『コールガール』(1971)

●ある失踪事件を端緒としたサスペンスなのだが、話が分かり難い、実に。

●複雑なストーリー、入り組んだ人間関係といったもので話が分かりにくいながらも、それを全て頭の中で理解出来たときに訪れる「なるほど、そうだったのか」というもつれた糸が解けるような爽快感を味わえる映画というものではない。この映画の分かり難さは話を深めているわけでもなく、高めているわけでもない。ごちゃごちゃにしているのだ。

●そっちこっちから引っ張り込んで、横から顔を出すような脇役、端役は話を膨らませるどころか、あっちこっちにさして意味のない寄り道を無理やりさせられるかのようなものだ。

●この映画のある種の分かり難さは、ストーリー展開があっちの人物に寄り道し、今度はこっちの人物に寄り道しと、話の軸がぐらぐらとブレまくっていることにある。

●脚本家が話を深め奥行きを出そうと頑張ってあれこれと人間関係を主軸に絡めていったのだろうが、幹に絡み付けたものはただぶら下がっているだけで、幹を太く堅強にしていない。観る側はわき道に逸らされ、脇目ばかりをさせられ、ぐらぐらと頭を回されながらストーリーに突き合わされている感じだ。

●そして、あれこれ登場人物を絡めて話をさも複雑にしておきながら、終盤に至って、タイプライターの癖が類似しているという実に短絡的な謎解きの解法で話をいきなり絞り上げラストへあっけなく落下させている。

●ある男の失踪。その上司、捜査を依頼された男、関係を持っていたコールガール。この至極単純な構図にあれこれ肉付けをして、サスペンス、都会に一人生きるの女の孤独、男と女の関係などを描こうとしたのであろうが、何故殺したのか、何故殺されたのかという最も大事な部分に関わる人間の内面は深堀されず、殺した理由も結局はオトコの助平、変態趣味という色欲の為したことだったという落ちだった。

●話が進むにつれて、男の失踪事件は重要度を失い、都会に生きる孤独なコールガールの女と、その女に情欲がもたげてくる男との絡みが主となってしまう。要するにこの映画は何を描きたかったのか? サスペンス映画の中に男と女の恋愛を描きたかったのか(よくあるパターンだ)、それとも都会に生きる女の孤独な生活をサスペンス仕立てで描きたかったのか、どっちつかずという感じだ。

●知的なイメージのジェーン・フォンダが淫らな言葉をしゃべり、服を脱ぎ、コールガールとして男を誘惑する姿はエロチックでそそられる部分もあるのだが、D.サザーランドとの絡みに甘美なロマンスの匂いがほとんどしない。二人とも知的で強気で厳格なイメージがあるせいか、互いに魅かれ合い愛と情欲に溺れるといった官能的な浮かんでいない。

●結局のところ、この映画(脚本)はあれもこれもと欲をかいていろいろな映画の要素をとりいれながらも、あっちにふらふら、こっちにふらふらとブレまくり、どっちつかずで芯のない足下がぐらついたわけのわからぬ、狙い所もハッキリしない映画になってしまっている。そのどっちつかずで、ふらふらして、はっきりとしていない作りが、映画を観終えてからむしゃくしゃする気持ちに繋がる。なんともぐちぐちと煮え切らない、態度をはっきり示さない、優柔不断のダメ男のような映画だ。

ジェーン・フォンダは確かに演技は巧いし、今は大女優の一人として確固たる位置を築いているが、この作品で主演女優賞をとったのは、知性派で実力も美貌もある女優が、娼婦という大胆でエロチックな役を堂々と演じたという色物的な引きが強かったからだろう。主演女優賞というほどのものとも思えない。まあ、アカデミー賞はそんなものだが。

●全体に暗い影が覆いかぶさっているかのような映像は巧い。都会や人間の心の病んだ部分、心のよどみを画面全体から漂わせるような効果が巧みだ。

●監督:アラン・J・パクラは社会派作品、告発映画の類いを多く撮っているが、今回は不発。
大統領の陰謀」「ペリカン文書」「ソフィーの選択

ジェーン・フォンダ(1971年アカデミー賞主演女優賞)1937年生まれで当時34歳
ドナルド・サザーランド
ロイ・シャイダー

●TV放映されたものは古いワーナーの赤く小さいロゴがでていた。このロゴを見る事は珍しい。古い作品もDVD、BDではロゴを新しいものに差し替えている。

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