査を指揮しているその時、康平は倒れた。だがその倒れる瞬間、見えない康平の目は古代邪馬台国に繋がり、卑弥呼の姿を捉える。これはロマンであり、夢であり、希望の紡ぎだした軌跡の瞬間。こういった夢のある映像、話は自分は非常に好きだ。この邪馬台国のシーンと、この康平の最後の瞬間に卑弥呼を見たシーン、この二つだけでもなんともジーンと来てしまい、心が揺さぶられてしまう。星野之宣作品「ヤマタイカ」にも通じる歴史の夢、ロマンを感じさせるいいシーンだと思う。

●昭和40年頃この小説が出版されブームになった頃にこの小説を読んで感銘を受けたり、そのブームを記憶している世代にはこの映画は吸引力があるかもしれないが、それ以外の観客にはちょっと受入れにくい作品であるとも思う。だが邪馬台国調査の話ではなく、晩年を夫婦二人で夢を追い続けたストーリーとして観ると、なかなかのものだと思う。きっと康平、和子と同じように歳をとった夫婦が観たらきっと涙してしまうのではないかだろうか? 自分たちもこんな風に在りたいと感じて・・・。

●観客としてはきっと中、高年齢層が主となる作品であろう。興行的にも大成功という作品にはならないであろう。だが、これは観てよかった。スルーしなくてよかった、そう思う一作である。