『剣岳 点の記』

●あの日本映画史に残る大作であり、名作である『八甲田山』の撮影をした木村大作が70歳にして初めて監督を務め、しかもそれが北アルプス剣岳雄大な自然を舞台とした映画と聞いては観ないわけにはいかない。『八甲田山』の猛吹雪のシーン、本当の雪崩を初めて撮影したというシーン、ラストのあまりにも美しい八甲田山の紅葉。あの美しい映像が今度は剣岳という山を舞台にして撮影される。しかも原作は新田次郎。製作の話を聞いたときからこれは絶対に大きなスクリーンで堪能したい思っていた。

●スクリーンに映し出される絵は確かに美しい。特に紅葉のシーンは『八甲田山』のラストシーンをそのまま彷彿させるいかにも木村大作お得意の映像と言えるだろう。全体的に言えば雪のシーンが非常に多い。4月下旬か5月頃の剣岳ならばまだ残雪はたっぷり残り、ザラメ雪が降る可能性も確かにあるのだが、余りに雪の部分が多すぎると感じた。雪のシーンの方が自然の厳しさ、登山の辛さなどが出るとは言え、ここも『八甲田山』の雪のシーンにあまりにかぶさりすぎている感が無いでもない。雪崩のシーンは押し流されてくる雪の迫力に胸が苦しくなるほどに緊迫感、恐怖感が出ている。

●夕焼けのシーン、雲海に浮かぶ太陽など美しい映像は多々あったのだが、正直ハッと息を飲む程の凄まじい美しさは無かった。いや、これは期待が大きすぎ、要求が高すぎというものかもしれないが、木村大作が監督をする映画なのだから、本当のことを言うと今までに見たことのないような息が止まるほどの美しい山岳映像を見せて欲しいと思っていた。この映画の山の描写は十分以上の美しい映像なのだから普通に考えればこれでも素晴らしいのだが、木村大作剣岳ということで自分は余りに期待しすぎたかもしれない。

●自分としては青空の下に聳える剣岳の雄姿、八ッ峰の鋭い峻稜、青空と灰色の岩肌、そしてそこに映える緑のコントラスト、そういった晴れ渡った空の中にある剣岳、その周りの稜線の映像の方が美しく感じられた。あの澄んだ空気感、瞳の中に飛び込んでくるような空の青さ、緑の輝き、そういったもののほうが、この映画の中では雪よりも美しく映し出されていた。

●自分自信も剣岳には数回登り、真砂沢や長次郎谷、八ッ峰などをこの目で見ている。全て夏のシーズンであったが、あの別山乗越から見る剣岳、冷たい風が吹き上ってくる真砂沢雪渓を下り、長次郎谷から見上げた八ッ峰の雄々しいまでの勇姿が今でも鮮明に目に浮かぶ。その思い出と一緒にこの映画の映像を見ることが出来、あの美しさを大スクリーンで見ることが出来たことが嬉しい。映画そのものよりも、懐かしい風景に2時間20分もの間、陶酔していたという感じかもしれない。

●正直(これは残念なことだが)、ストーリーは非常に平坦で、さしたる抑揚も山場もなく、盛り上がりにも欠ける映画であったことは事実だ。大きな破綻はないものの、普通であればこのストーリーには途中で退屈し、つまらないと評していただろう。だが、自分は長尺にもかかわらず、映像を見ることに心を奪われていた。退屈さも感じず、いつの間にか2時間20分が過ぎてしまっていた。好きなタイプの映画というのはそういうものなのだろう。映画の完成度という点では及第点だと思うのだが、自分にとってはこれは心に残る一作である。

●気になる部分もあれこれあるにはある。松田龍平の演じる生田のしゃべり方は何故あんないつもどおりの現代人のしゃべり方をさせたのか?松田龍平自体演技は下手ではないし、表情も変化があっていいのだが、明治40年の時代設定であのしゃべり方はあるまい。木村監督はそこまで演技の指導をしなかったのか?それとも松田のわがままにスタッフが手を付けられずどうでもいいやと諦めたのか? この辺りのちょっとしたことで映画全体のクオリティーに大きな影響が出てしまう。生田が岩場で滑落するシーンも非常に危険で緊張する場面ではあるが、ハーネスもない時代に体にロープを巻きつけただけであれだけの滑落をし、空中にぶら下がったのでは骨の数本も砕け折れるであろう。その後さらにロープが切れて岩場に叩き付けられて雪渓に滑落するのだが、ヘルメットもないし、あれではほぼ確実に死んでいるなぁ。

●測量隊が長次郎谷の雪渓を登り詰め、ついに稜線に出、よし頂上まであと少しだ、というところで画面がストップし、次には剣岳の頂上に立っている測量隊の姿が映し出される・・・この編集にはひどくがっかりした。最大の見せ場をなんでこんなふうに端折ってしまったのだろう。

●出来たばかりの日本山岳会剣岳登山メンバーだが、いかにヨーロッパの先進的な登山技術を導入した山岳会の精鋭メンバーとはいえ、あんな格好で剣を登るのだろうか?この部分に関して(検証しているわけではないのだが)仲村トオル演じる日本山岳会のリーダーらがコートを着て雪渓を登り、テントに入り、岩場を登る・・・それはありえない気がする。古めかしい格好ではあるからそれほど大きな違和感を感じるわけではないが、山を登ったことのある人ならばあの格好では山岳登挙は無理だと分かるだろう。

●グリセードのシーンが何度か出てくるがこれは凄い。あのシーンは役者ではなく、よほどグリセードに熟達した山屋がやっているのだろう。スピードといい、滑走する雪渓の斜度といい、並大抵のものではない。驚くほど凄いシーンとなっていた。

●今回の映画では長次郎を演じる香川照之が最高のはまり役であろう。剣岳の麓で暮らし、山のガイドとして測量隊を案内するいかにもという山村の山男を見事に演じていた。演じるというよりも、香川照之の顔つき、体つき、髭の具合、目つき、全てがまさに長次郎そのものといった感じで、まるで長次郎が乗り移ったかのような雰囲気であった。これには驚くばかり。

日本陸軍の要職に付く少佐や中佐などの人物は、笹野高史國村隼田中要次などそうそうたる演技派の役者が固めていたのだが、なぜかこの映画の中でこれらの陸軍幹部の演技はまるで重厚な感じもなく、これで陸軍少将?中佐?と思えるような下手な演技だった。ストーリーへの関わり度も少ない。これは非常に不思議。

●初登頂かと思った山頂には修験者の残した錫杖が残されていた。初登頂ではないと分かった途端、陸軍上層部は登頂そのものを無かったこととしようなどと言う。世界には未踏峰などというものはもう残されていないが、登ってみたら先人の跡があったなどという話は国内外に割りと多くある。

●柴崎の妻、葉津よを演じる宮崎あおいは出色の出来。シーンは少ないのだが、香川照之に次いでこの映画のなかではいい演技をしていた。宮崎あおいの少々幼い顔つきもあるが、明治時代のいかにも清楚で、夫を見守り、夫を助け、夫を愛する純粋な女性というものを演じきっていた。純日本風の美しい和の繊細さと奥ゆかしさを醸し出す演技。これはなかなかであろう。篤姫を演じたときはその裏でだいぶ傲慢な態度だったという話も流れていたが、そんな雰囲気はこれっぽっちも感じられない、日本人なら男でも女でも、こんな女性は素晴らしいと憧れるような女性、それをしっかりと映画の中で表現していた。素晴らしい。

●音楽もクラシックを使い、美しい自然風景に実にマッチしている。

●雪渓を歩くシーンなど、地下足袋にわらじ、その上から4本爪の滑り止め、そしてただの木の棒のようなステッキをもち急な雪の上を登っている。もしこの状態で歩いている役者が滑って滑落でもしたら体を止めようもないだろうと、見ていて心配になり冷や冷やした。実際には下の方でネットでも張っているのかもしれないし、遠景で大きく映しているときは別の人間が登っているのかもしれないけれど、こんな大変なシーンを良くぞ撮影したものだと感心してしまう。

●荷物を背負って岩壁を攀じるシーンなども、本当によく撮影しているなぁと驚くばかり。遠方の山からの望遠撮影など、場面場面で「これを撮るのは相当に大変だっただろうなぁ」と溜息が漏れるばかりであった。

●確かに、映画としての中身、脚本、ストーリーには満足行くほどのものではない、だが、あの北アルプス剣岳を知り、剣を知らずとも山を知り、自然を愛する人にとっては、この映画はとても見ごたえと価値のある一作だといえよう。

●この映画を見終わったら、久しぶりに剣岳に登ってみたくなった。気が向いて直ぐに行けるような山ではないが、あの剣沢の朝焼け、モルゲンロートに染まる剣沢を囲む峰々、八ッ峰の峻峰群、真砂沢ロッジの朝、剣岳の鎖場、頂上から見るあの壮大が景観、ひんやりとした朝の空気、そういったものをもう一度感じたくなった。

●エンドクレジットは美しい剣岳の風景を映しながら、仲間たちと称して、役者、スタッフ、製作陣の名前までを全て名前だけ、役柄も、役職もなにも付けずに横に並べて流していた。仲間たちなのだから名前だけのプロデューサーも宣伝担当もそんなクレジットは要らない、みんなの名前だけがあればいいのだ!という監督の意思が感じられる。最近やたらと延々エンドクレジットが流れる映画が多い。確かに知り合い以外、大多数の人がそこに気をとめないとしてもクレジットに名前が出るということは映画に関わった人間としては仄かな嬉しさもある。しかし、ちょっと最近は並べすぎという気がしないでもなかった。ルーカスがはじめたエンドクレジットの名前表記だが、もうどんなものかとも思う。パンフレットなどのきちんと載っているのなら、だらだらと文字を画面に流すのは映画そのものの余韻を崩し興ざめすると思うようになってきている。

●宣伝PRは結構派手に行われていたが、公開前のネット上での映画批評がほとんど封じられていた模様。ヤフーは特定個人のレビューではないから別だが、ウェブ上の映画批評家サイトには公開直前まで全く批評が出ていない。久しくなかったが、これは戒厳令が敷かれたのかも?笑 それとも監督が「批評家なんぞ試写会に呼ぶ必要は無い」とでも豪語してあまたの批評家を試写会に呼ばなかったのか?

7/1追記 雑誌「山と渓谷」2009.6 大特集 剣岳新田次郎を読んだ。 映画雑誌ではなく、山の雑誌がこの映画と剣岳を特集しており、これは映画雑誌の記事よりも面白い。山小屋やガイドの思い出話しがまた凄い。監督が五色ヶ原の撮影を終えた後、ラーメンが食いたいと天狗平山荘まで5時間掛けて歩いていった。スタッフも総勢30人が急遽天狗平山荘に泊まるとなって、大慌てしたとか、同じく監督がすき焼きを食いたいと言い出して肉を買いに行ったとか。一週間泊まる予定が急遽下山したとか。ガイドや山荘関係者は剣での撮影を皆反対したらしい。スタッフ5人にガイド1人という体制でフォローしたり、一般登山客とは違う、我が儘な撮影隊にきっと剣の山荘関係者は並々ならぬ苦労をしたのだろうけれど、それも良い思い出として語っているようだ。木村監督がニンジンが食えないのでカレーから取り除いたり、我が儘の極みだったようだが、山荘関係者はその我が儘を次はどんなことが出てくるかと楽しんでしまったとか。俳優も個室にせず一般客と同じ部屋に雑魚寝していたり、登山客が浅野忠信が来てるらしいと話している脇で浅野が草鞋を履いていたけれど、髭ボウボウで気が付かなかっただとか。きっとこの映画スタッフは苦労もあったけれど2年間撮影期間で沢山の山の思い出を作ったのだろう。羨ましい限りだ。

●2010/1/11 映画『八甲田山』リンク(http://www.h7.dion.ne.jp/~wakana-s/whiteout_movie_topic.html) 木村大作のフジテレビ・イベントでのインタビューなどが面白い!