『さまよう刃』

●重たい映画だ、社会派の問題提議をするような映画は絶対に必要だが、この重いテーマは観るのはかなりしんどい。ベストセラー作家である東野圭吾知名度とブランド力がなければこの内容は通常製作委員会も集まり難いし、劇場も公開を渋る。このヘビーな内容の映画が全国公開されたのは、一重に原作:東野圭吾という押しも押されぬ名前の力が大きいと言えるだろう。

●少女が拉致され、薬を打たれ犯され殺されるというシーンは回避している。話題作りや集客目当てでむごたらしい犯行シーンを挿入する映画は多いが、この作品は父親の苦しみと苦悩を映すことで犯行の残忍さを観る者に伝える。映画表現の手法としてインパクトは弱かろうとも、この監督の取った手法を自分は支持する。
それは『闇の子供たち』で引用した恵泉女学園大学の斉藤百合子さんの言葉に納得するからだ。
「センセーショナルに取り上げれば取り上げるほど、現代は、こうした犯罪行為に逆に感心を抱いて行動する輩が発生する。これまで少女が誘拐された末に殺害された事件等を見ていても、事件報道に触発されて同じような犯罪行動をおこす人間が発生しがちではなかったか」

少年法の擁護や、死刑廃止を訴える人には賛同しない。「少年には、人には更生の可能性がある、だから重刑、死刑を与えてはならない」とする論を支持しない。人間の命を奪っても犯罪者は極刑にはならず、のうのうと生き続け、愛する者の命を奪われた被害者だけが、ただひたすら悲しみと苦しみに耐えつづけなければならないなどという世の中などあってはならない。罪は償われなければならない。人の命を奪った罪を償うことなく、犯罪者を社会に戻すことが正しいことなのか? 犯罪者の将来の更生の可能性の方が、人の命を奪った罪を償うことよりも大事だと言うのか? 償いは対価によって行われる。人の命を奪った償いは犯罪者の命をもって償われなければならないではないのか? 極刑になることが無いと知る犯罪者は再び犯罪を繰り返し、悲しみにくれる被害者だけが増えてゆく。加害犯罪者の人権ばかりを声高くさけび、被害者の人権とその悲しみの深さに考慮しない人権主義者には人間として疑念を抱く。「あなたの家族が殺されたなら、あなたは同じことをいうのですか? 加害者の人権を擁護するのですか?」と。

少年法や被害者の復讐、報復の連鎖、悪法のことは『告白』の批評でも思うことを書いた。

●別荘から逃げ出した犯人を長峰がライフ持って追いかける時、川崎シネチッタに逃げ込んだ犯人に長峰がライフルを付き付けた時、画面を観ながら心の中で「殺れ、殺ってしまえ」と思っていた。こんな犯罪者は殺してしまうんだと長峰を応援していた。そして最後はどうなるか、この映画は最後にどっちの結末を見せるのかと生唾を飲み込み展開を見守った。

●そして、結末は自分の願った方にはならなかった、自分が想像した方になった。

●簡単には答えを出すことのできない少年法の問題に踏み込んだこの映画は、正直結末は見えていた。原作は未読だが、たぶん映画の最後はこうなるだろうと読めていた。今の日本ではそれ以外の結末を出すことは物議を醸し出す事にしか繋がらないからだ。余計な波風を立てるよりも、現行の少年法に異議を唱えようとも、結局は落ち着くべき場所に落ち着けたこの結末に不満が無いわけではない。どうせなら突き詰めるところまで突き詰めて欲しかった。映画ならそれが出来るのだから。だが、監督がそれを希望したとしても、この映画に出資した製作サイドの会社は、それを許可しなかっただろう、波風を立てたくなかったからだ。

●これだけの社会問題、少年法問題を取り上げたのならば、それが今の法の下では非だとしても、はっきりとした結論を最後に持ちだして欲しかった。殺された娘の恨みを、被害者家族の恨みを晴らす方法を、殺しても、自分は殺されないと悪法の傘の下に逃げ込み、罪の償いなど欠片ほども思わない犯罪者を真に罰する方法を。もしそこまで踏み込めば、この映画は異色の問題作になったかもしれないし、もっと言葉を交わされ、もっと語られる作品になったかもしれない。

竹野内豊と伊東史郎は刑事側としてなかなかいいキャスティングだった。
○寺尾總はラストの弱さに繋がるのであれば子煩悩な父親、本当は復讐などできない父親の役としては合っていた。
○「法律が傷つくのを守るために、警察は駆けずり回っている。犯人を捕まえるためではなく」
 「一度生じた悪は決して消えない」
○あちこちに設定の甘さは目に付く、留守電のことやら、堀部(竹野内)がいきなり長峰の携帯に連絡するだとか。
 煮詰めきられていないご都合主義的な部分が散見される。