『プール』(2009)

●これは久々に出会ってしまった、酷い作品だ。邦画製作の醜悪な部分を見事なまでに露呈し、興行を取ることにせせこましく手をこまねき、映画作りの意地も、誇りも、なにもかもを自棄し、映画作りのプライドすらもない作品だ。製作陣や監督にこれっぽっちでも映画に関わるプライドが残っていたらこんな作品は撮らなかっただろう。これは現在の映画製作が堕落した有り様を見るサンプルとも言える。

●自分も見事に騙されてこの映画を見てしまった一人だ。『かもめ食堂』のスタッフ、キャストが送る映画というコピー。 『めがね』を彷彿させるポスター。小林聡美もたいまさこ加瀬亮が並んでいればだれでもあの名作『めがね』を思い浮かべる。あの監督が、あのスタッフやキャストがまた新しい映画を作ったんだと期待する。しかしそれは映画ファンを、観客を騙すあくどく汚い仕業であった。

●名作『かもめ食堂』、『めがね』荻上直子監督が同じスタッフ、キャストを再集結させて撮り上げた作品であるならば、かなりの期待が出来る。観客は素直にそう考える。この二つの作品はすでに高い評価を受け、観て損はしない作品との認識が定着しているからだ。この監督とこの役者とスタッフが揃っているならば、きっとまたイイ作品を作っているはずだ。『かもめ食堂』や『めがね』を観た時の充実感をまた味あわせてくれる。観客はそう思って『プール』を観る。しかしその期待はとことん裏切られる。

●なぜこんな映画を作ったんだろう。それはもう明らかだ。売るため、稼ぐためだ。『かもめ食堂』や『めがね』の高い評価の傘下に潜り込み、同じキャストで同じテイストで映画を作れば、ある程度以上の観客動員は保証されたようなものだ。売れている者を真似れば、そこそこ売れる。クロックスのサンダルと同じようなものを作ればそこそこに売れる。それと全く同じ考えだ。人気あるものの勢いを借りて自分もひと儲けする・・・そう、それはいやらしき便乗商売だ。

●商売の世界ならそんなことは日常茶飯事だ、真似される位でこそ本当だと言う格言もある。しかしこれは映画なのだ、新しいものを生み出し、人を感動させるべき映画という世界にモノ商売と同じ定規を持ちこんでいる。そこまでやったならば、それは映画の誇りもプライドも捨てたタダのシステムだ。ディスカウントセンターに並ぶ類似品、コピー品と同じものだ。

大森美香という監督はどうしてこんな作品を引き受けたのだろう? 荻上直子監督のコピー商品をつくることに映画人としての、製作者、クリエーターとしての良心の呵責はなかったのか? それを許さぬほんのちょっとのプライドすらもなかったのか? 映画を観ていたら、こんな映画を監督することを受け、こんな俗悪模倣品のような映画を作る映画監督に怒りを覚えた。こんな映画を撮り、公開する監督に恥を知れと言いたい気分になった。こんな映画を作る監督は、最低である。

●映画人として、クリエーターとしてのプライドが少しでもあったら、こんな映画の監督なんて引き受けない、こんな映画を作ったりしない。金儲けする側の雇われサラリーマンであるプロデューサーや出資会社の社員であるなら、人が入るなら、リクープ出来るなら、儲かるならなんだってやる。だが同じことを映画を創り出す監督がやったならば、出来あがった作品には映画の夢も、希望も、感動も宿ることはない。こんな映画を作ったということは、この監督の目線はプロデューサーや出資会社と同じ守銭奴レベルに立っていたということだ。酷い書き方かもしれないが、この映画を観ていたらその位腹立たしさを覚えた。映画には監督の精神や思想、スタンスが見事に投影される。こんな映画を作るということはこの監督はクリエーターとしては底まで堕した監督だと言わざるをえない。

桜沢エリカが映画用に書き下ろした作品を脚本化し、映画化したということだが、たぶんこの内容からすれば、オリジナル作品をそのまま映画化しても人を呼べるような映画にはならない予想したのだろう。じゃあどうするか?ということで『めがね』の皮を被せ、『めがね』の登場人物を同じく起用することで集客を図ろうと企んだのだ。その魂胆はある程度成功しただろうが、映画の価値をとことんまで貶めるものでもあったのだ。

●マインドとして最低と思われる映画が、さらに出来あがりも酷いものだった。『めがね』の形式をなぞっているのに、この映画では劇中にユーモアというものが全く存在していない。皆無だ。『かもめ食堂』や『めがね』には思わず口元を緩めてしまうようなユーモアが随所に散りばめられていた。そのユーモアが映画をほのぼのと面白可笑しいものにしてくれていたのだ。しかし『プール』においては何一つ笑えるようなユーモアがぞんざいしない、全くの皆無だ。形だけ『めがね』を模倣しながら、中身の良い部分は何一つ抽出していない、形は真似しながら中身は真似ることをしていない。『めがね』はヒットしたエッセンスを形式的にだけ模倣し、なぜヒットしたのかという本質の部分はなにも学んでいない、真似していない。だから作品としても『プール』は作品としてもスカスカの全く面白くない映画に成り下がってしまっているのだ。

●劇中に出てくる料理や食事シーンもなってない。食べたいという食欲湧いてこないし、よだれが滲んでくることもない。スクランブルエッグにフランクフルとソーセージではマクドナルドの朝メニューではないか!

●揚げバナナもピクルスも、タイ鍋に画面から美味しそうな匂いが漂ってこない。料理が出来上がるまでのシーンが無いからだ。素材を切って、調理して、美味しそうな食事になるまでの過程が全く描かれていないから、これは美味しそうな料理になるなぁ、食べたいなぁという期待感がまるで高まってこない。滲んできた唾を飲み込むこともない。

●引きでばかり撮影した食事の風景もだめだ、もっと近づいてもぐもぐと口を動かしているシーンこそが「美味しそう」「たべたいな」という欲求を喚起するのに、ずっと引きの撮影で食べている遠景しか映していないのでは食事シーンの意味がないではないか! これでは『かもめ食堂』が映しだした料理の美味しさの表現に足元にも及ばない。

●モデルで映画初出演の伽奈は劇中ずっとブスっとした顔、演技というものを全くしていない、させていない。いくら映画初出演とはいえこれは酷過ぎる。まるで演技の出来ない人間をキャスティングし、監督も演技をさせていないでは、作品中にその役が存在する意味がないではないか!それとも無理に演技をさせても粗が出るから敢て何もさせなかったのか? いずれにせよこの映画の中で伽奈はウドの大木か木偶の坊の役になってしまっている。

●タイトルにもされた『プール』が全く作品に絡んでいない。何をも象徴していない。無理に何かにこじつけようとしてもこれでは無理だ。プールはただの宿の風景の一つでしかない。

●この映画を観ていたら、作品の裏にあるどうしようもない精神に腹立たしくなってきてしまった。

●紛いなりにも映画人ならば、映画に携わって映画を好きならば、こんな紛いものの偽映画を作ってはいけない。上っ面だけを真似た模倣、劣化コピーのようなこんな映画を作ったということは、それだけで恥ずべきことだ。

●こんな映画を作った監督、スタッフ、関係者には「君たちには映画を作る誇りもプライドもないのか」と怒りをぶちまけたくなってしまう。

●これは最低のマインドで作られた最低の映画だと思う。

☆プール公式サイト:http://pool-movie.com/
☆プール伽奈さんにインタビュー:http://jugem.jp/fun/interview/05/