『火宅の人』

・三女優の演技は巧い、濃い。緒形拳の演技も濃い。原田美枝子とのセックスシーンはかなり濃厚。
・自らの文学創出に心衰する作家の姿が描かれているわけでもなければ、その苦悩にのたうち回り悶絶する姿が描かれているわけでもない。
・この映画に描かれているのは、妻や家族、病気の息子の存在を見ぬふりをして自分勝手に放蕩を続け、出会った女とセックスをし、流れのままに生きる男の様子であり、それだけではないか。
・妻を演じるいしだあゆみと、親に犯された過去をもつ松坂慶子に女の心情を感じることはできるが、主役である桂の内面、心情にまで映像は手を伸ばしていない。桂はただ好き勝手に思ったままに生きる男の表面的な行動でしか描かれていない。言って見ればハリボテだ。
・なぜ当時この映画がヒットしたのか、原田美枝子松坂慶子のポルノ映画級の濃厚で汗臭いセックスシーンに観客が惹き付けられただけではないのか? 失楽園などと全く同じパターンだ。セックスと暴力を過剰にすれば衆目は集まり話題にもなる。何十年と繰り返されてきた人間を刺激する原始的な手だ。
・この映画、人間を描こうとしたのではなく、人間が普通では出来ない好き勝手な行動を描いている。まったく無いとは言わないが、人間の心情は少ししか描かれていない。深堀しようともしていない。
・性的な暴力事件や残虐な事件をその行為、行動だけを描き、その特異さだけを強調し人目を引こうとし、その行為、行動が起きた理由、人間の内面、心をまるで描こうなどとしていない映画というのは多々あるが、これも同じ種類に属すると考える。
・放蕩で情欲におぼれ、性交を重ねる男と、それに絡む女の姿を、下半身興味を扇動する映像にして描いているだけで、これは人間の心に手をのばしていない。この映画に描かれている男と女の姿とそこ行為、行動は中味のない表面だけのハリボテであり、観客はそのハリボテのセックス映像を情欲を刺激されて見せられているだけである。
・要するにこの映画は、原作小説というものがあるけれど、その話だけをかりた、文学の名前を被ったただけで、ただ単に性交を描くポルノ映画、アダルト映像とさして変わりない映画といえる。
・撮影は木村大作