『遠くの空に消えた』

行定勲監督の作品は全て観ているわけではないが、自分が今までに観たものは”これはイイね”とまではいかずとも、まあそこそこに面白く、悪くは無いものばかりだった。「ひまわり」「贅沢な骨」「GO」「世界の中心で愛を叫ぶ」「クローズド・ノート」など・・・・。しかし「遠くの空に消えた」に関してはちょっと観続けるのが苦痛にも思えるほどわけのわからないダメダメな作品であった。

●構想七年ということだが、話が全然煮詰められておらず、わけの分からぬストーリーが寄せ集められて超ハリボテの映画になってしまっている。子供のころの思い出。あの夏の思い出。あの胸がキュンと締め付けられるような、誰もが持っているあの切なさ、甘酸っぱさ、懐かしさ・・・それは監督も同じく持っているのだろうけれど、それが映像には転写されてはいなかった。この映画を観てもあの気持ちが蘇ることはなかった。

●「蒲田行進曲」を思わせるようなシーンも大人の目からの映像であろうし、こういった子供の頃の”あの日の思い出”を描いているような映画は世に沢山あるけれど「遠くの空に消えた」においては監督の自己満足、自己中心的な頭の中の妄想をフィルムに羅列しただけとなり、観る側に共感を呼び起こすような絵でもストーリーでもなかった。

●2時間半近い長尺の中で映像で映し出されたのは断片的な監督の妄想であり、それが人の心に届くような、映画という形にはなっていないのだ。もちろんこの映画に共感する人もいるであろうことは否定しないけれど。

●どんか名監督、脚本家でも売れてくると必ず大きな失敗作を一作は出してしまう傾向がある。殿様になってしまい、自分を客観的に見れなくなり、自分の思いだけで作品を自分勝手に自己中心的に作ってしまうからであろう。映画という作品は観客に観られて初めて成立するのである。どうしてもそこをないがしろに自分の思いだけで暴走してしまうと、もう目も当てられない駄作、普通で考えたら信じられないような作品が生まれてしまうのだ。

●セットにしろ、キャストにしろ、売れっ子監督のオリジナル映画ということでかなりの予算が付いているのだろうと思わせられるのだが、その殆どは無意味、無駄に浪費されてしまったのでは無いだろうか。

●行定監督は監督としてはそこそこまとまった作品を作り出すようになっているけれど、脚本の方がもうどうにもならない。今回のこの映画のそもそもの詰まらなさ、訳の分からなさ、退屈さ、観ることの苦痛さは、監督が書いた脚本が余りに酷いことが殆ど全ての原因であろう。悪い脚本の後にはどんな良い監督が付いてもダメな映画しか出来上がらない。良い脚本ならばダメな監督が付いてもそこそこの映画にはなる。まさにそういうことだ。

大後寿々花は「SAYURI」での子役が非常に印象的であったが、今回はまるで輝きが発揮されることもなく、演技もなにもかもなんら光ものが無かった。残念である。

●正直、余りの変てこなシーン、変てこなストーリーに辟易し、1時間も観ていたらその後1時間半を観続けるのは苦痛となった。映画は一つの作品としてちゃんと観なければいけないとは思いつつも・・・この作品は後半かなり早送りして終わらせてしまった。それほどしんどい内容の映画だった。

●あれこれ言っても仕方は無いが、これは売れっ子監督、邦画のなかでもかなりトップクラスのダメダメ作品としか思えない。

●時として頓珍漢な変てこな映画批評を書く福本氏ではあるが、この映画に関しては全く納得の批評を書いているので一部を引用させてもらおう。福本氏の書いていることはまさにその通りだなと思った次第である。

「ファンタジーとしては作りこみが甘く、コメディとしてはセンスが悪く、登場人物が多岐に渡る上に人物像がまったく描かれていない。冗漫でアホくさいエピソードの連続は退屈以外のなにものでもなく、2時間半近い長尺を最後まで見るには相当な忍耐と努力が要求される。」

まさにその通りであった。