『終戦のエンペラー』

・作中のセリフにもあったが、天皇を扱うというのはなんにせよ“センシティブ”な部分を孕む。日本においては否応なく、外国からしても若干の差はあれど同じだ。アラーを映画でも文章でも外国人が描くとこれまで様々な問題が起きてきた。イスラム教徒にとって異教徒が自分たちの神であるアラーを軽率に扱うことはそのまま自分たちと自分たちの宗教、文化を冒涜する扱いとみなされる。

・取り上げた物語の主題に対して、本質に対してどれだけ踏み込むか、踏み込めるか、どれだけ考えを及ばせることができるか、どれだけの深みまで手を伸ばせるか、思考をめぐらせることができるか、物語のなかでどれだけその主題を追求できるか、深く掘り下げ観る側に訴えるものを作ることができるか、それがないのなら映画は取り上げた主題の表面を舐めるだけであり、その主題は物語の具材にしかならない。料理の上に乗っている具材でしかない。

・この映画は“終戦”“降伏”“占領”“マッカーサー”“占領軍”“日本”“軍部”“政治”そして“天皇”という非常に“センシティブ”つまり微妙で敏感で一挙手一投足に非常に慎重さを求められる“問題”を取り上げ,"EMPEROR 天皇" という日本において最もセンシティブな物事をタイトルに掲げ、主題としながらも、そこに深く踏み込むことは避けている。そこに関わる様々な要素もただ並べただけに過ぎずなんら主題に対して深入りしようとはしていない。いや、しなかったのだ。

・主題として"天皇”を取り上げながらも、そこに踏み込めば踏み込むほど状況は更にセンシティブになり、深入りすることは映画としての表現の難しさや説明の困難さ、そして踏み込んだことによる様々な影響が危惧された。だから主題に足を踏み込み、深入りすることは止めたのだ。やめてしまって具材だけを並べ、なんらの意見を述べることもなく、主義主張を面に出すこともせず、ただの"物語"として抑えてしまったのだ。

・即時的な楽しみを目的とする娯楽映画であるならばそれでもいい。面白そうなストーリーだけあればソレでいい。だが、この作品はそういった娯楽作品ではないはずだ、そういった娯楽を志向して撮られたものではないはずだ、ハリウッドのエンターテイメント作品として作ったものではないはずだ。終戦と占領軍、日本の天皇を主題として選んだ時点で作品の本質はエンターテイメントではないものとなる、成らざるをえない。

・だから本当はもっと天皇という腫れ物のような事柄について語り、それを評することが禁忌されている日本にとっても、そこに関わった国にとってもセンシティブな事柄に真正面から向かい、取り組み、日本の終戦アメリカの占領軍の統治に関してもなんらかの意見、主張を示すべきであり、示さなければならなかった。しかし、それは避けられた。回避され、なんでもない表面的なエピソードの羅列。歴史の上辺だけをなぞるだけの内容に落ち着けてしまったのだ。

・そして映画は意義、主張を持つこともなく、薄っぺらな中途半端な作品になってしまった。それは製作サイドの《天皇に触れることへの恐れ、恐怖、そこから生まれる様々な危惧されるべき事態を恐れ、それを受け入れそれに対処することを避けるため》の気持ちが生み出したものだろう。

・娯楽、エンターテイメントには成り得ない題材を映画の主題として選択したが、その主題に踏み込むことを躊躇い、その主題を論ずることを躊躇い、その主題に深く関わることを躊躇し、その主題に作者の側の意見や主張、判断をすることの一切を避けた・・・いや、観終えた感想からすれば、これは逃げたんだろうなというべきかもしれない。

・こんな"天皇”EMPERORという題を掲げながらも、そこの踏み込めないばかりか、終戦や占領軍、天皇という題材の表面的なつなぎだけでは映画としての話を構築できないと見たのか、随分と白々しい悲恋物語を映画に組み込みラブストーリーとしても客を惹きつけようとしたのだろう。しかしそれがより一層作品の中身を中途半端なものに押し下げ、なにがエンペラーなのだと言いたくなるような話になってしまっている。

・そして最終的には天皇や占領軍、マッカーサーよりも、ラブストーリーに話の中心が寄ってしまっている。これでは第二次大戦終戦時の天皇マッカーサーの話と思って観に来たら、まるで《第二次大戦の中、アメリカと日本の間で生き、恋をし、戦争によって引き裂かれた悲恋の女性、彩音》なんて題のほうが内容には合っているのではないかと思える程だ。

・社会派や歴史映画という方向には進まず、話をふくらませるために戦う二国の間で生まれた恋という挿話をいれたため元々の主題からは話の中心が離れてしまい、結局はどっちつかずの状況で中途半端に何を描こうとしたのかさえボヤけたまま仕上げられてしまった映画、そう言うしかないだろう。

・プロデューサーでもある奈良橋陽子のキャスティングは流石だった。マッカーサーを演じたトミー・リー・ジョーンズは少し違和感を感じたが、日本側の配役は見事だ。アヤを演じた初音映莉子は印象深い。桃井かおりはこんなチョイ役かとすこし残念。

・やたらと日本の知識人(と称する連中)に多い、アホでマヌケでくだらない反日的自虐感はこの映画の中にはない。そういったものはほとんど感じられない。逆にアメリカをやたら褒めたり、軍部を揶揄するようなシーンもない。そういった点ではこの作品はどっちかに偏向するわけではなく日本人の描き方もアメリカ人の描き方も皇族や天皇の描き方も極めて中立的であり、妙な色眼鏡はかけていない。そこは好まれる。

ポツダム宣言を"降伏"といい、今の義務教育で間違っておしえられている"無条件降伏"という言葉を使わなかった点も◎

・いきなり出だしであの捏造、偽造と証明されている南京虐殺に関する日本兵が中国人の首を日本刀で切ろうとしている写真が出てきたのは驚いた。GHQ本部に貼ってあったその写真を「そんなものは剥がせ!」と言って剥がす場面を映画の頭に入れるというのは、ちょっとあざとらしさを感じたのだが、これは南京虐殺をやたら史実として認めさせ日本を落とし込めようとしている中国人やらそのロビー活動に洗脳されているアメリカの議員などに対する嫌味だろうか?

終戦間際の玉音放送と軍部クーデター、その当時の様子を如実に描いているという点で橋本忍の『日本のいちばん長い日』と比べてみれば映画作りの姿勢の違いというものが明白に分かる。問題作でもありあまり取り上げられることもない作品だが『日本のいちばん長い日』を観れば映画の在り方の違いというものが際立って見える。☆2008-04-03 『日本のいちばん長い日』狂気と暴走の歴史が映像に再現される。

・この手の戦争、軍隊、天皇などといったテーマの映画が出てくると、必ずキチガイじみた自虐史観を頭に埋め込まれ洗脳されたような人間や団体が上映禁止運動や、映画にたいする非難などを公然と始めるのが日本の常だったが、この映画ではそういった話がとんと聞こえてこない。日本映画で戦争を描くと「間違っている、訂正しろ!」と喚き立てる狂人とおぼしき日本人や中国人、韓国人などがハリウッド映画なら何も言わない・・・いかにも見え透いた浅はかな思想や意思のない、ただ単に日本を非難して自分を満足させたい連中がうようよしているのだと呆れ返る。

・それでも、この時代、このような内容を扱った映画としてはまあまとも。それも日本人がプロデューサーをしているおかげか。外人がこの手の日本を描いた映画は最低レベルのものばかり。

・原作 岡本嗣郎「陛下をお救いなさいまし」(集英社

関連
上映時にとにかく批判、上映禁止などの攻撃を受けた良作
「プライド 運命の時」
「明日への遺言」

外国人が日本を描いた愚作
2010-05-16 『靖国 YASUKUNI』終戦記念日の靖国神社がこんなだったとは
2008-07-17 『太陽 The Sun 』これは一体何を描こうとしたのだろうか?
2009-07-08 『TOKKO −特攻−』なぜか、強く響いてこない