『硫黄島からの手紙』 

クリント・イーストウッド硫黄島と日本軍の戦いを主題とした映画を作ると言う話しは一年程前にメディアで話題になっていた。確か実際の硫黄島訪問風景がニュースに流れたり、都知事を訪問したり、そんなことがテレビなどで取上げられていた。
アメリカ人が第二次世界大戦の日本との戦闘を描いた作品でロクなものなどない。そういった気持ちは自分の中に明らかに存在している。画一的な日本人描写と結局は自国民受けを狙ったアメリカ万歳の映画ばかりだ。だからクリント・イーストウッド硫黄島の映画を撮ると聞いたときも「フン、どうせまた下らない映画だろうよ」と言うふうに思っていた。

●例えば割りとメジャーな作品であるプライベート・ライアンにしても私は大嫌いな映画である。ラストでは星条旗を画面いっぱいにはためかせ、結局のところアメリカ万歳という映画だ。いつもいつも、多くの映画を見てもアメリカの自国自賛の立場は変わらない。まあそうでもしなければアメリカ国内での興行にも影響するから作る側とスタジオとしては仕方ないか? 「俺たちは間違っていたのかもしれない」映画プラトーンウィレム・デフォーチャーリー・シーンとジャングルのなかで夜空を見上げながら語るシーンは映画の中で始めて言葉としてアメリカが自分たちの非を語った最初のものだっただろう。古い記憶だがあの時は有る意味衝撃を受けた。ようやくアメリカがこの言葉を自国の最大産業である映画の中で語ったんだと・・・。

だが、その後のアメリカはまたも過去に戻り始めた。湾岸戦争イラク侵攻(!)、その他数々の自国リベラル主義の強制的輸出。

アメリカ映画の多くが自国礼賛、戦争称賛(表向きは違うが)、超ナショナリズムの抑揚という風に傾き続けていった。

現在にも至るその流れは嫌悪感すら沸き立たせ、アメリカ国内でも反発する動きは出てきた。映画というメディアのなかでも一部の人間が正面から自国の有り様を批判し、攻撃し、それを表現していった。マイケル・ムーアはその先鋒としてメジャーになった。

だが、それは全体のなかでは異分子であり、メジャースタジオが批判の矛先をかわすちょっとした隠れ蓑として利用していたとも言える。

アメリカの映画産業の本質がアメリカその物を批判する映画を作ることはありえなかった。あったとしても静かに問題にならぬよう消し去られていた。

●「父親たちの星条旗」は恥ずかしながらこれも自分には予備知識が殆どなかった。PR用の画像を見たとき、風にはためく星条旗を支える軍人の絵は「ああ、またナショナリズム高揚の映画か、クリントイーストウッドでさえ、やはりアメリカ礼賛の映画しかつくれないのだな、もう最初から見る気はしない」と思っていた。だから「父親たちの星条旗」は劇場に足を運ばなかった。見ることはないだろうと思っていた。

だが「硫黄島からの手紙」は日本人が主人公であり、日本語で作られ、日本軍の激戦が話しの中心になっているということを知り、こちらは見ておくかと思ったのである。だが、どうせ典型的な日本人描写、あきあきするような日本人には思えない演出などがまた繰り返されるのかもという懸念は持っていた。

●そして、言葉を失った。こんなに凄い映画であったとは・・・・・。細かなことをあれこれ書くのはよそう。ただ一つ、アメリカ人であり、ハリウッドの重鎮でもあるクリント・イーストウッドがまさかこれほどまでに真に迫った嘘のない、本当の日本の戦争を描けるとは、描くとは思いもよらないことだった。

●戦闘シーンの激しさはプライベート・ライアンなど比するものではない。これほどまでにリアルで恐怖心を感じる戦争映画は初めての経験でもある。あまりのリアルさに途中で気分が悪くなってしまうほど、そこは恐ろしい戦場がフィルムに再現されていた。

●「硫黄島からの手紙」には現時点で最高の称賛を送ろう。これほどまで凄まじく、そして本当に戦争の愚かさと悲しさを浮き彫りにした映画はない。そして日本人のありかたをこれほどまでにまっとうに、偏見やゆがみなく描いた外国映画も他には存在しない。

●鑑賞が終わって、これほど疲れを感じた映画もない。それほど真剣に真摯に見なければいけない映像であった。
そしてアメリカ人が作っていながらも、アメリカ側にも、日本側にも偏向せず、正当に中立な立場から自国の絡んだ戦争を描いていることにも驚きを感じた。

クリント・イーストウッドが年齢を重ね、今これほどまでの人間的、社会的な円熟と高貴の位置に経っていることに敬意を示さずにはいられない。

●辛口批評だから一つ納得のいかない部分を書いておこう。あちこちの雑誌では二宮和也の演技が素晴らしいと言う評を多く目にするが・・・私的にはこの映画の唯一つのミスは二宮の演出をキチンと行わなかったことと思う。土屋アンナなどと同じく演技経験が浅い二宮は地でしか演技が出来ていない。太平洋戦争時代の設定であるのに、二宮のしゃべり方はいつもと同じ現代の若造のひねくれたしゃべり方だ。このしゃべり方に違和感を感じないという人が本当にいるのだろうか? 明らかに他の役者のなかで二宮の演技はそれだけがまるでこの時代の人々に馴染まず溶け込まず浮いていた。なぜ監督は、そしてフォローした日本人スタッフは二宮にあんな演技をさせたのか? あれだけでこの真摯な映画のもつ素晴らしさが台無しになった部分は計り知れない。考えれてみれば二宮は大手芸能事務所の金の卵!このハリウッド映画の出演でアカデミー賞の一部でも獲得して、ギャラを大々的に跳ね上げ、世界的にも売りだしてやろうという魂胆がミエミエではないか?その為にこぞってメディア、マスコミを利用して二宮の演技が凄い、凄いといういわゆるロビー活動をやっていたのではないか? どう考えてもあのしゃべり方はこの映画にミスマッチなのだ。演技その物は許容範囲だとしてもあの話し方をさせた時点で、終わりである。裏がどうなっているかは知る由もないが、この演出を許した日本人スタッフには猛省を促したい気持ちだ。この点に関しては書いても書いても書ききれない。

●だが、この映画そのものは素晴らしいの一言に尽きる。これだけ素晴らしい映画だとあれこれ書きたくなくなる。兎に角見てみることだ、そして感じることだ、それがこの映画を知る全てでありゆいつの方法なのだ。

●これだけの素晴らしい映画を見たために「父親たちの星条旗」に自分が持っていた偏見が薄くなった。そして劇場公開の順序とは逆であるが、私は公開が続いている劇場に「父親たちの星条旗」の内容をどうしても確認してみたいという気持ちになり、遅ればせながら足を運んだのだ。一体アメリカ側の視点では硫黄島の戦いがどう描かれているのだと、クリント・イーストウッドのその考えをどうしても確かめたくなって。