『インビクタス/負けざる者たち』

●"インビクタス"・・・・最初このタイトルを目にしたとき、意味が分からなかった。発音の近い言葉から連想してVICTIM(犠牲、生贄)に関連のある言葉だろうか? と想像した。だが、その言葉はラテン語で「不撓不屈」を意味するという。
「不撓不屈」 INVICTUSどんな困難にあっても決して心がくじけないこと。困難や苦しみに屈しないこと。己の意志を貫くこと。
あらためて言葉の意味を噛み締めてみる・・・・・励まされる言葉だ、なんと心を鼓舞する言葉だろうか。

●毎年続けて非常にクオリティーの高い作品を作り続けているクリント・イーストウッド。昨年の「グラン・トリノ」では映画としての素晴らしさと同時にその厳しく強烈なメッセージによって肺腑を抉られるような震撼と感動を味わった。そのクリント・イーストウッドの新作が「INVICTUS不撓不屈」という題を掲げている・・・・どんな困難にあっても屈することなく意志を貫き通す・・・・こんな題を冠した映画でクリント・イーストウッドは一体どんな感動を与えてくれるのか・・・・俄然作品に対する興味と期待が湧いてきた。

●そしてその期待は微塵も裏切られることはなかった。2時間14分という長さをまったく感じず、映画にストーリーに酔いしれた。エンドロールが終わり劇場が明るくなると、ふーっと大きく息を吐いた。大きくため息をついてしまうほどたっぷりの見応えであった! 実話に基づく心を揺さぶられるストーリー。妙なてらいもひけらかしもなく、質実で真っ直ぐなストーリー、あざとらしい伏線などまったくなく、本当に直球勝負、本当にストーリーを見せていく映画の王道たる姿。今年もまたクリント・イーストウッドは素晴らしい映画を観せてくれた。あっぱれである。もう感服するしかない。なぜにクリント・イーストウッドはこれだけの素晴らしい作品を毎年作り続けることが出来るのか? 

●ハリウッドの映画製作なんて2、3年位かかってあれこれ準備してようやく公開というのがパターンだ。しかしクリント・イーストウッドは素晴らしい作品を毎年作り続けている。これは尋常ではない凄さだ。クリント・イーストウッドの製作スタイルはハリウッドの形式化された映画製作のルーティンとはまるで別なのだろう。そして、クリント・イーストウッドの製作スタイルでこれだけ素晴らしい作品を毎年作り続けられるということは、ある意味ハリウッドに対する内部からのアンチテーゼでもある。長年ハリウッドで生きてきた人間だからこそできる、今のハリウッドへのアンチテーゼ。クリント・イーストウッドは素晴らしい映画を毎年作り上げるということで、自分の生き方とその作品によって今のハリウッドの在り方に挑戦状を叩きつけているかのようだ。

●もちろん、スタジオとしてもワーナーの御大とも言えるクリント・イーストウッドに絶大なるバックアップ、アメリカ映画業界の惜しみない協力、担当製作会社、脚本家、の絶大なる協力、監督クリント・イーストウッドを取り囲み支える製作スタッフの尽力、マネジメント能力の集結というものがあってこそ毎年素晴らしい作品が作り出されているのだが、そういった多くの人の力を集結させる力・・・・それも素晴らしい映画を作り続ける監督が有した他にはない類まれな力なのであろう。

●なんにしても、圧巻のストーリーだ、圧巻の映画だ! 人生の晩年とも言える70歳を過ぎてから次々と作り出されるクリント・イーストウッドの監督作品は、どれもこれも粒ぞろいの秀作、傑作ばかり。今の時代に「この監督の作品ならば間違いないであろう」と大いに期待をもって映画を観に行ける監督というのは残念ながらクリント・イーストウッド意外に見当たらない。クリント・イーストウッドは役者としての業績よりも「ミスティック・リバー」以降の監督としての業績が遥かに大きく評価されることであろう。73歳という歳にしてまるで自分の人生の残りの時間を全力でまっとうしようとするかのように良作を作り続けるこの監督に、もはや最大級の敬意を評さずにはいられない。

☆☆☆☆☆☆☆

●我が運命を決めるのは吾なり、我が運命の支配者は吾なり、我が魂の指揮官は吾なり・・・・獄中に27年間も押し込められながら、決して自分の人生を諦めることがなかったネルソン・マンディラの言葉。その27年間は一体どれだけの苦悩の闇だったのだろう。その闇に支配されることなく、自分の運命を支配するのは自分なのだと言い聞かせ、27年間を耐えぬいたネルソン・マンディラ・・・・想像を絶する自分自身との戦い。それを考えただけでも気がとおくなるような絶望感が押し寄せる。正に不撓不屈。想像を絶する鋼のような精神力。

南アフリカラグビー代表チーム・スプリングボクスの主将ピナール(マット・デイモン)がチームの心をまとめるためにマンディラが投獄されていたロベン島の収容所にメンバーを引き連れて訪れるシーンが心に残った。ピナールはマンディラが投獄されていた46664番の監獄の前に立ち、静かに鉄格子の扉を開ける。監獄の中に入ると、そのあまりの狭さを確かめるように腕を広げる。何も語らなくともピナールの背中から「こんな狭い場所に27年間も閉じ込められ、それでも諦めなかったのか」という言葉が響いて来る。白い牢獄の壁にマンディラの姿が浮かび上がる。この狭い牢獄の中で決して自分の運命を諦めることなく、我が運命の支配者は吾なり、我が魂の指揮官は吾なりと自分に言い聞かせるマンディラの姿にピナールの心が打たれる。この映画の中でこのシーンが一番に自分の心に残ったそして感動した。

●これだけ実直でがっしりとした脚本も素晴らしい。今回の作品の脚本ではアンソニー・ペッカムがクレジットされている。近々公開の「シャーロック・ホームズ」の脚本も担当しているようだが、寡聞にしてこの人の知識がない。最近売れてきている脚本家なのだろうか? それにしてもまったく破綻のない見事な脚本だ。

クリント・イーストウッドが監督業に力を入れ始めてからしばらくは脚本はポール・ハギスと手を組んでいた。だが最近では過去にメジャー作品を書いているわけでもないどちらかと言えばあまり知られていない脚本家と手を組んでいるようだ。脚本家は複数のペンネームを持ち、作品毎にクレジットされる名前を変えていたりすることもある。何度も書き直しの末に権利関係がおかしくなると架空の名前を使う場合もある。詳しく調べなければその脚本家が過去にどういった作品に関わっているのかは分からない部分もあるが、最近のクリント・イーストウッド監督作品では、誰だろうこの人は?というような脚本家の名前がクレジットされている。しかし映画の設計図でもある脚本はどれもこれも素晴らしい完成度だ。思うにクリント・イーストウッドは自分の監督作品にまだ名の売れていないが、実力があると見た脚本家を起用し、自分の作品にクレジットを載せることにより新しい脚本家をメジャーの舞台に送りだそうとしているのではないだろうか? いくらなんでも今まであまり実績のない脚本家がいきなりトップクオリティーとも言える脚本をポンと書けるわけもない。監督であるクリント・イーストウッドが脚本には多くの部分で関わり、その内容のブラッシュアップにも多大な力を注いでいるのであろう? もう富も名誉も手に入れたクリント・イーストウッドとしては出来上がった脚本には自分のクレジットを入れなくてもいい、自分は監督として力を振るうのだから、脚本のクレジットはこれから活躍して欲しい脚本家にシングル・クレジットで与えている・・・・そんな気がする。

クリント・イーストウッドは一連の監督作品でアメリカという国の過去をそして今を痛烈に批判してきた。それはアメリカという国とその国の生み出した矛盾、搾取、偽善、暗部、恥部、闇、悪、罪をくっきりと衆目に浮かび上がらせるアメリカ人にとっても苦々しい行為でもあった。ただアメリカ人であるクリント・イーストウッドが自国アメリカを批判する立場は「目をつぶって見ないふりをしていてもどうにもならない、俺たちの国はこんな状態なのだ、こんな状態になっているんだ、こんなことを黙認し、繰り返していたらこの国は、未来は一体どうなるんだ!」というアメリカ人に対する問責であり、変えなければいけないという呼び掛けでもあった。

●胸を抉られるような「グラン・トリノ」の内容と異なり、今回の「インビクタス」は表立ったアメリカ批判というものはない。逆に「こんなふうにして、いがみ合い、憎しみあい、時には殺し合ってさえいた白人と黒人が、崩壊しかけていた国家を再生させたのだ、ひとりの指導者の元で」と将来に希望を繋ごうとするかのような内容である。折しも黒人大統領オバマアメリカで誕生したことと、南アの黒人大統領マンディラを取り上げたこの映画を関連付けるような評論、批評、感想も見受けられるが、自分そういった受け取り方はほとんどしなかった。クリント・イーストウッドがこの作品で表現し、伝えたかったことはこの映画の構成にも通じるシンプルでストレートなものだ「赦し合い、力を合わせ、共に困難に挑戦するならば、不可能に思われたことも変えられる、どんなに苦しく辛くとも、小さな希望の光を見出し、それに向かって、挫けず、不撓不屈の精神で歩みを続ければ、きっと世界は変えられる、このアメリカも、この世界も変えてゆくことが出来る」と!この映画で示されるクリント・イーストウッドのメッセージは今までの監督作品とは変化している。

「だめなんだ、目を覚ませ、認識しろ、自覚しろ」から

「変えていこう、変えなければいけないんだ、変えられるはずだ」に変化している。


●この『インビクタス』において、監督クリント・イーストウッドは今までの監督作品と異なり表立ったアメリカ批判というものをしていないと書いた。だが、一箇所気になる部分があった。この作品を観た多くの人が「え、どうなるんだ」と驚いたシーン。ジェット飛行機がスタジアムに突っ込むが如く急降下してくるシーンだ。
自分もこのシーンを観たとき相当に心臓の鼓動が激しくなった。「一体どうなるんだ、ここまでこんなふうに話が進んできたというのに、WTCにジャンボが突っ込んだ9.11テロのようなことになるのか? まさか? この映画は実話に基づいた映画ではないのか?」と息を飲んでスクリーンに釘付になった。幸いにしてこのシーンはジョークともいえる演出として処理されていたためホッと胸をなで下ろすことが出来たのであるが、映画を見終えてからもこのシーンが心の中に引っ掛かった。

●映画は事実をベースとして描かれているというのに1995年の南アフリカサッカーワールドカップでこんなことが実際に起こったのだろうか?と検索してみた。百科事典に簡単にアクセス出来るようなネットの世界はやはり驚くほど情報を手に入れやすい。1995年のワールドカップでは会場を盛り上げる特別な演出として実際にジャンボ機がスタジアムの上空スレスレを飛行するというパフォーマンスが行われたらしい。映画のような機長が一存で行った行為でもなく(まさかそんなはずはないだろうと思っていたが) ワールドカップを演出した人物が仕組んだ一大パフォーマンスであったようだ。
You Tubeにその時の実際の映像があった。South African Airwayを使ったこのパフォーマンスには$40,000 が掛かったとアナウンサーが叫んでいる)


●一つの疑問は解けた、実際にスタジアムの上スレスレをジャンボ機が飛んでいたのだ。事実に則して作られたこの映画にこんな大それたフィクションを折り込むなんてあり得ないと思っていた気持ちの引っ掛かりは取れた。しかし別のわだかまりがまだ残っている。

●あの、飛行機が低空でスタジアムにまさに突っ込んで来るようなシーンを見て、9.11のテロを思い出さないアメリカ人はいまい。いや、アメリカ人ではなくてもあのシーンから9.11を連想する人は温度差はあるにせよ相当に多いはずだ。1995年にスタジアムに集まった観客をあっと驚かせようとして行われたあのパフォーマンスを、クリント・イーストウッドは何故、あたかもあの同時多発テロを、9.11を想起させるような演出にしたのか? 変えたのか?

南アフリカで長年続けられてきたアパルトヘイト。人が人を差別し、抑圧し、迫害し、殺し、人の心に深い憎しみを植えつけるような行為が長年に渡っておこなわれていた。アメリカという国は、自国で、そして世界中のいたるところで同じような愚かしい行為を続けてきたのではないか、だから・・・9.11も起こったのだ・・・「こんな愚かな人間同士の争いを続けていたから、9.11は起きたのだ」ジャンボ機がスタジアムに低空で突っ込んで行こうとする映像をスクリーンで観ながら、自分はそんなメッセージをこのシーンに感じていた。それは自分が感じた思いであり、監督であるクリント・イーストウッドがそういった思いでこのシーンを作ったかどうかは分かり得ない。だが、あのシーンから自分は「こんな愚かなことをしていたから9.11は起きたのだ」という監督の怒りの声が聞こえたような気がする。

●前作「グラン・トリノ」まで続いていた、クリント・イーストウッドアメリカという国に対する叱責、それがこの映画では未来を変えていこうというポジティブな意志に変わったと前述した。だが、ジャンボ機がスタジアムに向かってくるシーンには、クリント・イーストウッドの自国アメリカに対する叱責がこれまでの作品と変わることなくしっかりと埋め込まれているのではないだろうか。

●この映画の黒人大統領をオバマに当てはめて考える人もいる。ブッシュの下で資本主義の暴走を放任し、守銭奴が国を操るような国家に堕落したアメリカを、初の黒人大統領オバマの下で新しい希望と未来への改革おこなおうとする今を、ネルソン・マンディラの行った国家の再生に準える人もいる。だが、アパルトヘイトに立ち向かったマンディラのように自由平等を求めた人々を自国に都合が悪くなったという理由で抑圧し、迫害してきたのは、それを今でも続けているのはアメリカではなかろうか? この映画の中のマンディラのような人を押しつぶそうとしてきたのはアメリカなのではなかろうか。だとすればマンディラはオバマには繋がらない。抑圧され投獄されてもくじけることなく、巨大権力に立ち向かい、その巨大権力が蔓延らせた悪の慣習を取り払おうとしたその意志と行為は、9.11を起こした首謀者に繋がっているととらえることも出来る。

●映画の中でマンディラを指したこんな台詞があった「テロリストが大統領になるなんて・・・」と。
なんとでもこじつけることはできる。なんとでも解釈することは出来る。それは観たものに与えられた自由だ。
極めて逆説的な捉え方を敢えてするならば、この映画の中のネルソン・マンディラを、オバマが属する国が最大に敵視する者に、9.11を起こしたとされている人物に当てはめて考えることもできる。


●テロかと思われたジャンボ機の急降下は、スタジアムの上空をかすめたときにジャンボ機の腹部に「がんばれボカ」と南ア・ラグビーチームを応援する言葉がかいてあることでジョークとして流された。だがあのシーンはジョークとして流される類いのものではない。特に9.11を身近に感じた人にとっては、アメリカという国の人々にとっては。高まった緊張を最後に風船に針をさすように抜いたことは監督の演出の巧みな技であろうが、あのシーンにはもっともっと深い意味がある。きっとアメリカ人の多くにとってあのシーンをジョークとして笑って流せるほど9.11の恐怖と悲しみは拭いきれてはいない。

●日本ではネット上で「粋なはからいだ」「とっても緊張してだけど嬉しくなるシーンだった」「最高のエンターテイメント・シーンだ」などと書かれているものを目にする。それは9.11の当事者ではなく、あのテロに関心が薄い人の素直な気持ちなのかもしれないけれど・・・・・・そういうシーンではない。

●長々と書いていたら映画の話というよりイデオロギーの話になってしまいそうだ・・・・・・

《映画の話》

●マット・デーモンは本当のラグビー選手のような図体のどでかい胸板が厚く肩幅の異常に拾いムキムキ・マッチョな体になっていた。ジェイソン・ボーン役で体を狂人に鍛えたではあろうが、今回は デ・ニーロ・アプローチでもしてむりやりラグビー選手の体形に体を作り変えたのではないだろうか?

●この作品は奇をてらった伏線などがまったく無い、実にストレートな話の運び方をしている。南アの新しい国歌の歌詞を書いたメモを主将のピナールがメンバーに渡すシーンがある。「ああ、きっとこのシーンは伏線になっていて最後にボカスが優勝して、選手が実は国歌を覚えていて、皆で国歌を歌い、ピナールが涙を流すシーンにでも使われるんだろうな・・・・・・」と予想していたが、そんな見え透いた伏線の回収は一切無かった。(原作小説にはその辺の再度ストーリーも書き込まれているということである)

●終盤のラグビーの試合のシーンはまるで本当の試合中継を見ているかのような迫力であった。与えられた演技をしているという感じが全くしない。圧巻の迫力のラグビー試合であった。

●INVICTUS/不撓不屈・・・・・この言葉を心に刻み込んでおこう。


インビクタス』 ウィリアム・アーネスト・ヘンリーの言葉

私を覆う漆黒の闇 鉄格子にひそむ奈落の闇 私はあらゆる神に感謝する 我が魂が征服されぬことを

無惨な状況においてさえ私はひるみも叫びもしなかった。 運命に打ちのめされ血を流しても決して屈服しない

激しい怒りと涙の彼方に恐ろしい死が浮かび上がる。だが長きにわたる脅しを受けてなお私は何ひとつ恐れはしない

門がいかに狭かろうと、いかなる罰に苦しめられようと、私が我が運命の支配者、私が魂の指揮官


2010/12/30

Australia won the previous World Cup. New Zealand won the one before that.
They’re both clear favorites to reach the finals this time.
According to the experts, we’ll reach the quarter finals, and no further.

MANDELA
According to the experts, you and I are still supposed to be in jail