「ブラック・スワン』(2011)

・作品の質が極めて高い。部分的にもそうだが総合的に高水準。映画は総合芸術などと言われることもあるが、この作品はそれに値する。近年のアメリカ映画ではこういった高水準の映画は極めて稀だ。それは映画が金儲けビジネスの手段となり、映画をコントロールするプロデューサーやスタジオの役員などの目が、作品の質よりも如何に観客を動員できるか、如何に興収を上げるか、いかに利益を上げるかにのみ注がれているからに他ならない。短期的な利益を上げ、株主や投資家の金銭欲求に応えなければ即座に首を切られる。そんな状況に合わせるためにマーケティングもキャスティングもスクリプトも大衆の嗜好になるべく沢山迎合するようなものになる。最大公約数で最大利益をもたらすべく動く。だがそういった観客に媚を売り、観客を見下し、多数に迎合しつつ観客の懐から金を引き出そうという作品はどんなマーケティングをしどんな迎合的演出をしても、結局はそれを見透かされ逆に観客からそっぽを向かれる。昨今の洋画そして邦画にはまったくもってそういった傾向の作品が多い。だから最近は質の高い映画というのがまったくもって少ない、殆ど無い。あるのかもしれないがそういったものは公開規模が小さいし認知度も少なく、広く多くの人が観ることが出来る状況にはない。そんな現状の映画産業の中でもこういった質の高い映画がでてくるのだからハリウッドにはまだ救いがある。それが日本はどうだろう?市場原理主義自由経済主義、利益優先主義、効率優先主義などといったアメリカから覆い被せられた強欲資本主義の悪しき部分のみをへいへいと崇め受け取り儲けのことしか考えない映画作り、プロデューサー、製作会社が大手を振って歩いている。しかしそういった作品の多くは作りのあざとさを見透かされ、うんざりされ、白眼視され、観客に受けるマーケティングや観客を引き込む広告戦略に便乗したような作品は却って観客の足を遠ざけさせ、観客の蔑みを受けている。そしていつまでたってのその愚に気が付かない。

・ハリウッドで「ブラック・スワン」のような高品位の優れた”映画”がたとえたまにであっても出てくるというのは、やはり世界の映画産業の中心地であり金儲け主義の低級なマーケティングの産物的映画が9割であったとしてもまだ残り1割の良質な映画を作る力と余力があるということだ。それがあるからまだハリウッドの希望は消えていない。しかしそれに対して邦画の世界はどうか、元々の市場の狭さ、世界規模の公開には持っていけない作品。監督や製作スタッフの労働環境、報酬の悪さ。安定の無さ。閉塞的で大手支配が行き渡っている業界。少しでも余裕があれば迎合マーケティングに拠らない良作を生み出すことも出来るのだがその余裕はない。取り上げれば切りがないほど今の邦画の状況は”素晴らしい映画”を作ることに真逆な動きばかり。

・今の日本で、この「ブラック・スワン」のような”映画らしき映画”、”映画としての本質を踏み固め、高めた映画”、”映画としてあるべき姿を追及した映画”、”本来の映画たるべき映画”、”崇高で気高く、映画であるべき誇りを持った映画”、”映画としての純粋な資質を輝かせている映画”は作りようもないことなのか。

・これだけの見事な映画を観ると、この映画の素晴らしさを味わった余韻のなかで「今の日本映画ではこういった映画は出来ないのだろう」と肩を落とし溜め息をついた。

・脚本、台詞、美術、撮影、照明、カメラワーク、美術、CGI技術、構成、編集、キャスティング、役者の演技力、監督の演出力、表現力、そいったものを全て統率しその質を高め、その全てを上級の部位としてまとめあげ更に高みにもちあげ一本の高品質な映画に作り上げた監督の技を称賛する。

・これぞ映画、これこそ映画らしき、映画としての映画。見事な芸術作品だ。

ナタリー・ポートマンの自慰シーンはエロスというより美しい。体のラインやベッドの周りの部屋の装飾なども影響しているだろうが、下着姿のヒップラインなど女性の体として美しい。歳もあって多少肌は荒れているが。自慰シーンの時間も短いのでエロチックな興奮までは辿り着かない。いやその映像的美しさがスケベな気持ちを帳消しにしてしまうのだ。

・妖精のようだったウィノナ・ライダーが落ちぶれ捨てられ自殺する女を演じているのは少々ショックキング。実生活でも堕してしまった自分自身をそのままに演じているとしても、この役を受けるというのは女優の反面的な意地でもあるのだろう。

・日本的に言えば有名女優の汚れ役、大胆な濡れ場、うんぬんかんぬんとなるのだが、この映画にはエロチックさとか官能は感じられない。この映画の持っている精神的な部分がエロに堕ちていない。そういう下半身趣味、スケベ趣味ではなく、映画の格や品がどんな場面でも下品に堕ちていないのだ。客の目をひくための道具に、作品の下賎なプロモーションの道具になっていない、されていない。

・すべてが作品の質の為に費やされた必要な作品の要素として生きている。

ナタリー・ポートマンの演技は称賛に値するほど素晴らしい。この作品の中の女性と同じく、ナタリー・ポートマン自信もこの映画での演技によって女優としてのあらたな境地にたっしたのではないだろうか。その表情の変化、不安をあらわす目、口、頬・・・これほどの演技力があるとは驚きだ。もうこうなると演技が演技と感じられなくなる。

・女性の表情、その心理描写、精神錯乱に陥っていく過程など映画の表現手法としてこの作品には学ぶべきものも多い。演出を学ぶ者にとっての教科書的存在にもなりえる。

・久々に映画らしい、映画のあるべき姿である映画を観たというかんじである。

・最後にやはり触れておかなければいけないのが、この映画と今敏パーフェクト・ブルー」の類似性という点。この件はあちこちに書かれているしアメリカでも話題になっているということなので、作品がこれだけいいものであるだけに残念で悲しくもある。
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20101209

・オリジナルの製作者である今敏に対してキチンとした敬意を払い「あの素晴らしい映像をお借しました」と一言言えば遥かに高い尊敬をこの監督は受けられたものを、パーフェクト・ブルーのリメイク権まで取得してうり二つのシーンやプロットを使いながら「関係ない」と言っている。そういう点が人間として、監督として、芸術家、クリエイターとしては蔑まれる人格であり、そういうことをする者は誰からも敬意をはらわれないのだが・・・

・これは自分が想像するにはこうだ。アカデミー賞ノミネートの世界的ヒット作が他の作品からアイディアやシーンを借用しているとなると、それこそ「ネット・プロフィットの何パーセントを寄越せ、そうでなければ公開停止しろ、ソフト化は許さない」なんてことを言い出すやからは訴訟社会のアメリカには山のようにいる。いやアメリカだけでなく全世界からあれこれいちゃもんを付けてくる連中がでてくる。だいたいハリウッドでは一作映画を作る事に「私のアイディアを盗用された。あれは私がオリジナルのアイデアを持っている。だから対価として何万ドルを支払え」なんていちゃもんを付け訴訟を起こそうとする輩が必ず何人か出てくる。スタジオにしろエージェントにしろそういう訴訟を起こされないように徹底的に防止策は立てているのだが、このブラック・スワンに関しては言い逃れの出来ないような流用だ。監督自身はパーフェクト・ブルーをつくった今敏に敬意を表し「あなたの素晴らしい作品のあのシーンを使わせていただいた。オマージュとして使っていますのでご了承下さい。これもあなたとあなたの作品に対する敬意の現れです」と言いたかったのかもしれない。しかしスタジオ側や監督のエージェントが使うエンターテイメント弁護士は「ちゃんとした契約もせずアイディアを借りているのに、そんなことを言って今敏側から使用権の請求をうけたらどうするんだ。訴訟されたら負けるぞ。そうしたら何億という金を映画の利益から払わなければならないんだぞ。絶対に認めるな。なにがあっても違うと言え」まあ多分そういうことを監督はスタジオやら弁護士やらから散々に言われているのだろう。

・ちょうど2日程前にダーレン・アロノフスキーがいったんコケた「パーフェクトブルー」の実写化リメイク権をまたやるといった話が流れてきたが・・・ここまで今敏の作品を気に入っているのならしっかり明言したほうがよさそうだが「いろいろ使わせてもらいました」って。

・もう亡くなってしまったが今敏が生きていて、しっかりとリメイク権の譲渡契約をしていたら、このブラックスワンの世界興業収入からも数パーセントの利益を受け取ることができただろう。その他もろもろ含めて数億の金が今敏サイドに流れてきていただろう。そのくらいのお金があれば今敏も製作費に苦労せず新しい作品を伸び伸びと作ることが出来ていたのではないだろうか? 日本サイドはエンタメ契約にはほんとに弱い。