『ジェリーフィッシュ』(2007)

●カンヌでカメラドール受賞という事以外、前知識ほぼ無しで観たが、なるほど、なかなか不思議な良さがある。

●最初のシーンからカメラがなんともユルく、切れがない。絵にも緊張感がなくだらりとしていて、いかにもまだ経験の少ないアマチュア監督っぽさが滲み出ていた。これはダメかななんて思ったのだが、そのユルさが徐々に奇妙な味に変わって行く。

●この奇妙な雰囲気が不思議だ。学生が撮った映画のような拙さを感じさせながらも、あまり先読みをしないで突っ走っているような勢いの良さ、こうしたらどう思われるだろう、こう撮ったら変に思われるかもなんてゆう躊躇、足踏みがなく、感覚にまかせてエイヤと撮っているような気持ち良さ、潔さ。ベテラン監督のような手練の演出ではなく、そんなにあれこれ考えず思った事を思ったようにサッっと撮影して繋いでいるような若々しい感覚。まだ全然映画に染まっていない、映画に犯されていない、商業ベースに乗っていない、新鮮さ。あまりこの言い方は好きではないが《若さのもつ水々しい感覚》そういったものがこの映画にはある気がする。

そう”みずみずしい”という感想を映画に覚えるのはすごく久しぶりだ。この言葉を映画から感じるのはひょっとしたら今までの人生で沢山観て来た映画でもほんの数本しかなかっただろう。

自分の感覚までも清水で洗い流されるような、長い間についた脂や汚れに気づかされるような、そんな映画。

●同時進行で多国籍、多人数の話を絡めているので複雑になって分かりにくくなるかと思っていたがそういうことはなく、素直に話が繋がっている。

●軽妙に描かれてはいるが、それぞれのエピソードは重く切ない。老いて取り残される母、人生がうまく行かない中で母を見捨てる娘。特に自殺する女性詩人の姿、残された詞の話は相当に重い。

●まだきっちりとは固まっていない。ふわふわと揺らいでいてなにか手で掴めないようなむず痒さを感じる。それこそまさにジェリーフィッシュ:クラゲのようなものだ。だが、比較的短時間にまとめられたこの作品には、これまでの感覚では捉え切れない全く新しい感性、どう進化するかわからない未知数の可能性、自分をどうしていいかわからず踠き、自分をどうすべきか模索している大きな可能性を秘めた子供のようなものを感じる。カンヌ映画祭のカメラドール、いわゆる新人賞が与えられたのは確かな目だといえるだろう。

●かわいい子供を登場させる映画というのは、子供の可愛らしさを利用して観る者の気を引こうとしてるようなものや、中身に自信がないから子供をダシに使って、そのかわいらしさで共感を呼び込もうという下心が見え透いたようなものが多い。浮き輪を抱えた子供が出て来たときも、飽きるほど繰り返し使われてきた常套手段をまたやっているのかと目を細めた。

●この浮き輪を抱えた子供、何も喋らないけどニコリとしていて、確かにとても可愛い。所々でちょっと画面に見せる浮き輪の使い方も巧い。ただ、全体のストーリーは不幸な大人達で構成しておいて、この子供の存在は面白いけれど、話の本筋には大きく関与していない。またしても可愛い子供をダシにつかってるとしか思えないのだが、浮き輪の使い方が実に印象的であるし、終盤に来てこの子供がバディアの幼少時代のメタファーらしきことが臭わされてくると少しばかり考えさせられる部分に変化する、最後まではっきりとしたことは言わない、描かれてはいないが、この子供もバディアの不幸を表現する道具の一つと捉えると、まんざら可愛らしさを利用しただけではないのかもしれないと思えなくもない。

イスラエル・テルアビブ・・・問題を多く抱えた国と街。登場人物の苦悩はひょっとしたらイスラエルという国家とその国民が抱える苦悩を現しているのかも知れない。

●ソバカス顔はバディアは昔のシャルット・ゲインズブールを彷彿させる。