『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』

●これは配給・宣伝の仕組んだPRに騙されたと言える作品である。

●予告編に出てくるセリフでは「女優を目指すの」「もっと理想があったはず、理想の人生を求める」「人生を諦めるなんて」「人生のチャンスをつかむ」「夢を追いかける」といった言葉が出てて来る。「レボリューショナリー・ロード」という題からも”革命、革新的な道”と訳して何かそういった新しい道に向かって突き進む夢のある情熱的なストーリーとイメージした。

●恋人と出会い、結婚し、家を買い、子供が出来て、家族を支えるために毎日詰まらない仕事をこなしている。でも、若かった頃に思っていた夢や理想を諦めないで、もう一度人生の夢に向かってトライしてみよう。夫婦二人で努力して、夢を掴む。そこへ至る道程を描いた映画だから、レボリューショナリー・ロードという題なのだろうと思っていた。

●しかし、内容は全く逆だった。普通に暮らしていたけれど、夢をもう一度追いかけようとしたけれど、何でもない暮らしの中で起こる小さな軋轢が積み重なり愛も、家族も全てが崩れていく、そういう映画だった。こういう映画は好きではない。

●この夫婦、まるで子供がいない夫婦の様に見える。子供が出てくるシーンが数箇所あるから子供も居るとは分るのだが、まるで子供を抱えている夫婦に見えない。子供のシーンは取って付けただけという感じで、映画全体で二人だけの存在が強調され、この夫婦が子供を抱えたファミリーという描かれ方がされていない。その辺りは演出の不出来さであるし、ストーリーをまとめるために子供の部分を端折ったのではないかとさえ思える。子供も含めた家族として描けば、もっとこの夫婦の崩壊が心を揺さぶったかもしれないが、結局は我侭な若い夫婦が我侭なままでお互いを傷つけ、破滅していくという話にしかなっていない。そんなものを見てもどうしょうもないのだ。

●適当にこなした仕事が上手くいって昇進するとか、夫は秘書と軽々不倫をして昼間からホテルでベッドイン。隣の家の夫婦とダンスバーに行って、相手の奥さんが具合悪くなって自分の旦那が家に送っていく。(都合よく車も駐車場が込んで車も出せない)残った妻と隣の家の旦那がいい関係になり、妻は隣の家の旦那とカーセックス。もうあきれるほどのご都合主義の展開、こんなシーンを良くも脚本にいれたものだ。サム・メンデスが監督しているというのに、この安っぽい話の作方には驚くばかりである。

●キャッシー・ベイツは相変わらずの怪演。すこし頭がおかしくなった息子を若夫婦の家に連れて行くくだりも意味が分からず。ありえないでしょう、この展開も。観ていて「なんでごたごた揉め事を起こすために子供を連れてかなきゃならんのだろう?」と頭が痛くなった。

●ラストシーンで、この映画が結局は何でもない人、妻、夫、隣人にも悪意は潜んでいるというようなことを教示しているかのようであるが、それも取って付けに思える。

●リチャード・イエーツの原作は元々の邦題では「家族の終わりに」とされていたようだ。それならば映画の内容にも合っている。レボリューショナリー・ロードという原題もリチャード・イエーツの皮肉でもあったわけだと納得する。それがこの映画及び映画公開前に再発された単行本では邦題が「レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで」になっている。レボリューショナリー・ロード(革新の道)→燃え尽きるまで、となれば、やはり夢と理想に向かって努力し、燃え尽きるまでも頑張るお話ではないかとイメージする。しかし登場人物の誰一人として燃え尽きるまで頑張っても居ないし、そういう情熱を燃やしてもいない。これは映画を売るための詭弁、騙しの邦題変更であろう。

●内容の余りの重さ、暗さに配給会社、宣伝担当は「このままではヒットは無理だ。観客も呼べないと考えたのだろう。そこでどうしたら客を騙せるかと頭をひねった。作品PRは「あのタイタニックのK・ウインスレットとディカプリオが再び競演」「運命の愛」「最愛の人」というような文字を並べ、宣伝ポスターのイメージも二人の恋愛物と感じさせるデザインにし、タイタニックから10年、再びあの二人が奏でる愛のストーリーというようなイメージで宣伝を企んだのだろう。こうして恋愛物とイメージさせれば客はそこそこ付く。アベックもOLも寄り付くぞと仕組んだのだろう。さらに題までも「燃え尽きるまで」と微妙に変えている。「家族の終わりに」では暗く重いイメージだから(それが本当だが)この邦題までもいじった。なんとも客を騙すためにあれこれ頑張ったものである。そして自分も騙されたわけだからしょうがないが。

●こういう微妙にあくどい宣伝は非常に気色が悪い。そこまでして客を騙しても、実際に映画を観たら何もかもが分かってしまうのだから。「レッド・クリフ」が公開直前まで二部構成ということを分かられないようにし、批評家らからクレームが起きてから渋々「PART1」という文言をポスターなどに書き加えたというのも同じ。配給も宣伝も観客を騙してもなんの特にもならないのだということを理解したらと悲しくなる。いや、守銭奴的な今の映画ビジネスでは騙してでも動員を増やして金を稼いだ方がいい社員か?いい宣伝か? さもしいかぎりである。

●ストーリーも脚本家のご都合だけでとってつけたような話があれこれあり、これでは話がおバカである。2時間掛けて観て、がっかりした一作であった。