『スーパーマン(2025)』まるで半世紀前の脚本。なんなんだこれは?

脚本が見事なほどいい加減、デタラメ、話と展開をまったく詰めていない。子供向けの漫画だってもう少し話を煮詰め、ちゃんと筋が通るようにするだろう。開始して30分もせず、オイオイなんだこれはとがっかり。

 

かなり期待して、見終わってスカッと気持ちよくなって、劇場を出て空を見上げて「ああ、いい映画だったな」なんて思える、いかにもハリウッド的なエンターテインメント作品を期待して観に行ったのだけど。思いっきり外した。

 

まあ、粗探しをしてもしょうがないのだが、粗というほどのモノでもないとんでもなさと、探すまでもなくオイオイそれはないだろう。。。まともに考えてこの場面作ってるのかよというのが最初から最後まで・・・もうこのスーパーマンを過大に評価してるのってどういう輩? 宣伝担当から小金もらって良いレビューかいてくれよって買収されてる連中なんじゃないの? そこまで思うグダグダさ。

 

これはアメコミ映画なんだから、アメコミの漫画ティストを入れてるんだからこれでいいのさ・・・なんて言えんだろう。

 

◎あの火を吹く怪獣が街中にあらわれて暴れてるってのに、キャーキャー叫ぶだけで、逃げもせずスマホで怪獣を見上げて撮影してるって・・・馬鹿じゃね? アングリ口が開いてなんじゃこりゃ〜と呆然。こんな場面によく監督はNOと言わなかったもんだよ。

 

◎怪獣がスーパーマンを踏み潰した後、地面をくぐってスーパーマンが飛び出すシーン。それを見ていた少女がやったーと両手を上げるしーん。・・・おいおい、この娘、怪獣が直ぐ側に居るのに逃げないでそこでみてたの? よく怖くなかったね。よく怪我一つなく見学してられましたね。きみ、すごくない? と溜め息。

 

◎氷で覆われたスーパーマンの「孤独の要塞」 ルーサーたちがいとも簡単に侵入してるのに対してスーパーマンが「どうしてだ、あの要塞は私のDNAがなければはいれないはずだ」とマジな顔して語って、その後ルーサーが「お前の髪の毛一本からでもクローンは作れるんだ」とドヤ顔で言ってるんだけど、オイオイ、そんなの半世紀も前のSF映画で使われてたような超古臭くて手垢がびっしりこびりついたような種明かしだろう。今の子供だってそんな話ドヤ顔で言われたらばっかじゃネのこの人って思うだろうよ。この脚本書いた奴、超低レベルなんじゃないの。

 

ルーサーが画面をみながらスーパーマンを攻撃するんだが、まるでゲームのコマンドを打ち込んでるみたいに方向をA−2だ、H-3だと叫んでる。スーパーマンの動きを分析して予測してるんだとか言ってたが、子供受けを狙ってゲームで敵を攻撃する雰囲気を真似た、その方がゲーマーに受ける、受け入れやすいだろうと短絡的に考えたのだろう。

ちゃらい、ちゃらすぎて、冷や汗が出る脚本と演出だ。

エンジニアって体を武器に変えちゃうくらいすごい能力あるのに、なんでルーサーに服従してる? アメコミ原作になにか元ネタあるのか。そんなもん知らん人からしたら、エンジニアってこんなすごい能力持ってるくせになにやってんの? 変だろう。としか思えんのだな。

 

メタモルフォは分子配列を変えてありとあらゆるものを作れる。クリプトナイトも作ってしまったし、ラスト近くでは太陽と同じものまで作り出した。。。てのに、なんで自分で閉じ込められたガラスの檻をぶっ壊して息子をたすけないわけ? そんなすごい能力あったら出来るだろうに。

この辺も観ていて、話が通らないし、デタラメつじつま合わせのストーリーと設定に「ああ、この映画、脚本も演出も監督も、デタラメだな、話を突き詰めてない、いい加減に作ってるな」とわかってしまう。

スーパードッグのクリプトは面白いし、主役のスーパーマンを食ってしまってたが、そのクリプトに噛みつかれ、引っ張り回され、投げ飛ばされ、ぶっ飛ばされたのに、ヘロっとした顔でなんの怪我もなく普通に大丈夫なルーサーって、あんたもミューターント化手術でも受けたんかい。なんだよ、その丈夫さは。wwwwと失笑、爆笑

 

まだまだいっぱいオイオイというところはあったが、このくらいにしとくか。

 

結果、このスーパーマンは超いい加減脚本の、超デタラメ映画であって、評価に値しないと思ったね。(;´д`)トホホ…

 

 

『サンセット・サンライズ』かなり胸にグッと来る。キツさ哀しさを含めて震災後の今をきっちりと描いている。ウルウル全開。(;_;)

クドカン脚本だからお気楽な面白映画と思っていたけど。。。
尺が2時間オーバーというのを聞いて「ん?ひょっとしてそういうのと違うんじゃないか」と感じたのだが・・・。
やはりそうであった。
最初はギャグのノリだったけど、次第に震災後の現地の状況、その話がかなりキツく感じる展開になっていった。グッと胸を締め付けられるようなシーンやセリフが押し寄せてくる。悪い意味のキツさではないのだけど、真剣なキツさ厳しさというべきか、ちょっと観ていて辛さも感じる内容。
 
過疎化や地方移住とか今流行りのテーマも取り入れて入るが、根底を流れるのは311の大震災後の地方市町村の苦しみ、悩み。そしてそこにあのコロナ禍が覆い被さってきて・・・。
 
映画を見ていて一番にぐっと胸を締め付けられたのは、菅田将暉
 
「もう震災のことなんてどうだっていいんです」という叫び。
 
その叫びの裏側には「いつまでもあの震災の事にこだわっていてもしかたないんだ。あの震災と津波のことにいつまで俺たちは縛り付けられているんだ。忘れることなど出来ない人もたくさんいる。でも、俺たちはもっと前を向いて歩いていかなきゃならないんだ」そんな気持ちが重なっているのだと思う。
 
東北出身であるクドカンや馳周平、岸監督の心の叫び、本当に思っていることはこの叫びに集約されているんじゃないだろうか。 決して楽しくはない、胸が締め付けられるような重さがある。けどとても考えさせられるイイ映画だった。

映画の最後間近、最高の涙ウルウルシーンで登場する井上真央は天使のような綺麗さだったね。

それまでの役所勤務の女性というちょっと野暮ったさを感じさせる雰囲気が全部なくなって、恋する美しい女性に変化してる。これも監督の意図した演出が上手く行ってるのかな。

サンセット・サンライズ 井上真央

 

思わずウルウル。

 

最後のシーンで、中村雅俊菅田将暉の会話

「俺も彼女もそしてお義父さんも三人が三人でそれぞれ別々にちゃんとやっていくってことだよね」と。

 

震災、コロナ、地方の過疎化、高齢化、空き家問題。。。そういったものが、たくさんたくさん今の日本には問題として横たわっているけど、一人ひとりがしっかり個として頑張っていかなくちゃね。そう言っているように聞こえた。

 

◯ほんのちょっとしたシーンに色々な意味が込められていて、ドキッとする。特にそのワンシーンを伏線としてあざとらしい回収なんかしていないのもいい。

 

井上真央演じる百香が自宅を空き家物件としてネットに乗せるためスマホで撮影していると、遊んでいる子供がスマホの画面をスッと横切っていくシーン。

 

◯白川和子の演じる隣のおばあちゃんが、亡くなった後で縁側に座って佇んでいる後ろ姿。

 

◯2週間の自主隔離期間が終わって、百香と章男に夕食にお招きされたシーンで出てくる「切込み」(イカの塩辛)、あれは市販品なんかじゃなくて本当の自家製だったな。イカの切り身に漬けたイカの腑の色が人の肌色のように綺麗。市販品のイカの塩辛だと保存料や添加物がたっぷり入っていて、肌色じゃなくて茶色になっている。あの肌色の塩辛は超新鮮なイカの腑(ゴロ)に塩だけをまぶして水気を抜いて、それをカネのザルで丁寧に濾したもの。余計な調味料なんかなにも使っていない本当の家庭の地元のイカの塩辛(切り込み)だ。

 

◯台所で何気ない会話をする百香だが、その手元では大きなタコをぐにゃぐにゃと洗っていたりする、その手付きやタコを洗う様子はクドカンのしこんだギャグ。熊が鍋にシメジきのこを入れるというシーンもちょっとクスッと笑い。

 

◯ラスト近く、東京に戻ってしまった晋作、冒頭シーンで気仙沼大島に掛かる大島大橋を車で市内に向かう百香とその大島大橋と重なるように隅田川永代橋が映し出されていた。そして永代橋のそばでロッドを振る晋作。その姿にはきらめく都会のイルミネーションの中で寂しさを感じる晋作の気持ちが見事に映し出されていた。

◯晋作に結婚を切り出されたのに受け入れられなかった百香。その百香も晋作に対する想いは断ち切れず続いている。もう一度会いたい、話をしたい。連絡を取りたい。戻ってきてほしい。もしもう一度同じことを言われたら・・・。そんな気持ちをぐっと心の中に閉じこめた百香が一人深夜にパソコンに向かい、掲載をやめていた空き家物件のサイトに晋作との思い出が残る自分の家を再登録をする。カチっとクリックして登録を完了させた百香の姿にも都会に戻った晋作と同じように寂しさが浮かんでいる。

ひょっとしたら晋作が気が付いてくれるかな。晋作に気が付いて欲しい。もしもう一度晋作が気が付いてくれたら・・・そんな切ない想いが百香の姿からひしひしと伝わってくる。(この辺も涙がウルウル)

 

そして場面は変わり、町長の挨拶の席で司会をしてる百香。その百香スマホに連続してメッセージの着信音が。百香の掲載した空き家物件に次々と問い合わせが着ている。(おそらくそれはたった一人からのものだろう)

 

最初はスマホを切ろうとした百香だが、スマホの電源は落とさない、会場にいる人からも「スマホを切って」と言われるけれど、百香スマホの電源を切ろうとはしなかった。なぜ? それはひょっとしたら晋作からの連絡が来るかもしれないという期待の心。

 

そのスマホに次々に映し出されるメッセージ。自分はこのシーンを観ていて、大スクリーンなのにスマホの画面に映し出される文字をちゃんと読み取れなかったのだけれど、文字全ては分からなかったけれど!ひとつだけはっきりと目に映った文字があった 6万円!という文字だけははっきり見えた!

 

きっと百香も立て続けに届くメッセーじに困惑はしたけれど、もしかしたら、ひょっとしたら晋作からのメッセージが来るかもしれない。そう思ってスマホをオフにはしなかった。

最初は空き家物件にどんどん問い合わせをして来る人が誰かは分からなかった。

けれど、たった一つの言葉、6万円!という文字を見た瞬間に百香はメッセージの送り主が誰かがはっきりとわかった。いてもたってもいられない百香は市長の会見を放り出して外へと駆け出す。もう自分の気持ちを抑えることができず、会場から飛び出して行く。

 

そして・・・

 

もうこのシーンはこの映画の中の最高の場面だった。(;_;)

 

クドカンらしいギャグやおもしろ映画ではなかったけれど、真面目にしっかり心を通じあわせていく、妙ちくりんな偽善の目で被災地や田舎を見ていない、そんなしっかりしたウルウル全開の素晴らしい映画であった。

 

昨日の鑑賞から一晩経って、なんだか少しずつだんだんと良かった場面が思い浮かんできてしまう。

 

久々にこのブログを書こうと思ったのも、素敵な素晴らしい作品に出会えたおかげだろうな。

 

*「屋根の上のバイオリン弾き」の劇中曲として超有名な名曲「サンライズ・サンセット」、この映画は「サンセット・サンライズ」。どうして作者はライズとセットをひっくり返したのだろうと思っていたけれど、「日は沈み、でも再びまた日は昇る」それがあの震災やコロナなどから再び立ち上がっていく人の心を応援する言葉として正しい順番になるんだな。「サンセット(日は沈む、あの震災やコロナで太陽が地平線に沈むように心も沈んでしまった)でも、もういちどサンライズ(太陽は必ず昇ってくる)」ということなんだな。

 

 

『すずめの戸締まり』最後の戸締まり、終映。再度観て感動がより大きくなった。

2022年11月11日に公開された「すずめの戸締まり」が、半年に及ぶロングラン上映を経て、2023年5月12日~27日の期間に「最後の戸締まり上映」と銘打った特別上映が行われるという。そして27日が終映。

 

もう一度観てみたいと思った。

 

一回目は予備知識なしで観て、311を描いた作品と知り震えるほど驚き、途中では目を閉じてしまう場面もあった。でも、ラストに向かって走り抜け語られる言葉に、大きく感動した。

 

今回の二回目は一回目よりも冷静にしっかりとスクリーンを見つめる事ができた。

改めて思う。この作品は後世に残り語り継がれていく傑出した映画になるだろう。

311を描いた映画、TVドラマ、作品の中で、この「すずめの戸締まり」が最もあの災害を語り、一番に悲しまれた人の心に寄り添う作品となるだろう。

二回目を観て、感動は更に大きくなった。

 

辛口批評で書いているブログだが、「すずめの戸締まり」に関しては、大甘の大甘で、

文句なし!最高に素晴らしい!と言っておこう。

 

PS

舞台あいさつで聞いたトリビア

鈴芽が震災で流されてしまった生まれ故郷の家の跡地に辿り着き、開いてしまった後ろ戸に鍵をかけて戸締まりをするラストシーン。

あの時の戸の鍵穴はツバメの形をしているのだとか。(鍵を回す方向もそれまでと逆だとか)

そして、鈴芽の母親の名前は椿芽(ツバメ)・・・

最後に「いってきます」と言って戸締まりをするあの戸は亡くなったお母さんへの思いでもあったのか。

監督は作品のなかにスクリーンで見たのでは気がつけない様々な思いを入れ込んでいる。

この映画は久しぶりにBDのソフトを買ってしっかり見たいと思った。

 

最終興行収入結果 公開198日間で動員1115万人、興収147.9億円

 

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『すずめの戸締まり』10年経って、今だから伝えられる鎮魂の思い。

全くこういう映画と想像していなかった。

新海誠監督とはいえ、なんとはなしに「天気の子」から続くような最近のパターン化した女子高生のチャラチャラ恋愛系アニメだろうと思っていた。
 
だからあまり観ようという気も起きなかった。
 
中学生が観に行ったよと言ったので、どうだった? と聞いたら「なんだか難しくて面白くなかった」という予想外の返事。
 
難しかった。。。? 
 
そしてはじめて知った。この映画が自分の持っていた先入観とはまったく違うものだということを。
 
よもやこれがあの大震災を描いた作品であるとは思いもしなかった。
 
そして固唾を飲み込むようにしてスクリーンに対峙した。
 
ここまであの震災を描いているとは思わなかった。
 
あの震災と津波火災の恐ろしさを無闇に強調するような表現はない。あの災害を目の当たりにし実際に経験した人への作者としての繊細な配慮が感じられる。
 
火災で町中が燃え上がっているシーンはあった。実写作品ではなくアニメーションであるから、ある程度あの災害の悲惨さは映像的に弱められているだろう。同じシーンを実写CGIで化していたらかなり厳しい映像になっていただろう。しかし、それでも随所に描かれるあの震災、あの津波災害、そしてあの大火災の場面は息を呑み歯を食いしばってしまうものだ。
 
「覚悟して観なければいけない」
 
実際に震災を体験した人の言葉だ。
 
 
 
基礎だけが残された家の跡。建物が何もなくなって広い野原になった場所。道を行き交う復興車両のダンプカー、建物の上に乗り上げた漁船。そう、それは震災から数カ月、数年経った頃の風景だ。ストーリーの流れから言っても、どちらかといえば震災と津波被害の後の姿を表わしているシーンが多い。
 
それが却って、なんとかして少しでも日常に戻ろうとしていたあの頃の気持ちを思い起こさせる。
 
土砂を積んだダンプカーが列をなして壊れた道路を走り、粉塵が舞い上がり、埃っぽくむせぶ毎日。そんな日々が何年も続いていた。いつになったら終わるんだろうと思っていた。
 
こんな作品とは思ってもいなかった。キツさもあった。でも、再び起こりうる災害の端緒を閉じていく、治めていくという話はこの災害大国に生きる日本人がいつも、ずっと祈り続けている、神様の御業に対する願い、神様への切なき祈りなのではないかと感じる。
 
文句なしに良い作品であった。心を揺さぶられる作品であった。
 
今この作品であの震災を描く新海誠の器量に打たれた。
 
「みんなもっと生きたかったんだ、もっと生きていたかったんだ」
 
すずめが最後に泣きながら話す言葉。

それは、当時は伝えられなかった言葉。伝えたくても、そう思っていても慰めや思いやり、優しさの言葉ですら心に打ち込まれる釘となるあの状況では言えなかった言葉。

あの大震災から11年が経って、多くの亡くなった命に、大切な人を失ってしまった残された人の心に、今だからこそ伝えられる、今だからこそ言える、言っておかなければならない言葉。
 
それを伝えたい。今はっきりと伝えたい。
 
この映画は、あの大震災でなくなった多くの命に対する鎮魂の作品なのだな。
 
長く語り続けられる貴重な日本映画だ。
 
 
 

 追記

君の名はのときは1年以上前にトレーラーが公開され、隕石が雲を突き破って落ちていく映像に衝撃を受け、公開を待ち遠しく思った。

続く「天気の子」も大ヒットした「君の名は」に続く作品として期待度が高かった。

しかし「すずめの戸締まり」は公開直前まで大きなプロモーションはなかった。だから、あれ新海作品がまた出るのかと知ったのは、ひと月ほど前だった。

--------ごちゃごちゃ ごたごた言う奴等が出てくる。

作品のテーマ、内容の重さから言って、この映画を事前にプロモーションするのは難しさがあったであろう。そもそもこういう題材をモチーフにしたものを商業ベースで儲けのために宣伝するということ自体が憚られる。(と思っていた)

恐らく作品が公開される前にあれやこれや言う輩が出てくるだろう。

それはそのまま作品の前評判に響く。(これもビジネスという意味でだが)そんなものを呼び込むくらいなら公開直前まで内容は伏せておいたほうがいい。君の名はのときのような周到なPR戦略を組まずとも、3年ぶりの新海誠の新作と言うだけで耳目は集まる。もう取り立てて特別なことをせずとも世の中は注目する。劇場に多くの人が足を運ぶであろう。
もう新海誠という名前はそれだけ充分な人を集める力を持っている。

だから、あえて公開に先行するプロモーションは行わなかった、行わないほうが宣伝戦略的に良かったということであろう。

そして、それはとても良い結果に結びついた。

内容の素晴らしさが口コミを呼び、この作品も興行収入100億を超え、全世界でも公開された。

控えたPRが最大級の効果を生む。その点でもこの作品は素晴らしい。



 

『ジャスティス リーグ (ザック スナイダー カット)』ラストが蛇足

2017年の劇場公開版からもう5年か。

 

4時間OVERの超長尺だけど楽しめたね。

 

それにしても劇場公開版とここまで違うとはなぁ。

 

撮影時にどれだけテイク重ねてたんだろ。撮影シーンを組み合わせたら5本位別バージョン出来るんじゃないのかね。それも全く別ストーリーで。

 

全体的にDCのシネマティックユニバースは失敗したという感じだが、この暗さだとそれもさもありなんという感じ。

 

それにしても、ラストシーンはなんだあれ。

せっかく気持ちよく終わった思った映画を最後にぐしゃぐしゃに握りつぶしてしまっている。

 

いかにも追加した感のあのラストがなければ良い映画だと思うのだが、あのラストのせいで全部台無し。

 

 

『007 ノータイム・トゥー・ダイ』どんどんちゃちいSFになってる。

スペクターのプロフェルドが監獄の中から眼球に仕組んだ装置で世界中のスペクターと交信し指示を出していたって。ありえん設定だ。

サフィンが作ったウィルスが特定のDNAだけ攻撃するナノロボットだ。ありえん設定だ。

遥か未来を描いたSF映画ならそういう設定を受け入れてもいいが、007シリーズは紛いなりにも現代が舞台。。。話が噛み合わないのだ。


プロフェルドにしろサフィンにしろ、どうやったらあんな巨大な巨悪組織を作れるってわけ? 007とMI6には国家の後ろ盾があるが、この二人にはそういう物ないでしょ。だからぜんぜん嘘っぽくて怖さが感じられない。

現実社会が舞台なのに余りに現実離れした脚本設定。それがこのところの007シリーズの大欠点。

まあそれでもそこそこの興行収入叩き出すんだから、大したもんだけど。

まともに観る映画じゃなくなってるな007シリーズは。

2009-01-13『007/カジノ・ロワイヤル』やはり凄い。最高級の映画を味える喜び。

2009/01/13『007/カジノ・ロワイヤル』(再見)

2008-04-19 『007/カジノ・ロワイヤル』 

2013/05/02 『007 スカイフォール』ダメダメ

『007スペクター』面白いが相変わらずのテキトー脚本。

ダニエル・クレイグの007は『カジノ・ロワイヤル』『慰めの報酬』までは良かったが『スカイフォール』で、余りにご都合主義の脚本に呆れてしまいもういいや、という気持ちになって次を観ようという気持ちが萎えていた。

それでもまあ、シリーズ物というのはやはり通しで観ておきたいなと言う気持ちが湧くもので、もう2015年の公開から7年も経つけど観てみることに。

冒頭の死者の祭りでの長回しは流石に凄い。

でも、その後の話の展開が。。。

まあ、もうネット上にはあれこれ批判も書かれているようなので、自分更に書く必要もなさそうだが、余りに酷い部分を一つだけ書かずにはいられない。

砂漠のクレーターにあるスペクターの基地、あんな大爆発させといて(ギネスにも登録された世界一の爆破シーンらしいが)なんでスペクターが生き延びてる? 死ぬでしょあの爆発なら。それがなんの説明もなくまたピョロンと出てくるってどうよ? 片目が負傷しただけで? あの爆発の中に居たら全身大やけどどころか黒焦げになってるというのが普通の感覚。

前作の『スカイフォール』でも超ご都合主義の展開があれこれあって興ざめしたが、今回もそれに続くいいかげん脚本だと思うな。

ボンドガールがボンドと懇ろになるのも余りに簡単、短絡的過ぎるし。

ツッコミどころが多すぎてもうなんと言うか。

そういう所をあまり気にせずに観れば、そこそこに楽しめはするんだが。

しかしなぁ、最近の映画、そのストーリー、脚本でいわゆる主人公や登場人物の動機というものがあまりに陳腐で噴飯してしまうようなものが多い。

今回のスペクターにしろ、父親が養子にしたボンドを自分より可愛がるからそれ嫉妬して逆恨みして。。。その結果が世界的犯罪組織なわけ? そんなのが世界の情報を掌握してMI6をも崩壊させようとする巨大犯罪の動機なわけ? そんなファザコンがなんで巨悪組織のボスになってるわけ? そのそもそもの話の設定が軽薄短小というしかない。だから、スペクターも恐ろしい相手という感じがしなくて「なんだこいつ」程度に思えてしまうのだな。

そういえば、シン・エバンゲリオンも人類補完計画だ、サードインパクトだ、ゼーレだネルフだとさんざん風呂敷を広げまくっておいて、結果はその元となったのは単なる碇ゲンドウの超稚拙なマザコン的わがままが事の発端だったというなんとも軽薄短小な種明かしでこれまで20年以上も引きずってきた話を収束させた。これも拍子抜けどころじゃなかったが。

まあ、あれもこれも、その程度の作品ということか。

映像の世紀バタフライ・エフェクト「ヒトラーvsチャップリン」

新しい映像の世紀 新シリーズであるバタフライ・エフェクト。なぜか映画をかなり取り上げている。

昨日の番組ではヒトラーチャップリンが題材となり、チャップリンの名作「独裁者」を元にして番組が構成されていた。

ロシアがウクライナに軍事進行している今の情勢で、この番組はかなり踏み込んだ内容であった。

チャップリンの言葉

「一人を殺せば殺人者。百万人を殺せば英雄になる」

「100年後、再び独裁者は現れるだろう」

100年を待たずしてプーチンという愚かな独裁者が現れた。

悍しき現実。

『トップガン マーヴェリック』これぞハリウッド、映画の王道を魅せしめる本物の一作

堂々たる映画の王道を突き進む、これぞ映画、これぞ本物のハリウッド、紛い物のない純粋無垢、これこそ正真正銘の映画だ!と自ら胸を張って観客に魅せつけてくるような、そんな映画だった。素晴らしい。

とにかく、この映画に関わっているスタッフとその技術、技量、全てが超一流。それこそ映画界の超一流、選りすぐられたトップ中のトップが集結して作られた映画!正に、この映画に関わる、この映画を作り上げた人々の集団こそがハリウッドの、映画界の《TOP GUN》なのだな。

練り上げられた脚本の素晴らしさは言うまでもない。緻密で精巧で寸分の狂いもないほどに計算された映画の設計図が素晴らしい。

しかも、余計な情報や伏線、今の脚本にありがちなお宝探し、なぞなぞのような狡い仕掛けはほとんどない。過去作へのオマージュ的なものがいくつか入っているが、それが本筋のストーリーを邪魔していない。濁していない。極めて抑制的に使われている。

そもそもそんなお宝探しは映画には必要ないのだ。映画は本筋のストーリーで勝負すれば良いのだ、ちゃちな小細工など邪魔だ。そう、そうあるべきなのだ。

2022年、1986年の第一作公開から36年という長い時間が流れた。平日昼の回なのに劇場には結構人が入っていた。驚いたことにその多くが、おそらくもう仕事も退職して年金生活をしているであろうなと思われる70歳を超えるような人たちだった。

この人たちが第一作のトップガンを観たのは30歳を越えた辺り。日本がバブルに向かう成長期にバリバリと仕事をし、週末に恋人や奥さんと銀座の映画館にトップガンを観に行っていたのだろう。その時を思い出しながら、もうめったに足を運ぶことのなくなった映画館に来たのだろう。そして映画館でもう一度あの青春の日の思い出を心の中に湧き上がらせていたのだろう。

劇場が明るくなったとき、外へと続く通路を、背筋を真っ直ぐにのばし歩いていく着飾った一人の女性が自分の前に居た。その人は白髪の初老の女性だった。
しっかりとした足取りで、胸を張って、とても満足気で誇らしげで、素敵な笑顔をしていた。

この年齢の女性が、一人で映画館に映画を観に来て、そして昔を思い出し若かったころを思い出して、心を生き生きとさせて帰っていける映画。36年ぶりの「トップガン マーヴェリック」はそういう映画でもあるのだな。

そして、36年前には生まれてもいなかった今の20代、30代の世代にも間違いなくこの映画は感動を与えている。

親がこの映画を観た年齢に育った子が、この映画に親と共に感動している。それを思うだけで、なんて素晴らしい映画なんだろうと涙が溢れてしまう。

ケニーロギンスの歌も36年前の曲なのにまったく古臭さがない。これっぽっちもだ。その辺が洋楽の凄さでもあるな。

戦闘機のシーンはもちろん凄いけれど、自分は映画冒頭の極超音速機でマッハ10を超えるシーンが最もよかった。カッコよすぎた。宇宙ではなく、地球の空をあの宇宙的な飛行機が超音速飛んでいくシーンが最高にカッコよかったな。

この冒頭の話の流れ、マッハ10の壁を破ること、超音速飛行機の計画が中止になるということ、これって「ザ・ライト スタッフ The Right Stff」へのオマージュかな。

ライトスタッフではアナログの速度計の針がガタガタ揺れながらマッハを超えるシーンが印象的だったがこの映画ではデジタル計になっている。最後にパラシュート脱出するシーンなんかもそっくり。

サムシェパードが演じるチャックイェーガーもカッコよかった。そのサムシェパードも今はもういない。天国でこの映画に拍手を送っているかも。

まあとにかくなんにしても、素晴らしい映画だった。

こんなに純粋に感動出来る映画も本当に久しぶりだ。

これは歴史に残る正真正銘の映画になるであろう。

PS. Lady GaGaの歌うテーマ曲も最高!

核基地の攻撃の仕方・・・なんか、まんまスターウォーズ EP1 のデス・スターアタックなんだけど。同様にハングマンのあの現れ方、あれってルークの乗ったXウイングが帝国軍のTIEファイターに照準を合わされ、もはこれまで、と思った瞬間に颯爽と現れるミレニアム・ファルコンに乗ったハンソロのあのシーンだな。ちょっとこの辺りはSWのいいとこ模倣しすぎでは? オマージュというレベルを超えちゃってる。パクリに近いんじゃない?




『シン・ウルトラマン』粗粗だけど、面白かった。驚きいっぱいの脚本に◎

どうかなぁ・・・と訝りながら観たが、面白かったね。

ウルトラマンという作品の素性もあるが、今までの庵野作品とちがって、絶望だとか破滅だとかなんかそういう系ではなく、夢や希望、温かさのある話になっていたのが嬉しい。

ウルトラマンが自己を犠牲にしてまでも地球の人々を助けてくれる。その自己犠牲の気持ちがグンと心に響く、それがウルトラマンの一番素晴らしいところであり、シン・ウルトラマンはそこを見落とすこと無く、しっかりと映画の真ん中に据えてくれた。だから自分はこの映画が好きだな。

よくもまぁ、こういう脚本を書き上げたものだ。

映画は何がなくても先ずは脚本。ダメな脚本ではどれだけ良い監督が撮ってもいい映画にはならない。良い脚本であればダメな監督が撮ってもそこそこいい映画になる。その典型とも言える。そして、脚本の次に大事なことはキャスティング。そこも定石を踏み外していない。

そして、TVシリーズの思い出深いところがあちこちに挿入されている。これもまた、庵野ならではといったところだろう。

業界に巣食うアホなプロデューサーなんかであれば、おそらく確実に「一番知名度が高くて人気があるのがバルタン星人なんだから絶対バルタン星人を使ってください」とか言うだろうな。

しかし、この映画でザラブ星人メフィラス星人なんていう、TVシリーズを詳しく観ていないと分からないマイナーな異星人を使うとはこれもまた庵野らしさであろう。この選択は素晴らしいとしか言いようがない。

TVシリーズを観ていなくても充分にこの映画は楽しめるだろう。でもやっぱりTVシリーズを知っている方が圧倒的に楽しさは倍化する。

昔、リアルタイムにTVでみていなかったとしても、ウルトラマンに憧れTVシリーズウルトラマンを観て感動した人が観たなら、シン・ウルトラマンは「おお!」「ああ、それそれ!」「ここでそれを使うのか!」とスクリーンを観ながら拳を握りしめて、悶絶するかも。

 

また、さらに良いのは、サウンドなのだな。TVシリーズウルトラマンで耳に残っているあれやこれやの、あの音たちが効果的にシーンに組みわされ挿入されている。音だけでも相当に楽しめる。(これも、知らなかったらなんとも思わないだろうなぁ)

それにしてもなぁ、まさか地球どころか太陽系までを破壊する最終兵器がゼットンとは・・・庵野脚本恐れ入る。そのゼットンの音が・・・やはりTVシリーズを知っていないとあそこで身震いはしまい。

ゾフィーがなんとなくゾフィーらしくない姿で登場。(名前はゾーフィーらしいが)それに恐れをなしてメフィラス星人が逃げる・・・どういうことだ? となったら、ゾフィーが地球を消滅させるという。ええ、どうしてゾフィーウルトラマンを救って地球を守ってくれる兄のような存在だったのでは? シンウルトラマンゾフィーは地球人にとっての敵になるのか? 悪役なのか? と恐れ驚くが・・・まあ、脚本はうまくまとめてくれていたな。

でもなぁ、最後はきっとTVシリーズのように、ゾフィーが2つある魂をウルトラマンに与えて生き返られせくれると思っていた。ずっと「そうなれよ」「そうなるはずだ」「そうならなきゃ」と祈りながらスクリーンを凝視していたが、その祈りは叶わなかった。こういう終わり方にするとは・・・。

 

なんだかんだ言って、今までの庵野作品とはちがって、夢や希望がある元気づけられるような映画であった。

それは何よりもウルトラマンの自己犠牲の気持ち。自分の命を捨ててまでも地球を守りたいという心。そこに涙するわけだ。

まあね、昔からウルトラマンシリーズを悪く言う人というのはほとんど周りにいなかった。ウルトラマンは究極の善だったのだ。(タロウあたりまでは)その基本はこの映画の中でも守られていた。それがまた嬉しくもある。

 

さてと、次の庵野作品は「シン・仮面ライダー」か。

なんだか、昔の憧れの特撮ヒーローや怪獣作品がどんどん庵野によって、庵野一人だけによってリブートされて行くのもちょっと癪に障るというか、腹立たしい。過去の名作が全部庵野で置き換えられてしまうじゃないか、という不満もあるのだが・・・。

 

それでもなぁ、おそらくかつてのTV SFシリーズのファン、怪獣映画のファンなどが、そう容易に口にはしないだろうけど・・・おそらく、おそらく、庵野作品のシン・シリーズを観ている多くの人はこう思っているのではないだろうか・・・いや、自分も強くそう思ってしまう。シン・ウルトラマを観終えた後も直ぐにその思いが頭に浮かんできた。

 

たぶん、皆が思っていることは・・・

 

庵野による・・・

 

伝説巨神イデオン」の復活!!

 

じゃないかなぁ・・・・。

 

 

 

『ぐらんぶる』ほんとに中身ゼロ、でも嫌いではないなぁこれ。

夏の海、夏の浜辺、夏の砂の感じ、そういったものが画面から感じられるな。

撮影場所の空気が良かったんだろう。

 

もうまったく中身のない映画。ラストも「なにこれ? なんでこれで終わるの?」という感じ。でも、画面のなかで不安とか悩みとか(はあるか)そういうものゼロパーフェクトで騒ぎまくる登場人物達には見ていて笑いがこみ上げてくる。

 

なんか、コロナだ、高齢化社会だ、消費税増税だ、となんでもかんでもお先が真っ暗に見えるようなこの時代。もう政治家どもと官僚どもは全員消滅させて、イチからガラガラポンとやらないとこの国はどうにもならないんじゃないかって気がする今。

こんなノーテンキな映画を見るとホッとするな。

 

80年代とかバブルの頃ってこんな感じだっただろう。そしてそんな雰囲気は二度とこの国に訪れないだろうし、そういう雰囲気をこれからの若者も味わえることはないのだろう。

まあ、そういう重いことを考えるのはヤメにして、ノーテンキな映画はノーテンキに観るのが1番であろう。

 

石川恋は綺麗なんだけど、どうも出る作品が良くない。そろそろ演技力をもっと磨いてシリアスな作品に出演してもらいたいな、1ファンとして。

『スターウォーズ9 / スカイウォーカーの夜明け』環は完結した。Circle is completed 収まるべき鞘に間違いなく正しく収まってくれた。

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20世紀フォックスを買収し、ルーカスフィルムを傘下に治めたディズニーが、抜いてしまったスターウォーズという剣、ディズニーにはその剣は扱えなかった。

スターウォーズを映画の1つの素材としてしか考えていなかったディズニーにはスターウォーズ愛する人、映画ファンの心は理解できなかった。

 

外資系ではよく断りの文句としてこんな言葉が使われる「あなたとはカルチャーが合わない」と。アップルのスティーブ・ジョブスなんかも相手を拒絶する常套句がこれだった。

 

そして、ディズニーとスターウォーズは見事なまでにカルチャーが合わなかった。

 

カルチャーの合わないものが巧くやれるはずがない。だがそのずれた溝をなんとか修正し、スターウォーズを本来あるべき場所に戻してくれた、一度抜いてしまった剣をしっかりと正しく本来あるべき鞘に戻してくれたのがJJエイブラハムであろう。

 

レイがライトセイバーを炎の中に投げ込もうとしたとき、ルークが現れて言う「ジェダイの武器にはもっと敬意を払うべきだ」と。これはそのままJJがライアンと『最後のジェダイ』に向けた慙愧の言葉だろう。

 

『最後のジェダイ』の冒頭からルークはレイの差し出したライトセイバーを放り投げてしまう、その後も気高きジェダイの騎士を否定してしまうような描写が繰り返される。『最後のジェダイ』が今にしてこれだけ批判を浴び続けているのは監督であるライアンが「ジェダイに対する敬意を持っていなかった」せいなのだ。だからあんな作品になってしまった。ライアンはスターウォーズを理解していなかった、映像的には素晴らしいものであったが「最後のジェダイ」はシリーズ中で最低の烙印を押される作品として残ってしまったのだ。

 

JJがこの作品を撮らなかったら、スターウォーズの物語は崩壊していたかもしれない。JJがこのエピソード9で崩れかけたスターウォーズをなんとか元の鞘にもどしてくれたのだ。

 

スターウォーズスターウォーズ愛する人の元に、ファンの元にもどってきた。これでいいんだ。斬新な展開、はっと驚くような新しいストーリーなどもういらない。「エピソード8/最後のジェダイ」でグサグサに壊されてしまったスターウォーズを最後に元の姿に修正してくれたのだ。

 

それが今回の「エピソード9/スカイウォーカーの夜明け」なのだ。

 

観終た時点で大きな感動はない、だけど「よかった、これでよかったんだな」という安堵感はあった。

 

ディズニーによる新三部作で迷走しかけたスターウォーズという物語が、1974年に始まった44年にも及ぶ1つのサーガがなんとか形を保ったまま終わってくれた。

 

それは正に『環は完結した。Circle is completed 』というEp4のダースベイダーの言葉なのだな。

 

I am your father.

そして

I’m Rey Skywalker.

ルーカスが創り出したスターウォーズの世界は完結した。

 

ディズニーはこの先、スカイウォーカー家の物語とは全く別のスターウォーズシリーズを計画しているという。しかもその監督がライアン・ジョンソンだという・・・止めてほしいなという気持ちだ。