『RAILWAYS/レイルウェイズ』

●最初『RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語』というタイトルから想像したのは、頑張って頑張って子供の頃の夢を49歳にして叶えた一人の男の”頑張ればなんだって出来るんだ” ”夢は叶うんだ” という希望に満ちた、元気が出るような話かと思っていた。

●しかしこの映画の主題は運転士になることでも、運転士になったことでもなかった。この映画の物語の中心にあるのは”家族”の話だ。

●田舎から東京に出てきて働く男。出世して会社の中でも重要な立場になったが、妻や娘との関係はギクシャクしている。もうすぐ50歳、田舎に残した母親も高齢、東京で一緒に暮らそうと言っても今更生まれ育った土地を離れるなんて嫌だと言う。そのうちに母は高齢で倒れ入院することとなり、息子として面倒を見なければいけない。会社を辞めて田舎に戻らなければならない。だが田舎には50歳間近の男を雇うような会社はない。どうしたらいいんだ!

●この状況は日本で働く多くのサラリーマンにとって他人事とは言えない問題。今は大丈夫でも後5年、10年後には考えなくてはいけないと頭の中を過っている悩み。日本の社会体制の問題でもある。

●有名企業の役職を捨て、田舎に戻ることを決めた男。そこから徐々にギクシャクしていた家族の関係が修復され、親と子、夫と妻、母と息子が家族の繋がりと絆、その温かさと大切さを再確認して物語になってゆく。この流れはとてもいい、心温まる物語の展開だ、だが・・・。

●こんなふうに田舎に帰って「やっぱり肩書きだな」などと言いながら、いとも簡単に小さい頃の夢であったという電車の運転士になるなんて、これはいくらなんでも話が都合よすぎる、甘すぎる。今の田舎の状況はもっとはるかに厳しい。こんな甘さを享受できるのは政治家か土建会社のコネや押し込みの効く、金の利害が絡んだ関係者でもなければ通常はありえないことだ。それをさも当然のようにサラリと描いているのが短絡的であり、非常にご都合主義な話の進め方なのだ。要するに脚本家や監督は描いている物語に真実性や現実性などまるで追及していない。都合よく話の筋だけ、表面だけを利用し、その背景などなんの斟酌もしていない、真剣に考えてもいないのだ。

●大都市に集中した企業とそこでの就労の機会は地方から出てきた者に若い間は夢を与えるが、歳を取るにつれて悩みと都会と田舎の格差という現実を突きつける。本来もっとも大切にすべき家族の絆、親や生まれ故郷といったものの大切さを、今の日本社会の構造は、そういった大切なものを切り捨てようとしている、切り捨てなければ成り立たないようになっている。地方はどんどん廃れ、いざ戻ろうとしても生活を成り立たせるのも厳しい。これが今の日本の実情であり、現実なのだ。

●この映画は日本社会に横たわっている大きな社会問題、構造問題を物語の背景として設定しながら、それを問題として意識も認識もしていないかのようだ。ただ背景設定に使っているだけで、それが大きな問題であると考えようとも、その問題に手を差し伸べて拾い上げようともしていない。ただその問題「大変そうだな」と遠目で見ているだけなのだ。

●田舎に帰ってから娘との関係、妻との関係が徐々に修復され家族の絆を再確認していくくだりは心温まるものがある。この辺の話はこの作品の中でも一番に良い部分だ。主人公の男と、母親、娘、妻との家族の物語がこの作品の中心になっているのだから。だがその周辺に配置された物語はどれこもれもちぐはぐに別方向を向いていて、一本の物語を太く肉付けするようなものになっていない。それがこの映画の大きな失敗部分でもある。

●『RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語』というのも、タイトルと話の中味とのズレ方が甚だしい。この映画の中心に流れているのは、家族の話であり、家族が抱える問題、今の日本の多くの男が、夫婦が、家族が、親と子が抱える問題だ。49歳で電車の運転士になる話は一つのエピソードあり、それ自体は悪い話ではないが、別に運転士にならなくても他の仕事でもこの作品のストーリーは成り立つ。

●帰ってもっと普通の会社勤めをしながら、家族の絆を取り戻していくという話のほうがもっと素直で自然だった。田舎に戻って仕事を探すという話に、子供の頃の夢を叶えるだとか、電車の運転士という特殊な仕事の話を無理やり持ってきて繋げてしまったことにより、物語の焦点がその都度あっちへ行ったり、こっちへ行ったりして、話の芯がぶれてしまっている。

●いうなればこの作品の中で電車と運転士の話は観客の目を引く為の後付けの飾りであり、客寄せパンダであって、薬味である。病気で入院した母親のことを思い田舎に戻ったサラリーマンが苦労しながらも家族の絆を確かめていく、それが話の中心にあるというのに、薬味である鉄道の運転士になる話をタイトルにしている。これは明らかにおかしい。

●物語の本筋を深堀することをせず、周りにぺたぺたと余計な装飾をはりつけ、物語を太く使用としている。それは見せかけだけに過ぎない。あちこちから持ってきた人目を引く、見栄えのいい飾りをペタペタとな貼り付けてても、話の芯は太くならない、細く頼りないままなのだ。これは脚本、物語を膨らませ厚みを出そうとして失敗する典型的なパターンだ。鉄道と運転士の話は物語の傍流にしかない。

●監督かプロデューサーが鉄道ファンで、どうしても鉄道の映画を作りたかったのか? タイトルにしろ宣伝にしろ鉄道のことに焦点が合わせられている。物語の中心にある家族の部分にこそ焦点は合わせられるべきであり、それをせずに、薬味であり装飾品である鉄道の部分ばかりを強く押し出しているので、作品そのものが芯のブレたとんちんかんなものになってしまっているのだ。

●結局の所、この映画(も)、そこそこのいい話を集めておきながらも、それらを物語の芯を中心としてキッチリと絡め組み上げていくという脚本の組み上げに力量のなさから失敗し、集めてきたいい話がただペタペタと芯に貼り付けられただけで一つの物語として融合していない状態だ。だから、割といい話なのだけど一本の作品としてドンと前に出てこない、心に響いてこない、そんな仕上がりになってしまっていると言える。

●携帯電話を使うシーンがかなり多く、目障りにすら感じる。日本のTVドラマはずっと場面を切り替えたり、話を前に進める便利な道具として電話を乱用してきた。家庭電話が携帯電話になったおかげで、家に居なくても会社に居なくても、喫茶店でも田んぼのあぜ道でも、ただ道路を歩いているときでも、登場人物がどこに居ても、電話が鳴って話を強制的に前に進めるという安直な手を使えるようになった。そして脚本家は話が回らなくなると直ぐに携帯電話に頼るようになり、脚本と物語はワンパターン化し、どこのドラマや映画を見ても似たようなシーンが目に付き、つまらなさが広がっていった。

●実際に携帯はいつも身近に持っていて、家庭でも電車の中でもどこでも携帯の画面を暇さえあれば見ているというのが今の日本社会だが、映画の中でやたら携帯を使っているシーンが出てくるともううんざりしてくる。いい加減こんな安直な道具に頼るのはもうすこし考えたらどうなのと言いたくなる。

●リストラを言い渡した同期の工場長が事故死するというのも、これもあまりに安直で短絡的過ぎる。この工場長の存在や二人の会話、そして事故死は物語の中にほとんど影響を及ぼしていない、これまたただの装飾物であり、味を深めない薬味。こういう挿話がこの作品の中にあちこち散らばっている。飾りだけで話を膨らませることもなく。

●「家族より会社が大事なの」「あたりまえだろう」こんな会話が出てくるが、前時代的な気がする。この年代の人たちなら家族でこういう会話もあるかもしれないが、会社人間、モーレツサラリーマンといった世代の人たちはほとんど退職し、まだ残っている人も今の世の中はそんな発言をナンセンスととらえる人が主流だと知っているだろう。未だにこんな発言していたらそれこそナンセンスだ。

●中小企業、町工場、個人商店、田舎の会社などで、いやおうなく家族よりも会社が大事という態度をとらねばならない、そう考えることが社員として当然と擦り込まれ、働き場所を失わない為にそういう態度と思考をとることを無言で強要されている人はいるだろうが、自分からすすんで「家族より会社が大事だ」なんて考え方をする会社員というのは、今の時代極めて少数派のはずだ。

●今の若い世代、いや中年クラスでも「家族より会社が大事なの」と聞かれたら「そんなはずないだろう」「ちょっと上手いこと言って休み取るさ」「会社に人生ぜんぶ預けたわけじゃない」と舌を出すだろう。

●ALWAYSからRAILWAYSと題を繋げても中味の良さは繋がらない。