『ハルフウェイ』(2009)

●冒頭の自転車のシーンは「ん?なんだこれは」と思うくらいカメラが映像の前に出しゃばり、絵を仕切っている。「これは下手だな、素人っぽすぎる」と眉をひそめた。この冒頭のシーンはかなり頂けない。カメラマンの顔や手や目の動きがそのまま画面にでてしまっている。こうなると映像を観ているのではなく、カメラマンがのぞいたレンズの中を観ているようなものだ。

●その後のシーンは淡い映像、手持ちのブレをあえて出した所など、いかにも岩井流の撮り方。女子高生二人のシーンなどは、学校のシーン、校庭のシーン、夕暮れ、もうどれもこれも、そのまんま岩井俊二の映画のどこかで観たシーンになっている。

●美しいシーンも沢山ある。もし岩井作品をこれまで観たことがない人がこの映画を観れば美しい、素晴らしいと素直に思う事だろう。単体の作品として独立して考えればそれでいいのかとも思うのだが、やはり違う。名画を模写した作品を見て、美しい素晴らしいというのはおかしいというのと同じだ。初めて見る人はそれでもいいかもしれない、だが本当の美しさ、本物を知るにつれて最初に感じた思いはきっと色褪せ、砕け崩れて行ってしまうだろう。

北乃きいは相変わらずこういう気の強い少女役。「ラブファイト」とまんま同じ。作品も役も違うのに、演技で表現する女子高生が同じ人物かと思ってしまう。まったく同じ事を地でやっているだけとしか言えまい。演技に幅も変化もないし、変化を与えられなかった演出、与えなかった監督の考えもどういうものだか。わざと演出などせず、セリフも用意せず、状況だけ説明してあとは役者に全てを任せたと聞くが、効果は出ていない。年齢の若い役者では結局自分の性格の範囲内でしか演技など出来ない。

●同年代か近い年代が観て「うん、そうそう、ほんとこんな感じ」と共感するならそれもありかもしれないが、それはそれだけにとどまる。映画としてのなんらかにはなっていないし、何かを変えるわけでもない。ただこういうだけ。ようするにTVの女子高生ものドラマをちょっと豪華にしただけということ。

●結局この映画には作品の指揮者である監督/脚本の北川悦吏子がまるでいないのだ。この映画にいるのは岩井俊二であり、小林武史であり、今は亡き篠田昇のスタイル、面影を継承する角田真一でしかない。監督は不在、どの監督がやろうとも同じ映画ができていたことだろう。

劣化コピーという言い型はデジタル社会ならではの、的を得た表現ではあるが、最近しょっちゅうあちこちで使われていてうんざりなので、やはりこの言い型は使いたくない。やはりこれは岩井俊二の偽物、真似事つまり、亜流というべきだろう。
【亜流】追随するだけで、独創性のない人。まねるだけで新味のないこと。

撮影:角田真一「花とアリス」「虹の女神

http://eonet.jp/cinema/features/index_090109_2.html