『山桜』

藤沢周平作品の映画化としては「たそがれ清兵衛」「蝉しぐれ」と肩を並べる良作。まあ藤沢作品はまだ五つしか映画化されてはいないが。

●「たそがれ清兵衛」は時代劇として久々にエンターテイメント性も高く、人の悲しみも、家族の愛もきっちりと描かれていて自分の中でも好みの一作であった。山田洋次の作品の中でもこれは特に良いと思う。しかし、その後の「隠し剣 鬼の爪」そして「武士の一分」は二匹目、三匹目のドジョウを狙って作品としての質を大幅に落としている。原作小説の良さをだすよりも、流行の役者のキャスティングで動員を計っているというのがミエミエで、これじゃああなたたちは藤沢周平作品を本気で映画にしようとしてるってわけじゃなく、名前を拝借してるだけだろうと言いたくなるものだった。

●特に一番興行成績の良かった「武士の一分」は三作の中でも最もダメ。木村拓哉を主役に起用して動員を稼いだのであり、作品の中身は無理な展開、つじつまの合わぬ筋、それはないだろうという話し運びにオイオイと言いたくなるものだった。
2007/1/3の日記参照(http://d.hatena.ne.jp/LACROIX/20070103

●今回映画化された「山桜」は実に質実、真摯に小説の世界を映像に映し出している。脚本、監督、プロデューサー、スタッフ一人々の藤沢作品に対する取り組み、真剣さが作品に如実に反映されているのではないだろうか。こんなに真面目でいい加減なところがほとんどない映画もそうそうあるものではない。「蝉しぐれ」もきっちりとした真面目な映画であったが、それ以上であろう。

藤沢周平の長女である遠藤展子さんがこんなコメントをしている。
「実際に出来あがった映画は、まるで父の小説を読んでいるような錯覚を覚える映画でした。本のページをめくるように父の原作の映画を観たのは初めての経験でした。」
 映画の宣伝の一部でもあるわけだが、このコメントは本心であろうと想像する。それほど、この映画は藤沢作品に妙な手を加えるではなく、きっちりと小説の世界を映像の世界に昇華させて表現したといえるであろう。

田中麗奈は役にはまった良い演技をしていた。なっちゃんから始まり、若いながらも邦画の牽引役とまで言われ、多数の映画出演をこなしてきた彼女だが、どうも最近はぱっとせず「銀色のシーズン」では下手くそな演技と似つかわしくない役柄だったし「ゲゲゲの鬼太郎」での猫娘は役としてはぴったりだが、ギャグキャラでしかなかった。ああ、この子ももう籐が立ってしまったなぁ、なんて思ったものだ。しかし今回の野江役は田中麗奈にとっても幸運なキャスティングであっただろう。アイドルだ、若手花形女優だと持て囃され、中身の無い映画にやたらめったら出演し、人気があったとしても、歳とともにだんだんとお呼びは掛からなくなる。出てればオッケー的に演技を学ばず地だけで演技をしていた者は、若さから遠ざかりはじめた時点で使用価値が落ちる。そこで終わってしまう人もいるが、一つの流れとして日本の女優は歳をとると時代劇に使われるようになっていくパターンがある。それはいいことだと思う。歳を取り、人間としても成長し、顔にも言葉にも仕草にも、そして演技にも奥行きが出てきたならばこそ、時代劇のような、生半可な地キャラだけでは出来ない演技の世界で自分を生かせれば素晴らしいのである。まあ、田中麗奈がそこまで歳食ってるわけではないけれど、時代劇でこれだけの役をこなせるのであれば、今後はこういう路線できっちりと大人のファンをつかんでいってくれるといいなと思うのである。

東山紀之演じる手塚弥一郎も、最初の桜のシーンでは「んー、どうかな?」と思っていたが、困窮する藩の農民の姿と、建前を取り払った正義感で悪徳な上役である藩の重臣を切り捨てるシーンなど「そうだ!」と心の中で声が出ていた。役柄的にも多くを語らず、牢屋に閉じ込められても自分の弁明すらせずただただ裁きが下るのを待つ姿には心を打たれる。

藤沢周平の作品は全てことごとく現代に、今に通じる。大昔から、どんな時代でも権力の側に付いた者は悪事に染まり、庶民は常に苦しみを受ける。それは今の世の中でも同じこと。今の政治化、自民党だけでなくても政所に座っている連中の愚かさと汚さ、税を払う側の人間の苦しみ・・・世の中はいつも同じなのだと思えてしまう。「たそがれ清兵衛」の時も映画のストーリーを現代社会のサラリーマンに置き換えるような評があちこちにあったが、今回の「山桜」においても同じことが言える。不満が募れば、一揆も起きる。私腹を肥やし庶民を苦しめる輩を切って捨てる人物がそろそろこの日本にも必要なのかもしれないと思えてしまう。

●牢獄に閉じ込められた弥一郎は江戸に仕える殿が帰るまで裁きは決定されない。これは自らが裁きを下すことを避けた役人どもの逃げであったが、この映画のラストに近づくにつれて「最後にはハッピーエンドに終わらせてくれ、刃傷の罪で弥一郎が打ち首なんて最後にはしないでくれ、特例で殿からのお許しを受け、弥一郎と野江が結ばれて幸せな形で最後を締めくくってくれ」とずっとスクリーンを見ながら願っていた。ここまでいい映画を見せておいて最後に最悪の悲しい結果なんかしないでくれと。
 
そしてラストは・・・・牢獄の中で差し込む光を見上げる弥一郎と、江戸から参勤交代を終えて国に帰ってくる藩主の駕篭行列で締めくくられる。藩主の顔もスクリーンには映し出されない。じれったい最後だ。こんなもじもじした切れの悪い最後もない。だが、このハッキリとした結末を語らぬラストのおかげで、観ている自分は心の中で「弥一郎は罪を咎められず、野江と結ばれ本当の小さな幸せというものを掴む」と思うことができる。ラストを幸せなものとするのも、不幸で残念なものとするのも見ているものの思い次第。この映画の本当のラストシーンはこの映画を観た観客一人々が心の中で作ればいいのだ。監督はきっとそういう投げ掛けをしているのだろう。ラストを観客が決める映画、素晴らしいではないか。

●こんな映画もめったにない。順次公開は広がり、少しずつ多くの人が映画館のスクリーンでこの映画に触れている。

●同じテレビ朝日が絡み、同じ藤沢周平作品の映画化だというのに、あのさんざんたる大宣伝をした「武士の一分」と比べて「山桜」の宣伝はなんと小さいことか。ついている配給会社の大きさの違いというのもあるが、宣伝予算は「武士の一分」の何分の一あるのだろうか? 作品の良さと宣伝の大きさは数倍反比例している。この映画こそもっともっと全国で多くの人が観るべき良質の日本映画なのだ。