『ノーボーイズ、ノークライ』

・出だしから中盤までよく分からぬ話がずるずると続く・・・非常にかったるい、まだるっこしい。ときめきも驚きもない。蒸し暑い空気のなかでぐだりとしただ漫然と宙を見ているかのような感じだ。ときめかない、わくわくしない、面白くない、なんだこれは?

・どろどろとした人間関係、社会の底辺で這いつくばり這い回っているような人間の様子。ときめかない、わくわくしない、面白くない、つまらない?

韓国映画、香港、中国映画特有である最底辺でこびへつらに頭を下げながら他人に使われ生きていく人間、その人間関係のどろどろ感、人間関係だけじゃなく、人間の醜悪な部分、人を騙し、蔑み、利用し、自分だけ得を得るといったような嫌〜な人間を必ず話の中に入れる。それが定型化している。韓国、香港、中国辺りの映画にはこういったものが非常に多い。恋愛映画とかコメディー映画でもそういった人間や背景が出てくる。これはもう社会の中で身近にこういう状況、状態、人間が日常性として定着してしまっているからなんだろう。

・ああ、いかにも韓国映画だな、韓国人監督の作品だな、この映画背景、人物描写、設定は・・・と思っていたら、脚本は渡辺あやか。そう思って振り返れば、今まで観た渡辺あや脚本の作品は自分の好みではないものばかりだった。
ジョゼと虎と魚たち」(2003年)
約三十の嘘」(2004年) - 土田英生大谷健太郎との共同脚本
メゾン・ド・ヒミコ」(2005年)
天然コケッコー」(2007年)

・「ジョゼと虎と魚たち」はなかなかであったが、これも厳しい状況で生きていく女の話だった。その他の作品もどれもこれもここでは酷評している。ようするに渡辺あやの描き出す話、その状況というのが自分とは明らかに相性が悪い、それはもう好みの問題なんだからどうこう説明するものではなく、ようするに嫌いなのだ、この手の作品は・・・。

・こういう汚くて、ズルくて、卑怯で陰湿な人間が何らかの力をもっていて(大概非合法)、それに媚びへつらうことでしか生きていけない人間が出てきてあれこれやってるような映画、日本の近隣国のによく見られるこの手の映画は・・・見ていて実に気分が悪くなるので、大嫌いです! 

渡辺あやという脚本家のには韓国や中国や香港の映画に漂っているものと同じものが流れているのだろうか、そういう体験や深層心理が定着しているのだろうか? いずれにせよ、嫌な映画である。

・ひょっとしたら日本向けに話を作ったのではなく、韓国向けにあちらの映画の傾向にあわせてこういう暗い話をつくったのかとも思ったのだが、過去の作品傾向も似たような暗さを抱えてるものばかりだし、脚本家の根っこにこういう暗さや救われない悲惨さが根ざしているということなんだろうか。

・最後に少し希望の種を落としておくというのは、あまりに絶望的で暗い話にたいする脚本家の希望であり心の慰めであり、でもなんとかしたいという諦めの中の切望なんだろうか?

・まあなんにしても、男の友情だとか、仲間だとか家族の愛だとかをあらわしたいのだろうが、それがほんとうに途切れそうに細くもろく風に漂う蜘蛛の糸のようなもになっている。そういう最後の最後の一本の細い糸で繋がった人間を描こうとしているのだろうか、人間はそのくらいの細い糸にもしがみついて生きてかなきゃならないんだっていう悲しみを描こうとしているのだろうか。まあ、拡大解釈すればなんとでもなるが、でもこういう映画は全く好きにはなれない。

・映画を見終えて思うことは・・・悲しいね、寂しいね、虚しいね・・・ってこと? で、結局なんなのだ。そういうものをどろどろと描いてきて、最後のほんのちょっと「でも希望もある」ってしめられても、はあそうですかとしか言いようがない。やだね、こういう映画は。

作品レビューというより、脚本の渡辺あやに関する記述
http://www.cinra.net/column/noboys.php