『メッセンジャー』(1999)

ホイチョイ・ムービーではこれだけが未見だった。

ホイチョイ・ムービーはもともとベタなストーリー、ベタな展開だが、この映画はそのベタさに悪乗りしてもうかなりベタベタ。

●前半の飯島直子の演技はギャグとはいえ、あまりにも観ていて痛い。

●脇役で伊藤裕子が出ているが、この頃の伊藤裕子は美人だなぁと思う。ブレイクしなかったのが惜しいなぁと思う。

ホイチョイらしいといえばそれまでだが、話が余りにくだらなくて、見え透いていて、作る側のご都合主義に塗り固められていて辟易としてしまう。

ホイチョイ・ムービーの中では過去三作を超えて最高興行だったということだが、それが映画の良さを表しているわけではない。ビジネス・モデルとして、宣伝、タイアップ、TVコマーシャルと使えるメディアをすべて宣伝販促にパッケージ化したTV局の映画製作の形がこの作品辺りから機能しはじめたということ。それは同時にこの作品の辺りから観客はTV局の策略に見事にどっぷりと乗せられ、丸めこまれ始めたということでもある。宣伝に乗せられていることが、流行りに乗り遅れていないとことと思わされ、ある意味イベントに参加するかのように映画を観に行く。『メッセンジャー』の大ヒットというのはそんなものだったのだ。それは今の『踊る大捜査線3』の状況の源とも言えるだろう。

●1980年後半から90年に掛けてのホイチョイ3部作の中で『彼女が水着にきがえたら』は今一つ人気が低い。それはやたらと作品の中で企業タイアップだとか宣伝があからさまに見え透いていたからだ。観客はそういったあざとらしさやいやらしさに敏感に反応する。そしてホイチョイ3部作の中で『彼女が水着に着替えたら』が一番人気が無い理由は、他のに作品にあるロマンが映画の中に漂っていないからだ。

●『メッセンジャー』では作品の中に企業、商品宣伝をベタベタと貼り付ける『彼女が水着に着替えたら』的失敗は犯していない。同じ轍は二度と踏まないということではいいのだが、もうひとつの重要な点が『彼女が水着にきがえたら』と同じなのだ。それは作品の中にロマンが漂っていないということなのだ。

●何気に思いついて観てみた『メッセンジャー』だが、これはどうしょうもなく詰まらなかった。あまりに表面的な話のスカスカさに、途中から観るのも嫌になってきた。とりあえず最後まで観はしたが、まったくどこにも感動もせず、共感もせず、子供が作った拙い演劇でも観ているかのようだった。

●リアルタイムで1999年にこれを観ていたら、もう少し違った印象があっただろうか? TV局の宣伝が作ったイベントの熱の中でこれを観ていたらもう少しは乗りが良かっただろうか? いや、たぶん同じだっただろう。

●端にも棒にもかからぬような鉛筆で枠組みだけ描いたような映画。これはもう作品と言える質すらない。

メッセンジャーhttp://messengers.webooks.co.jp/