『ハート・ロッカー』(2009)

●監督: キャスリン・ビグローの作品は好きだ。『ハートブルー』にしても『K-19』にしても武骨で芯が通っていて、女性監督の作とはとても思えない、男気を感じる映画。

●最初のシーンから画面に緊張感が漂う、絵にスキがない。これはクオリティーの高さが出だしの画面からピリピリと伝わってくる。ハリウッド一流のスタッフの力。それなりの公開規模のハリウッド映画には邦画と比べれてどうしょうもないと思わせる作品は稀だ。分厚いスタッフの層、高レベルの技術の凌ぎ合い、切磋琢磨、競争が映画の隅々まで一定以上の質の高さをもたらしている。そして常にその向上も。やたら作家性や個性に挑戦した作品や、余程の失敗作でない限り、撮影、カメラ、演出、演技、編集といった各部分の技術は練り込まれ鍛え上げられ常に高レベルを維持する状態になっている。物理的な技術は熟成しているといっていい。残っているのはアイデア、目新しいストーリー、それを映画という形にまとめた脚本だ。結局大昔から言われてきた通り、映画は脚本あってのもの。それがマンネリ化しアイデアに枯渇しはじめているからハリウッド映画が詰まらなくなってきている。あともう一つ必要なスパイスは監督が映画に込める思想、主張、哲学。

●しかしこの作品、湾岸戦争後のイラクバグダッド駐留米軍という実にキナ臭い問題を取り扱っていながら、硝煙の臭いが殆ど漂ってこない。イラク人ゲリラによってアメリカ人駐留兵が多数殺され、限りなく泥沼化していった事態のど真ん中を描いていながらその緊迫感や悲壮感、イラク人の悲しみや憎しみ、アメリカ兵の怒りや失望が殆ど全くと言っていいほど漂ってこない。

●普通に考えれば、アメリカでも社会問題化し、ブッシュ政権の足下もぐらつかせたイラク駐留米軍を扱っていればなんらかの政治的な意向が映画の中に盛り込まれるものだ。しかしこの映画、そういったものが殆どなにもない。駐留アメリカ軍を非難、告発するわけでもなく、アメリカ兵を殺害するイラク人ゲリラを非難、告発しているわけでもない。

●こどもの体に爆弾を埋め込み、人間爆弾を作っている施設のシーンでは多少ではあるが、こんな行為に対する監督の怒りが垣間見えていたが、それ以外は全くといっていいほど思想的、政治的な表現、演出はない。

イラクにもアメリカにも、どちらの側にも寄らない中立的な立場だと言えない事もない。だがこの映画から感じるのは、敢えて中立的な立場を取ったというよりも、

イラクアメリカも、バグダッドで起きている問題も、アメリカ兵がイラク人を殺し、イラク人がアメリカ兵を殺し、小さな子供までもが人間爆弾とされ血なま臭く、悲惨でむごたらしい戦争、それを起こしたアメリカ、それに抵抗するイラク、そんなものは私には関係ない。私は撮りたい映画の状況設定としてイラク駐留米軍を選んだだけであり、その背後にあるものは全く関心がない、関係ない。私はエンターテイメント映画を撮りたかったのであり、何か問題提議をするような、社会性をもったような告発映画を撮りたかったわけではないのだ』

と言わんがばかりの全く政治、思想色を排除した考えだ。

●もちろん”映画”として考えるならばそれもありだ。何も思想性や政治色を映画に付け加える必要なの”映画”には全く必要ない。しかし、ことさら、このイラク駐留米軍という非常に敏感な問題を手に取り上げながら、その政治的な部分や、その問題の深刻さ、そのおぞましさと言った部分には一切目を向けないというのには、大きな違和感を感じる。それは不謹慎ではないか、そう思うのだ。

●爆弾処理という手に汗握るエンターテイメント作品としては一級の出来栄えだ。だが、それをイラクバグダッドを舞台にして描くのはおかしい。実際に起こっていることだとはいえ、今まさに人間が殺し殺されるという状況が進行しているその場所を使って娯楽作品を描くというのはおかしくないか? 例えるなら9.11のあのグラウンドゼロを舞台にしてエンターテイメント映画を作ったらアメリカ人はどう思う? なにかそういった納得のいかない不謹慎さ、デタラメさがこの映画から感じられそれが自分の中に納得のいかない不快感を生じさせている。

●まるでSF映画でも観ているかのような作品であり、爆弾を処理するシーンなどはスリルもあるし、非常に面白い。エイリアンの卵を処分しようとしている宇宙船の乗組員のようでもある。多分にSF映画的な要素を取り入れて娯楽作品としての面白さを倍増させたかのようでもあるが、空想の世界の中で描くSFではなく、実際の現実社会の中にSF的演出を組み込み、目を背けては行けない現実問題の上に娯楽要素を被せていることが、この映画の間違った有り様であり、監督、制作陣の不謹慎な精神に「おまえら、それでいいのか」「おまえらわかってるのか」と声を荒げたくなる部分でもあるのだ。

●そんな作品が「アバター」を抑えて2009年のアカデミー賞を作品賞を含めて6部門も受賞した。アカデミー賞の選考があれこれロビー活動や金やスタジオの力関係などで歪んでいるのは周知の事実だが、惜しむらくは、この作品を作品賞および最多受賞としたことにはアカデミー賞その歪みを証明しているようなものでもあろう。だが、作品賞受賞作品としては記録的とも言える興行成績の不振。それはアメリカの観客がこの映画を観る以前にこの映画の正体に怪訝さを抱き、アメリカが深く関わり、アメリカ人の心に深く刺さったトゲのようになったイラクと駐留軍の問題に対する制作陣の意識、心、不謹慎な姿勢に拒絶反応を示し、侮蔑して映画を拒否することによりこの映画にたいする抵抗をしめしたのではないだろうか。そこにはまだ少しだけ残った、自由の国アメリカの一般市民の良識というものが垣間見えている気がする。

●だが、ここで少し思った。ハリウッドの過去の戦争映画で名作、大作とされているものには戦争を娯楽映画化しているものがある。「遠すぎた橋」「史上最大の作戦」「ナバロンの要塞」などはその典型的な例となる。ハリウッドには悲惨で戒むべき戦争を娯楽映画化する系統があるということだ。いやハリウッドだけではない、日本も・・・。


参考ページ
http://longtailworld.blogspot.com/2010/03/what-hurt-locker-means.html