『生きる』(1952)

黒澤明監督作品の中でも名作と評判が高く、志村喬がコートを着て独り寂しくブランコに乗っているシーンがあまりにも有名な作品であるが、自分はこの作品を余り好きにはなれないし、名作だという評にも部分的には納得すれど、作品トータルとして考えると、私はこの作品を名作だとは思えないのである。

●死期がはっきりと分かった人間の姿を映画の中で描く、あと数カ月しか生きられない男の姿を、その男が残りの人生をどう生きるかを描く・・・・映画のアイディアとしてその着眼点は今から半世紀も前の作品として鋭いとは思うが、自分はこの映画がひどく詰まらないのだ。話が矮小なのだ。映画の中で展開されるストーリーがあまりに狭く小さすぎるのだ、死を目前にした一人の男を描いてスケール感が出るわけもない、だがそれ以上にこの作品が目をつけ批判し、ジクジクと描いていることがあまりにしみったれている。そしてその表現もおぞましいほどにステレオタイプであり、なんだこれは? と言いたくなる程ありきたりにしか思えない、見えない。これが黒澤作品なのか? と疑問を感じるほどだ。

●ひょっとしたら自分がこれまで観てきた映画やドラマがこの『生きる』をもとにしているようなものが多すぎるから、今見るこの映画が陳腐化してしまっているのかもしれない。だが、どんなに真似をされても『七人の侍』や『隠し砦の三悪人』は何度観ても面白く、何度観ても興奮し、古臭さなど感じさせない。やはり『生きる』という映画はとは全くもって異なる。

●脚本家橋本忍の著書『複眼の映像』の中に一章を割いて「生きる」の脚本が出来るまでの過程がつぶさに書かれている。黒澤明、小國英雄、橋本忍がどういう風に出会い、どういう風にこの脚本を作っていったかが。共同脚本の手法、人物の掘下げ方などこの章に書かれていることは非常に面白く為にもなるものなのだが、「生きる」という映画の主人公、市役所の課長渡辺勘治の人物像を作り上げていく過程は、この章を読んでいても余りに狙い過ぎているというべきか、最初からこんな風にと自分たちが形作った人物に都合を合わせていくような脚本の書き方に思えて仕方がない。脚本執筆における先読みを極端に嫌ったという黒澤明のスタイルとも異なる。それもあって、映画を観る前からこの作品は果たしてどうなのだろうという疑念が自分の中に出来ていた。

●自分はこの「生きる」という作品に非常にあざとらしさをありありと感じてしまう。非常にわざとらしいあざとさだ。それは作品のこのストーリーを脚本を書いた人々の観客をこういうふうに引っ張ろう、観客にこういう風に思わせよう、そんないやらしさとも感じられるのだ。

●体調の悪さで病院に行った渡辺勘治が待合室で聞く話「こういう風に医者に言われたらそれはもう手遅れだってことですよ・・・」と聞かされ、実際に医者に同じことを言わせるくだり。これはもうギャグでもやっているのではないかと思えるシーンだ。市民課に陳情に来たおかみさんたちを各部署がたらい回しにするくだり。観ていて溜息が出てしまう。まったくもって黴臭いギャグネタだ。お役所の体質を皮肉っぽくあらわそうとしているのだろうが、まるで夜やっている漫才コンビのお笑い演劇のようだ。

●一人だけ役所の中で威勢のいい小田切とよの存在も不自然さを拭えない。その自由な姿にあこがれるという渡辺の動機も「なんだそのせせこましさは」と思えてしまう。貯金を下ろし、バーで知り合った男と歓楽街をさまよう姿もみみっちさを感じさせる。ダンスホールのようなところで踊っている女性、この踊りのおぞましいほどのみっともなさ。なんだこの踊りは、どういう振り付けなのだと目を背けたくなる。時代性というのもあるだろうが、あまりに酷い、醜い。

●渡辺の通夜に集まった役所の同僚たちがののしり合いながらも役所の悪口をいい、しまいには意気消沈する姿。公園で一人ぶらんこに乗る渡辺を見たという警官の話、最後に「私たちにも焼香させてください」とやってくるおかみさんたち。なんたるあざとらしさの積み重ねでこの作品は出来上がっているのだろう。いや半世紀も前の作品なのだから、今の時代とは違うのだからこういったいかにもといった表現も致し方なしとすべきかもしれない。だが、たとえば小津安二郎の作品でこういった表現がされていてもそこにいやらしさやあざとらしさはさして感じない。昔はこんなだったのだろうなぁと感慨深く観ることとなる。それがこの『生きる』においては画面に表現される演技、セリフ、演出がとても引っ掛かるのだ、ちりちりとい辛っぽく、鼻につくのだ。

●なぜだろうかと考えてみた。三人の脚本家は自分たちの持っているお役所への不満や不平を映画のストーリーの中で登場人物に代弁させているのだ、それが適度なら許せる、しかしこの映画ではあまりに顕著にさせすぎているのだ。万人が見る映画なのだからもう少し伏せておけと言いたくなるくらい、あまりに明け透けに自分たちのぶつくさを役者にしゃべらせている。役者の演技やストーリーの裏側に、この映画を作った人間のぶつくさが、ぶつぶつぐちぐちと酒でも飲みながら言い散らしている不平不満が、その顔が透けて見えるのだ。

●箱根の宿に集まった、黒澤、小國、橋本の三人が共同脚本で書き上げたこの作品は、あと数カ月しか生きられない男の残った人生の生き方にもっともっと焦点を絞り込み、もっともっとその生き方を、感情を深堀すべきであったのに、三人の脚本家がお遊び感覚で、今風にいえば「上から目線」で「こうしたら客は面白がるはずさ、客は喜ぶはずさ」とお役所や役所の人間のどうしょうもなさ、ちっぽけさ、くだらなさを作品の中に混ぜて、こね合わせたために、出来上がった作品は矮小で卑小なことをじくじくと語っているような作品になってしまっている。

●名作と称される「生きる」だが、自分はこの作品を観終えて「こんな役人がどうだとか、役所はどうだとかそんなことをうだうだ映画で語っているな、黒澤ならもっとスケールの大きな爽快な作品を撮れ、作れ」思わず言いたくなってしまう。

●この作品の中で唯一特筆すべき部分があるとすれば、それは志村喬の演技力だ。

●家に帰った渡辺の息子夫婦が2階の部屋に上がり、明かりをつけると、暗がりの中に頭をたれて座っている渡辺勘治が浮かび上がる。このときの目の辺りだけが白く光っているような異様な姿などドキリとするほど不気味だ。自分の余命が幾ばくもないということを知り、家に帰り2階の息子夫婦の部屋で絶望に耐えている姿が痛烈に伝わってくる。自分のこれまでの人生を悔い、悲しさや憂いをたたえるその目つき、体全体の仕草、そこから漂ってくる寂寥感、志村喬の演技だけは、これは巧いなと唸るものだし、その演技を仕向け、フィルムに収めたのは流石黒澤明というべき映画技術の高さなのだが、だが、それ以外は・・・・正直この映画には落胆してしまった。

黒澤明には器の小さな作品は似合わない、黒澤明には妙に社会性を持った映画や説教じみたことを言う映画は似合わない。そんなものが入ってくると黒澤作品はとたんに詰まらなくなる。黒澤明に似あうのは『七人の侍』であり『隠し砦の三悪人』や『用心棒』『椿三十郎』などのような痛快無比の生き生きとしたエンターテイメント作品なのだ。それこそが映画監督としての黒澤明が自由闊達にのびのびと才能を輝かせる場なのだ。

●前出の橋本忍著『複眼の映像』には以下のような記述がある。そして自分は正にその通りだと思った。

 『複眼の映像』P.225:橋本忍が「先を見据える頭脳明晰な先見性の鋭い監督」と評する野村芳太郎に訊ねた。

「黒澤さんにとって私、橋本忍ははいったいなんだったのでしょう」と。この問に対し野村芳太郎が答えたという。

                                                                                                                              • -

「黒澤さんにとって、橋本忍は会ってはいけない男だったんです。」

「そんな男に会い、『羅生門』なんて映画をとり、外国でそれが戦後初めての賞などを取ったりしたから……映画にとって無縁な、思想とか哲学社会性まで作品に持ち込むことになりどれもこれも妙に構え、重い、しんどいものになってしまったんです」

「(『羅生門』『生きる』『七人の侍」)それらがなくても、黒澤さんは世界の黒澤に、現在のような虚名に近いクロサワではなく、もっとリアルで現実的な巨匠のクロサワになっています。」

「彼の映画感覚は世界的なレベルを越えており、その上、自己の作品をさらに飛躍させる、際限もなく強いエネルギッシュなものに溢れている。だから、夾雑物……いいですか、よけいな夾雑物がなく、純粋に……純粋にですよ、映画の面白さのみを追及していけば、彼はビリー・ワイルダーにウイリアム・ワイラーを足し、二で割ったような監督になったはずです。」

                                                                                                                      • -

橋本忍が記した本で、野村芳太郎橋本忍黒澤明を鋭く評している。そして、自分もその考えに共感する。

余計な夾雑物がなく、純粋に映画の面白みのみを追及していけば・・・・・・・黒澤明はもっともっと至上に面白く感動する作品を作りだしていたのではないかと思うのだ。

『生きる』という作品は、敢えて野村芳太郎の言葉を借りれば、余計な夾雑物が溢れ返ってべたべたと汚く貼り付けられている。そして似たような夾雑物は『天国と地獄』にも『赤ひげ』にも、晩年の作品にも目に余るほど貼り付けられている。

黒澤作品は純粋に映画の面白みを追及するエンターテイメントの神髄をまっすぐに磨き上げ続ければ良かったと思う。

『生きる』という作品は、その意味でも野村芳太郎の言葉を借りるまでもなく、黒澤明が間違った方向に針路を向けてしまった作品ではないだろうか。そしてその船を一緒に動かしていたのは、小國英雄であり、橋本忍であったのだ。