『うなぎ』(1997)

●1997年の作品だから、これももう11年も前になるんだなぁ。

カンヌ映画祭でグランプリのパルムドールを受賞というのは聞いていても、当時としては観る気持ちになれなかった。同じく今村監督の「楢山節考」もグランプリを取っているが未見。カンヌでグランプリを取ろうが、アカデミー作品賞を取ろうが、日本の映画賞で1位になろうが、映画というものは自分の趣味嗜好に合わなければ観ようとしないものである。映画の勉強の為とかいうのは別だけど。

●”妻を殺した男と一匹のうなぎの話”・・・というと、なんだかまるで面白そうには思えないし、魅力的にも思えないし、観ようという気持ちは起きなかった。

●良い映画、素晴らしい映画、考えさせられる映画、色々と映画はあっても、その時の年齢や、気持ち、考え方などによって、例えそれがどんなにイイとされていても観ようという気持ちの起きないものもある。今しきりに今村監督の作品を観ているわけだが、これも年齢を重ねて、ようやくそういう作品を観たいという気持ちになったということか。たぶん20代にこの作品を観ていても「ふーん、あっそ」という感じで、だからどうしたの?と興味をもたなかったかもしれないなぁ。今になってみれば、この作品の持つ良さが分る。ようやく自分は年相応の思考になったということだろうか?

●日本一のエロ、助平監督として名高い今村昌平だが、人間の根源にある動物的本性というところでの性欲から、人間の持っている本心の猥雑さをさらけだそうとした試みはこの監督の最たる個性であり特色でもあり、その風変わりでもあり奇特でもあるテーマとその映画造りは唯一無二の個性でもある。どちらかと言えばアダルト映画、エロ映画の監督をしていたほうが儲かったし、上手いんじゃないの?とも思う。セックスの描写や男と女の欲情の表現はアダルトの監督も今村昌平の表現を参考にしているということだけれど。

●今村監督も歳をとって、円熟してきたのか、この「うなぎ」ではそういう性の部分を越えて、本性の猥雑さを飲み込んだ、さらにその先にあるものに映画として辿り着いている。階段を一段上に昇ったわけだ。

●妻の不倫から、殺害、そして出所までのストーリーの導入部分が短いながら見事に纏められており、非常に巧い。ここがダラダラしていると後半がもたなくなる。仮出所した山下(役所広司)の自分の罪を奥歯で噛みしめ、耐えながら己を制して理髪店を営む姿がイイ。余計なセリフを語らず、その生活の佇まいに妻を殺した自責の念と、後悔、悩みが浮かび出ている。この辺りは人間の内面を掘り下げてきた監督の為す技か。

●なんとはなく素性を知りつつも、山下の周りに集まってくる町の人々、おかしな連中も面白い。表に出さない善意が滲み出ている。

●服部圭子役の清水美佐もいい演技をしている。「稲村ジェーン」のヒロインだった女の子が、こんな感じで演技を磨き、奇麗であり可愛さもある演技を身に付けて女優として成熟しているのが凄い。

●若いころであればわからなかったであろう人間の性、残虐さ、だが、周りにはそれを癒す温かさもあるということ、その組み合わせが映画の中でしっとりと交じり合い、いい味わいを出している。

●その反面、必ずどこにでもいる、嫉み、僻みで他人の幸せを邪魔しようとする人間の性もキチンと折り込んである。

●全体でみれば本当にこの作品は人間がもつ様々なさまざまな本性をストーリーの中に見事に折り込んでいる。そしてその本性をさらけだすだけではなく、その猥雑さを抑制する人間の意志というもの、それがあるから人間は社会性をもち、こうして暮らしていけるのだというところまで到達している。

●思っていた以上に深く、しっかりと人間というものを掘り下げ、探り、考えている映画だなと感心した。なるほど、カンヌのグランプリの価値はあるなぁ。(今だから、歳をとっていろいろな経験をし、自分自身も人生の襞をあれこれ身に纏ったからわかるようになったのだろうけれど。)

●服部圭子の親、金目当ての結婚相手、サラ金とかそういう背景はちょっと類型的で白ける部分はある。(最近この類型的という言葉を良く使うようになっているが、映画で一番嫌なのは手垢のついたような話を平然とストーリーに組み込んでいるのを観たときである。)

●冒頭の山下の妻である恵美子(寺田千穂)のセックスシーンや服部圭子のセックスシーンは、まあ流石一流の助平監督今村昌平という感じで、実に淫らでエロさが滲み出ている。この辺りはやはり今村スケベ節全開という感じである。