『火垂るの墓』(2008)

空爆焼夷弾、放置された死体、食うものも食えず、配給の僅かな食料と畑の盗みで飢えをしのぐ幼い兄弟。今の時代からでは想像も出来ないような戦争当時の状況。反戦だ、半軍国主義だと声を上げるのではなく、淡々と当時の状況を再現する映像。日本に数十年前こんな状況が実際にあったのだと思いを巡らせるだけで胸が詰まる。

●実際に当時の状況を体験した人ならば「こんなもんじゃなかった、もっと酷かった」と言うのかもしれないが、今映像として見ても、もしこんな状況に放りだされたら自分は生きて行けるのかと思ってしまう。

●戦争体験、戦争の悲劇が時間と共にどんどん忘れ去られていくこと、それを食い止めるには映画や映像は有効だろう。文字を読むことよりも映像で見ることは短絡的であっても簡単に当時の状況を短時間で人の頭に再現させることができるのだから。

●ほとんどメリハリのない映画だが、じっと観ていると「こんな状況を二度とつくりだしてはいけない」という思いが沸き上がってくる。

●幼い兄弟の姿、小さな妹を思いやる兄の姿、両親も身寄りもなく二人だけで必死に生きていこうとする純粋な姿。そういう姿を余計な演出を余り加えず淡々と映しだしていくこの作品は嘘のない力強さがある。

●戦争ものの映画というのはこのところ本当に少ない。悲惨な戦争を語る映画、社会派の映画というのは劇場に人を呼べないということがはっきりしているから製作側は手を出そうとしない。それでも日本の高齢化に従って少なくとも都心部、その周辺部では映画鑑賞人口に占める中年以降の比率は高くなっているはず。中年以降の人はチャラチャラしたアイドル映画や、人気女優、男優を使っただけの原作ものの映画化作品は見向きしないだろうし、戦争映画やしっかりとした社会派映画にこそ足を運ぶ観客層だ。それも平日の日中という客数が少ない時間帯を埋める貴重な観客層になるはずなのだが・・・日本の映画業界は20代、30代向けのデートムービー的映画ばかりを作る。マーケティングとういものも明らかにその層だけをターゲットにした視点から行われる。ここまで映画不況と言われる状況になってくるとそれも致し方ないのか? 

ジブリ・アニメの知名度の高さもあったからこの実写映画も製作がOKになったのだろう。アニメ版の名作としての知名度や人気がなかったらこういった厳しい重い映画が製作される状況は今の日本の映画界では無いに近い。

●どうもあちこちで最初に作られたアニメ版『火垂るの墓』に比較してこれは駄目だ、良くないという事が言われているようだ。アニメ版との違いを取り上げて批判している声も多い。実写版『火垂るの墓』はアニメ版を実写に置き換えた作品ではない。原作小説を実写映画化したものだ。それなのに「アニメのあそこが良かったのに変えられている、アニメ版の良さが実写版には出ていない」などというアニメ版との比較が殆どだ。原作小説をどのように解釈し、どのように映画化するかは脚本や監督の考え方によりいかようにでも変わる。なにかこの映画に関する悪い批評はアニメ版を実写にしたという勘違いから派生しているような気がする。

●最初にありきは原作小説であり、そこからアニメと実写は別ものとして作られたのだ。アニメ版を実写化したのではなく、小説を実写化したのだ。それなのにこの映画を揶揄する人はアニメ版の実写化だととんでもない思い違いをしているかのようだ。

●名作として評価の定まったアニメ『火垂るの墓』はひとつの表現形態だ。そしてこの実写版もアニメとは異なるひとつの表現形態だ。

●どちらが優れている、どちらがイイというのは個人の感性と趣味嗜好に委ねられるが、アニメが良いからどうだとか言うのはナンセンスだ。この実写版はひとつの映像作品としてしっかりと自立している。

●母親役に松田聖子も持ってきたキャスティングに関しては唯一否定的な気分。松田聖子はもう充分に歳を重ね、顔付き仕草、雰囲気にいい意味で味も漂わせているのだが、いかんせんアイドル歌手時代のぶりっ子、マイナスイメージはどうしても名前と顔に付きまとい演技を観ていても余計な過去のイメージが浮かび上がってきてしまう。そういうイメージを払拭出来るまで役者としての遍参を重ねているわけでも、役者として確固とした域に到達しているわけでもない。松田聖子という過去のイメージが無い人が観ればなんとかなるのかもしれないが、やはりこの作品に起用してしまうと作品の至極真面目な作りに要らぬ雑味を浮かばせてしまう。