『ヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ〜』(2009)


確かに美術は凝っている。手が込んでいる。CGIで描いている背景や町の風景とは重厚さが違う。自然な感覚が落ち着く。

松たか子は最初は華がありすぎると思ったが、観ているうちに絵になじんでくる。そして古き日本の女の持つ慎ましやかで男に尽くすイイ女の色香がぷんぷんに漂っている。それは多分に男が何をしても男に従い男に身を預け男に寄り添い続ける、言ってみれば男にとって都合のいいタイプの女性の姿なのだろうけれど。日本の男だけでなく女にとっても昔からイイ女とはこういうものとして描かれてきた姿は男にとって都合のよい男に尽くす女であり、女も男に好かれることを求め男が求めるイイ女を自ら演じ、それが男女一緒になってイイ女、イイ日本女性とはこういうものだという像を作り伝承してきた。この作品の中の松たか子はそういった日本人全部が描いてきた理想的イイ女の姿であり、多くの日本人がこの松たか子演じる女性の姿に拍手と称賛を送るのだろうが、それは男女同権でも、女性を尊重しているわけでも女性を讚えているわけでもなく、日本人が長い歴史の中で作り上げてきた男にとって都合のいい理想の女性像であり、それを受け入れることで自らを男の庇護の下にもぐりこませようとした女性にとっても都合のいい女性像であり、そこに本来の人間性も人格も尊厳も含まれてはいないのだ。

広末涼子松たか子と比べると天と地ほどの色香の無さ。しかし警察署の廊下で松とすれ違うときに見せた醜悪な笑いはゾクっと来るものがあった。広末の演技でこういう心を良くも悪くも動かされるものが今まで一つとしてなかった。広末はこういった性悪な女を演じる方がきっと合っているのだ。歳を重ねたのにいつまでも子供アイドル時代の印象を引きずった演技をし、演技をさせていることは広末の女優としての本質とは馴染まないのだ。

酒屋で出される青みがかったグラスがいい。今こういう色の付いたグラスはめったにない。

松たか子の御御足と見えそうで見えない太もも、半分さらけた背中と肩は充分にエロチック。松たか子でこういう映像は今迄なかったこともあるだろう。まあ松たか子がベッドシーンとかは多分ないだろうからこのくらいでもエロチックに感じる。見えないから却ってエロスという感覚。それに引き換え、広末のセックスシーンはあたかも年増女の脂ののった肉がねっとりと体臭をただよわせながら男に絡みつくかのようで凄い。

太宰治生誕100年の年に太宰作品をベースとして、太宰自信を彷彿させる人物を描いているのだが、これは太宰治を描いている訳ではないのだ。太宰文学の様々な描写を取り入れて、太宰をモデルとして描いているとされる「ヴィヨンの妻」を題に掲げているけれど、映画の視点は常に妻佐知にある。カメラがいつも目を向けているのはダメ男大谷ではなく。


2009年生誕100年の文豪・太宰治に関連する映画は
『斜陽』『パンドラの匣』『人間失格』どれもこれもアイドルやら人気俳優やら目を引くが演技の実力はお粗末なキャスティングで製作され、どれもこれも太宰治生誕100年の冠を借りただけ、太宰治の名前におんぶにだっこしただけといった作品ばかり。