『失楽園』(1997)

●閑職に左遷された男、その割に随分と生活は豪勢で給料にも金にも全く困っていない、将来に対する不安も逼迫していない、閑職から抜け出そうという覇気も気力もない。左遷はされたものの会社が大きかったから給料は人並以上。会社もあからさまな減給などをおこなうと逆に組合や労基などに刺されるから閑職に追いやっても給料据え置き、つまらぬどうでもいい業務を与えておいて自主的に辞めてくれることを期待。左遷された男達は暇でやることもないが、忙しくもなく給料もしっかりもらえているんだから、悪くもないなと思って状況に甘えている。リスクを背負ってもここから抜け出しもう一度男としての意地と誇りを取り戻そうなんてまるで考えていない。そういう描き方しかしていないから、主人公の現在が嘘臭い。ああいった状況に押し込まれた男は自信も失い、この映画で描かれているように堂々とさっそうと振るまい、美人と不倫なんてまあ有り得ない。嗅覚の鋭い女は男の自信の無さや弱さを鋭く嗅ぎ当てる。この主人公の男の姿や生活は左遷され閑職においやられたサラリーマンの姿とは全く違う。そんなに企業は甘くない。実際はこんな部署はやめて欲しい社員の辞めたいという気持ちを増幅させるため、自信もプライドも喪失させるためにあるようなものだ。森田芳光はサラリーマン経験はないだろうが、現実の企業というもののえげつなさなど知らないのだろう。調査もしていないのだろう。だからこんな嘘っぽいありえない設定になっている。画面に説得力がない。なんら押し寄ってくるところがない。閑職の部署に左遷された男達になんら状況に対する苦慮、悩み、不甲斐なさが滲んでいない。だから、この映画現実感がまるでないのだ。

●対比として、会社に残りバリバリに仕事をしている同僚も描いているが、呆れるほど見事に類型的な描き方。電話がじゃんじゃん鳴り、騒がしいオフィスで苦虫を潰したような顏で仕事をしている男。閑職左遷組との差を出そうとしているのだろうが、閑職組は脳天気でダラダラ、適当に外出して女とあってセックスをし、洒落たバーやパーティーに顏をだし、同僚とは宴会。これじゃ閑職組の方がイイじゃないと思えてしまう。

●バリバリ仕事組の同僚が病気に掛かり入院。余命僅かのところに見舞いにいって「もっと思いきり好きなことをやってくればよかった」「会社なんて一人二人いなくなったって関係ないさ」「一体なんだったんだろうなこれまでの人生」なんて喋らせるのも、もう余りに型通りでもう少しなにか演出の工夫が出来なかったのかと言いたくもなる。

●美人OLと出会って不倫。肉体関係を重ねそれが愛になっていく? ただセックスシーンを描いているだけで二人の内面は深堀していない。それぞれが持つ家族、家庭を描いてはいるが、その家族の心情も決して深みへは突き進まず、離婚に至る家族の葛藤、妻や娘の悩み、内面などなにも描かれていない。

●類型的な「不倫したら、されたら夫は、妻はこう出るでしょう」というものを型通りに描いているだけ。その内面に澱む心の苦悩、葛藤、怒り、悶絶、絶望感などにまではまるで手を伸ばしていない、描いていない。

●なんだかんだといって、結局は現実感のない生活感のない嘘っぽい左遷サラリーマンが誰もがうらやむ美人ととんとん拍子にねんごろになり、セックスを重ね、妻からは離婚されそして心中しました。と、それだけでしかない。

●中年の男と女の燃え上がるような恋愛というほどの情意も感じられず、黒木瞳役所広司のセックスシーンを描くのが主であり、その背景はたんなる付け合わせでしかない。要するにこれ、人間を全く描いていないのだ。

●文章の世界ではもう少し人間の心を、男と女の心の葛藤を描いているのだろうか。愛の形を描いているのだろうか? 映画ではそんなものはほんのちょっとしか描かれていない。新聞小説の大ヒットも、作者が渡辺淳一というのはあるが、やはり大手新聞小説としては今までなかった不倫、中年の恋を描いた、エロス、下半身趣味の部分に多くの人が涎を垂らして飛びついたのではと邪推するが。

●映画公開時、銀座や有楽町を歩いていると、映画館からどどっとおばさんが溢れ出てきて、3、4人のグループで無言で通りを歩き去ってて行く光景を目にした。なんだこれは?と思ったら劇場では「失楽園」を公開していた。中年男女の不倫、黒木瞳の濃厚なセックスシーン、なんだかそういうものに引き寄せられてか、憧れてか、映画館はその当時でいうオバタリアン的な観客で溢れていた。

●普段は恥ずかしくてこういいうエロチックな映像なんて観れないのだけれど、渡辺淳一の文学作品の映像化で「これは文芸、芸術なのよ、私たちはそれを鑑賞に行くのよ」という言い訳、免罪符が用意されたからオバタリアンは大挙して劇場に押しかけた。もちろん色々な人が観に行ったとは思うが、この映画圧倒的に観客は女性が多かったのではないか。それも若い20歳中ごろのOLよりも40、50歳といった中年、後年のおばさん層がかなりの割合を占めていたと思う。『氷の微笑』にシャロン・ストーンの股間を見たくて男が群がったのと同じだろうが、それまで女性が堂々と見る事の出来るエロチックな映像作品というものは殆どなかったわけで、そのツボに見事にはまって、こういうエッチをしてみたい、見てみたいという女性の欲望をこの映画は見事に掬い上げたと言っていいだろう。「こういう情熱的な恋をもう一度してみたい」という女性の夢、憧れよりも、官能的なセックスシーンを堂々と見ることが出来る、こういう恋よりもこういうセックスをしてみたい、そういう状況にはまってみたいという欲望のほうが強かったのではと思うのだが・・・どうだろう? 

●あの頃、とてもじゃないがおぞましいオバサンたちに囲まれて映画なんて観る気はしないし、ましてや、どうもセックスシーンへの興味にばかりひかれて劇場が満杯になっているという感じがしていたので、そんなもの観る気はないと突っぱねていたのだけれど。

●文学作品、情熱的な恋、なんて免罪符をオデコに張り付けて、私はそういういやらしい意味でこの映画を観に来たわけではない。と声を張り上げて言う事が出来るから、だからこの映画はオバサン層を記録的に集客して観客動員数200万人を超える大ヒットになり、興行収入40億「失楽園」という言葉がこの年の流行語にまでなったということだと思われる。

●映画の中味、その質、そういったものが評価されたりしたものでは全くあるまい。

黒木瞳 1960年生まれ 撮影当時37歳とは思えない顏と体の美しさ。確かに完璧とも言えるスレンダーでありつつ柔らかなラインの体、胸、腰、これはホントに欲情を誘われる。エロイね見事に。
役所広司 1956年生まれ 41歳・・・羨ましい。
・監督:森田芳光 相変わらず「家族ゲーム」以外はパッとしないのばかり。
・娘役の木村佳乃の顏が今とはなんだか随分違う。今より尖った顔のライン、目つきの印象は今と随分違う。若い頃とは言え、最初木村佳乃と気がつかなかった。ひょとしてこの後整形した?